49話 涙とミルクとメンテナンス
イグナレスに連れてこられたのは、執務室のさらに奥にある、おそらく彼の私室だった。
黒を基調とした重厚なインテリア。窓は分厚いカーテンで閉ざされ、外界の一切を遮断しているようだった。家具は、ベッドもソファも人間規格より少し大きい。
彼は私を天蓋付きの広いベッドに下ろした。ふわりと身体が沈み込むマットレス。
けれど、私の震えは止まらない。私はまだ涙をこぼしてしゃくりあげ、目元を両手で覆っていた。
「うぅ……っ、ご、ごめんなさい……ごめん、なさい……」
口をついて出るのは謝罪ばかり。
瞼の裏に焼きついたようで、いやでも思い出してしまう。
ロイの失意に満ちた目。血を吐くフォーゲル。会えて嬉しいはずなのに恐ろしく思ってしまった姉。腕を失ったヴァルト。そして──シオさんが処刑されてしまったという、事実。
全部、私のせいだ。私が弱くて、馬鹿で、役立たずだから。
「……汚れていますね」
イグナレスが、私の頬にこびりついた泥を指で拭った。
彼は顔をしかめると、パチンと指を鳴らす。温かい風が私の全身を包み込み、瞬く間に服や肌についた戦場の汚れ──血と煤を浄化していった。
「……落ち着きましたか?」
「……っ、うぅ……」
私は首を横に振った。涙が飛び散った。体は綺麗になっても、心の中は泥だらけみたいな感じだ。
「私なんか……助けなくて、よかったのに……」
嗚咽交じりに、やけくそになって呟く。
「こんな…やくたたずの、私なんか…ほっといて……」
「いい加減になさい」
イグナレスは冷たく遮ると、サイドテーブルに視線を向けた。
そこにはいつの間にか、湯気の立つマグカップが現れている。仄かに甘い香りがする。ホットミルクだ。
「飲みなさい……きっと、少しは落ち着く。そして休みなさい」
彼はカップを手に取ると、私の口元に静かに差し出した。
「さぁ」
私は涙ぐみながら、顔を背けた。
「いらない……私にそんな資格…ない……」
仲間が傷ついて苦しんでいるのに、私だけ温かいミルクを飲んで、守られて、眠るなんて。そんなことできるわけがない。それに、なんだか怖かった。彼の優しさが、今は痛いくらいだ。本当にもう、今は放っておいて欲しかった。
「……はぁ」
頭上で、深く、重い溜息が聞こえた。
叱責が飛んだっていいはずだ。戦場であれだけ命令を無視したのだから、せめて帰ってきてからは大人しくいうことをきけって、怒鳴られたっておかしくない。
けれど彼は、何も言わなかった。ただ、壊れたものを見るような目で私を見下ろし──
ガタリ。ベッドに、私のかたわらに腰を下ろした。
「本当に……手のかかる」
呆れたように囁いた彼はミルクを一口、自らの口に含んだかと思うと──
グイッ、と。 私の顎を掴み、強引に上を向かせた。
「え……んぐっ!?」
冷たい唇が、私の唇を塞ぐ。驚いて少し開いた口の中に、温かい液体が流し込まれた。
「んっ、ふ……っ!?」
ミルクの甘さと、濃厚な──なにかの味。なんともいえない、決して不味くはない、むしろ脳を蕩かせるようなそれが喉の奥へ、胃の腑へ、強制的に流し込まれていく。自然と、こくん、と喉が鳴って飲み下した。
私が飲み込むのを確認すると、彼は一度唇を離し──銀の糸を引きながら、私の濡れた唇を親指で拭った。
「……ぷはっ……!な、なにを……!」
「あまりの疲労に、ひとりで飲めないのでしょう?」
イグナレスは悪びれもせず、冷ややかに言った。その瞳は細められ、明らかに苛立っている。しかし私の顎を掴む冷たい指には、必要以上の力は込められておらず、吸い付くように私の肌にはりついていた。
「手がかかる部下だ」
低い声で囁くと残りのミルクもあおり、逃げようとした私の顎を掴み、再び顔を固定した。
「んぅっ……!」
二度目の口移し。しかも今度は、舌が入り込んでくる。逃げようとする私の舌を絡め取り、唾液と共になにかを擦り付けるように、深く、粘着質に。
「ん…んぶ、うぅ…!」
抵抗しようとしたが、徐々に指先の力が抜け、頭がぼんやりと霞んでいく。熱い。身体が芯から熱くて、彼の冷たい体温が気持ちいいと感じてしまう。この感覚は、反省会の時に薬湯を口にした時と似ていた。
「……っ、はぁ……」
ようやく解放された時、私は荒い息を吐きながら、ずるりとイグナレスの胸にもたれかかった。
「……ひ、ひどい、です……」
力無く非難するが、彼はどこ吹く風だ。
「言うことを聞かないからです」
彼は私の髪を梳きながら、呪文のように甘く囁く。
「いい加減に、泣き止みなさい。……お前は悪くないのだから」
「……でも……」
「もとより、加護の付与には精神の安定が不可欠ということは予想がついていました。今回はそこを敵に突かれ、我々が対応できなかっただけのこと」
彼の指が、私の頬を優しく撫でる。
「シオとやらが死んだのも…人間の法が、彼を殺したからだ。お前のせいではない」
「……っ!」
「もう、何も考えなくていい。ここで眠りなさい」
それは、甘い毒のような慰めだった。
私の罪悪感を麻痺させ、思考を停止させるみたいな言葉。そんなことない、大体は私のせいだって分かっているのに、弱りきった心には、それがどうしようもなく救いに聞こえてしまう。
イグナレスの瞳の奥に、昏い光が見えた。私の涙を見て、彼は苛立っている。けれどそれは私に対して向けられているような気はせず──なにか他のものへの、底知れない憎悪のような気がした。
そして同時に。弱りきり、彼に縋るしかない私を見て、どこか奇妙に満足げにも見えた。
──なんか、疲れちゃった。眠くて、体が重くて、でも、今はあったかい…。
瞼が重い。思考が溶けていく。今はもう、この人の言う通りにしていたい。
「……いい子だ」
私の意識が沈みかけているのを察して、イグナレスが満足げに微笑んだ。 彼は私の額に──出撃前と同じ場所に、再び口づけを落とす。
「ゆっくり、眠りなさい」
視界が暗くなる。 最後に見たのは、昏い熱を宿した金色の瞳と、逃がさないみたいに私の手を握る、美しい手だった。
私は、目を閉じる。その意識は冷たくて温かい闇へと、静かに落ちていった。
◆
ベッドで、少女が寝息を立てている。薬効と魔力の効果で、すぐに深い眠りに落ちたようだ。涙の痕が残る頬はまだ白いが、呼吸は安定している。
「……はぁ」
私は、本日何度目かの、しかし今度は安堵の混じった溜め息を吐いた。
彼女の手をそっと離す。その際、彼女のシャツの胸ポケットが、微かに膨らんでいるのが目に入った。
──これは。
私は眉を顰め、眠る彼女を起こさぬよう慎重にポケットからそれを取り出した。 冷たく、透明な輝きを失った小さな石。
見覚えがある。いや、正確には──私が視ていたものだ。
まだ彼女がこの城に来て間もない頃。夜な夜な彼女がこの石を握りしめて誰かに話しかけているのを、監視魔法(魔眼)越しに見ていた。
彼女は毎晩、この石に縋るように話しかけていた。その相手が「シオ」という名の男であり──おそらくは、彼女の想い人であることも。その監視を通じて知っていた。
「……なるほど」
掌の上で転がし、軽く魔力を流して検分する。すぐに、その正体が判明した。
「音響石……それも、かなり特殊な術式が組まれている」
微かに残留している魔力の痕跡から、この石の機能が読み取れる。音声を記録し、再生するだけでなく、持ち主の魔力に感応して、幻聴や幻覚を見せる機能まで組み込まれているようだ。おそらく、彼女の精神安定のために、人間側の誰かが持たせたものだろう。
だが今はもう、ただの石ころだ。内部の魔力は完全にカラで、術式も焼き切れている。
「……あの時に、使い切ったか」
ある日の晩、彼女がこの石を握りしめて泣いていた。それ以降は、自分の確認する限りは石に話しかけることはなくなっていたはずだ。
記録されていた声は消滅し、石は沈黙した。
ユウカは気付いているのだろうか。この石を通じて、本物のシオと話せた時など一度もないと。
「……愚かな」
私は冷ややかに呟いた。おそらく彼女はそのことに気づいていない…。
──だが、利用できる。
私の思考は、瞬時に個人の感情から計算へと切り替わった。
現在の最大の問題は、ユウカの精神状態だ。彼女の心は今、シオの死と、姉やロイとの決別に揺れ動き、崩壊寸前にある。このままでは、彼女の加護は不安定になり、我々の戦力として機能しなくなる。
特に危険なのは、シオへの未練だ。死者への想いは美化され、永遠に残る。彼女の中でシオが聖域となってしまえば、私がどれだけ魔力を注ぎ込んでも、彼女の心を支配することはできない。
ならば、どうするか。
「……区切りをつけさせるしかない」
私は、手の中の石を握りしめた。
彼女に、シオとの“本当の別れ”を演出してやる必要がある。
「……忌々しい男」
死してなお、彼女の心を縛り付ける男への憎悪が湧き上がる。だが、その憎悪すらも、私は利用する。
「お前との思い出ごと……彼女の全てを、頂くとしよう」
私は眠るユウカの顔を見下ろした。 無防備で、愚かで、愛おしい我らの剣。
明日の朝、彼女が目覚めたら──完璧な救済を始めよう。 私は石を懐にしまい、静かに部屋の明かりを落とした。




