43話 どいつもこいつも
魔王城の最深部──司令殿は、冷たい緊張で張り詰めていた。
黒曜石の床が計器の光を反射し、壁一面に刻まれた魔術符が赤く脈打っている。巨大な水晶盤が中央に鎮座し、戦場の俯瞰映像が淡い光と共に映し出されていた。
私は腕を組み、水晶盤が示す座標を目で追う。次々と変わる戦況を把握する。
伝令魔が羽音を立てて飛び交い、報告係である四つ腕の魔族ザルギスが、水晶を操りながら声を張り上げた。
「報告!東側陣形、崩壊寸前!」
「前線に…王都騎士、ロイ確認!」
──出たか。
私は瞳を細めた。
王都騎士、ロイ。
加護を得て、敵勢力で最大の戦力を誇る人間個体だ。これを抑えることができるのは、今回の自陣ではただ一人。
「ヴァルトは」
「まもなくロイと接敵!」
良いだろう。
さて、ユウカの加護を得たヴァルトがどこまで奴を削れるか。始末できればそれ以上の成果はないが、果たして。
此度の異邦人の加護は強力だ。百年前の異邦人のそれを大きく上回る。
王都軍(奴ら)が、旧異邦人を捨ててまで召喚に挑んだという、もう一人の異邦人。
意図的に喚んだのか、偶然かは知らんが……。
これだけ敵兵の加護が強いのだ。恐らく、その異邦人もこの戦場のどこかにいる。ユウカと同様に、兵を見渡せる位置取りで祈りを捧げていることだろう。
──忌々しい……!見つけることさえできれば、すぐにでも首を掻き切ってやるものを!
私は水晶盤を静かに睨みつけていたが、ハッとした。
素早く指を滑らせる。 そこに映し出される金色の波動が弱まり、兵士たちの修復が止まりかけているのが見えた。先ほどまでの、強い光が弱まっている。
嫌な予感が、冷たく心臓を脈打たせた。
「修復率を報告せよ」
低い声で命じると、堰を切ったように次々と魔族たちの声が響いた。
「全軍、回復停止! 負傷兵多数!」
「魔力残量、急激に低下!」
「加護の効果、半減確認!」
「ヴァルト、肩部・胸部に深手! 戦闘継続中!」
報告が重なるたび、水晶盤に触れる指に力がこもる。
──間違いない。ユウカの加護が、揺らいでいる。
水晶に映る騎士、ロイ。その間合いには入ってはいないが、ユウカを置く陣営に近い。
頬に冷たい汗が流れる ……奴は、彼女を狙っている? 会話をしたのか? それで彼女の精神が揺らいだ?
いずれにせよ、加護の揺らぎによる兵士の修復停止と魔力低下。最大戦力であるヴァルトの負傷。強化と修復が機能しないのであれば、ロイの始末どころではない。このままでは、戦力と魔力の損耗が致命的だ。
──ここまでか。
「撤退だ。殿を残し即時、全軍撤退!」
低く鋭く命じた。司令室の空気が切り替わり、報告や指示が更に激しく飛び交い始める。
「はっ!」
伝令魔が飛び立ち、命令が戦場へ響く。一匹の伝令魔が水晶で位置取りを確認しながら見上げる。
「異邦人ユウカは?」
「ヴァルトに回収させなさい。優先的に戦線離脱、ワープ地点へ。他の者は援護を」
私がそう告げた瞬間、水晶盤を操る一つ目の魔族が声を上げた。
「ヴァルト、命令違反! 殿を務めると宣言、異邦者をフォーゲルに託し──戦場へ!」
「……何だと?」
こめかみに青筋が浮かぶ。
──お前はユウカの護衛だろうが!
叫びそうになるほどの怒りを堪え、重い息を吐く。ヴァルトが戦場において……いや、どこにおいても命令違反を繰り返すのはいつものことだ。
今度こそあいつに甘い魔王陛下にもお叱り頂かなければと思いながら、「ユウカはフォーゲルに運ばせろ!」と指示した。
しかし、次の報告に私は顔色を変えた。
「異邦者ユウカ、撤退を拒否しております──!」
「……ッ!?」
──馬鹿な。何を考えている、ユウカ!
水晶盤に、フォーゲルに腕を掴まれ抵抗しているユウカの姿が映る。
「異邦人ユウカ、ひどく取り乱しているようです。その、ヴァ、ヴァルト殿と残る、と……」
困惑した顔で、耳の大きな魔族が報告する。私は水晶を叩き割りそうになった。
──どいつもこいつも!
ひぃ、と飛び回っている伝令魔が、私の顔を見て離れる。
「フォーゲルに、ワープ地点へユウカを引きずってでも連れていけと伝えろ!」
その時だった。
水晶の映像──ユウカとフォーゲルを映す位置が、一瞬ホワイトアウトした。
「何が起こった!?」
傍を見下ろすと、ザルギスが青ざめて四つの腕を強張らせていた。
「異邦者ユウカの座標で爆発が発生!」
一瞬、周囲の音がブツリと切れたような。脳が突然機能しなくなったような。 とにかくイグナレスは、眼を見開き硬直し、水晶盤に触れる指の温度が下がっていくのを感じていた。
……爆発。王都側から投げ込まれた、魔術爆弾の類か。シールドを張れるものは近くにいなかった。脆弱な人間があんなものを喰らえば……。
「……ユウカの生存反応、確認!」
はっとして、水晶盤を見つめる。 白い煙が晴れると、そこには……血まみれのフォーゲルと、その傍らに座り込むユウカの姿があった。
……ほぼ無傷で生きている。
黒いマントが彼女の身体を包み、薄く光っていた。防刃・対魔術の術式を施したマントが功を奏し、加えてフォーゲルが身を挺して守ったことで、ユウカは無事だった…。
安堵が胸を掠めた。その時。
「異邦人ユウカの座標に、敵影確認!至近距離です!」
再び、脳が一気に冷えたようだった。
「……王都騎士、ロイです!」
「……ッ!」
水晶の中に、青い光を纏わせた剣を手にする騎士。ロイの姿が──ユウカの、まさに眼前にあった。
ヴァルトの姿がない……撃破されたのか。
「……誰でもいい!誰か向かわせろ、早く!」
伝令魔に叫ぶ。だが、頭の隅で分かっていた。
──間に合わない!
何をしようが、もう、間に合わない。こちらでできることはない。あの異邦人の光を帯びた剣が、ユウカの命を絶つのを、見ていることしか──。
──いや。ひとつ。ひとつだけ、できることがある。
「強制転移を敢行する! 転界魔力を開け!」
一瞬、司令殿の空気が凍り付いたが、私の部下たちはすぐさま脳を切り替え動いた。
「きょ、強制転移、準備! 転界魔力、接続!」
「詠唱開始! 発動まで──三分!」
三分。
魔族である我々からすると、瞬きの時間とすら感じない、一瞬。 しかし、この時の私にとってそれは、長い生の中で初めての、永遠にも感じられる時間だった。
私は水晶に手をついた。冷たい指先が、僅かに震えている。
水晶越しに、ユウカがゆっくりと…生気のない顔を、騎士に向けていた。
◆
血まみれの、フォーゲルの背中と翼。
私は呆然と、彼に寄り添うようにその場に座り込んでいた。
周囲の味方の兵士は、皆赤いナイフが刺さっていてぴくりともしない。魔力反応もほぼない……フォーゲルのそれも、今私の膝の上で、消えかけている。
その時、足音がした。硬い、鎧の擦れる音。 私はぼんやりと顔を上げた。
縺れるように機能しない思考の中で、それが味方かもしれないと、一瞬思った。
でも、なんとなく違うんじゃないか、という予感もしていた。
土煙の向こう、爆発で折れた木々を乗り越え──現れたのは、青いマントと血濡れた白銀の鎧。
「ユウカ」
静かに、冷たい瞳で私を見つめる、ロイだった。
「あ……」
もう、逃げる余力も、命乞いをする気力もなかった。
ただ、倒れ伏すフォーゲルの腕をぎゅっと掴んだ。
「シオに命を救われ……王都を去った……お前の行きつく先が」
ロイは、一歩ずつ。確実にこちらへ歩を進めながら、低い声で告げた。
「その薄汚い……魔族のかたわらか」
──薄汚い……魔族?
私は目を見開いた。呆然と、縺れて機能しなかった脳が、感情が、突然動き出したような。
「……なく、ない」
私は俯いて、フォーゲルの血だらけの翼を見つめた。
力強く空を羽ばたいていた、そして私を守ってくれた、この翼を。
そして思い出していた。私の前に立ち、その力を振るう異形の少年を。
「汚く……なんかない。私を、守ってくれた……フォーゲルさんも、ヴァルトも……」
ロイの足が止まる。私は、ロイを正面から睨みつけた。
「私の、大切な存在です……!」
ロイは、苦しそうに瞳を歪めた。その眼光には、救えないものを見るような憐れみがあった。
「シオも、まさかお前が人間の敵になるとは思っていなかったろう」
剣を横なぎにフッと振るうと、白銀の刃にこびりついていた血が舞い散った。
「……“ヴァルト”。あの黒い少年か。奴は……」
私はフォーゲルを抱きしめながら、沈黙を返す。
「先ほど、我が剣で絶った」
ひゅう、と喉が小さく鳴った。
──嘘だ、ヴァルトは強いんだから。しぬ、わけ。
そう思ったけど、頭のどこかで分かっていた。
ロイは、加護を得ている。ヴァルトは、私が加護を付与することができなくて。
そしてヴァルトが殿を務めると言って去った理由は……おそらく、ロイの足止めは、自分以外はできないと思ったからだ。
そのロイがここに来た。ヴァルトはいない。
「──」
涙は、出てこなかった。ばいばい、って彼の言葉が、頭の中に響く。
「ユウカ……今、楽にしてやる」
ロイの声が、静かに響いた。
私への最期の言葉として放ったのだろう。場違いに優しくて、慈しみすら感じる。私のことを憎んでなんかいない、ただ、哀れだと思っているんだって。そう思わせるような声だった。
それに慰められたような気がした私は、もう、何も。抵抗も、反論も、する気になれなかった。
ヴァルトは死んだんだ。この世界にも、天国とか、地獄とか、あるのかな。ヴァルトとどこかで、会えるのかな……。
現実逃避みたいに、そう思った時、自然と。 首を差し出すみたいに、フォーゲルの翼に顔を埋めて、眼を閉じていた。
濃い血の香りに交じって、おひさまと、獣の香り。
──ごめんなさい。フォーゲルさん、ヴァルト……イグナレスさん……。
断頭台の刃のように、白い剣が振り上げられる気配があった。
その時だった。
ドゴォン!!
耳をつんざくような破壊音。地面が大きく揺れる衝撃。
私は咄嗟に顔を上げて、必死に守るみたいにフォーゲルを抱きしめた。
何か黒い影が目の前に飛び込むように降り立った。そして、その白銀の刃を弾いたのだ。
「!!」
剣を弾かれたロイは、態勢を崩しすらしなかった。
しかし、驚愕に目を見開いている。
「貴様……!?」
私とフォーゲルの前には、ズタズタの黒いマント、そして血だらけの少年の背中。
「置いていくなんて…ひどいなあ」
折れた黒い大剣を構え、ヴァルトが薄く笑った。
大剣の刃を血まみれの指で撫でると、黒い炎をぶわりと纏う。
「ヴァルト……?」
私が掠れた声で呼ぶと、ヴァルトは少しだけ振り返って微笑んだ。
「やぁユウカ。ばいばいしたけど、さっきぶり」
相変わらず、軽い調子の声で。その瞬間私はぶわっと涙があふれて、その血だらけの背中に飛びつきたくなったが、堪えた。
ヴァルトは背中越しに振り返っていた瞳を一瞬見開き、眼を細めた。すぐに視線を前方に戻す。
「フォーゲルがそれじゃあ、運んでもらえないねえ。困ったな」
あまり困ってなさそうに言った。
「しぶとい魔族だ……! ユウカは、連れて行かせない」
ロイが剣を持ち上げた。
「これ以上お前たちに…穢されてたまるか!」
ロイが、低い声で吐き捨てるように言った。ヴァルトは、切れて血が流れる唇を歪めて嗤った。
「あはは。──何度も言わせるなよ」
ヴァルトが獣のように姿勢を低くし、黒炎を纏った刃をロイに向けた。
「この子は、返さないよ」
ヴァルトの赤い瞳が輝き、殺気を纏った。ロイが無言で、応えるように剣を構えて同じく殺気を放つ。
ヴァルトは……もう、とっくに戦う余力なんか残っていない。
それでも魔力を絞り出し、ロイの前に立ちはだかっているのだ。
この戦いの勝敗なんて、誰がみたって明らかだ。 ──このままの状態で、戦うならば。
私は青ざめて、フォーゲルから手を離し、胸の前で指を組んだ。
──私が、私が!ヴァルトに加護を、修復を、強化を……!
しかし、震える指先から金色の光は、魔力は、あふれ出ない。
私の心には……鉛のように、重いもの。シオさんの死が、まだ沈んでいて。
このままじゃ、このままでは。また、ヴァルトが。今度こそ、私の、目の前で…。
その時だった。
青白い、閃光。
木々を、空気を切り裂くように、一直線に。ロイの胴体、横っ腹に直撃した。
「ぐあっ……!?」
彼の身体が、文字通り吹っ飛んで宙を舞い、木々をなぎ倒して少し遠くに落ちた。
「……ん?」
私たちの目の前から、ロイが一瞬で消えた。
折れた大剣を構えているヴァルトはきょとんとして、その後ろで座り込む私はぽかんとした。
誰? 敵陣で一番強いだろう彼を吹っ飛ばせるほどの力を持つものなんて……。
ヴァルトがすぐに、閃光が放たれた方向へ視線を向けた。
私もつられるようにそちらを見る。 見て、そして、息を呑んだ。
折れた木々、倒れた兵士たちを踏み越えて、こちらへ向かってくるひとつの影。
純白の法衣が光を受けて輝いていた。
その法衣は、王都の神殿でしか見られない高位の装束──だったはずだ。
私も召喚された直後、最初は着せられていた。
胸元には金糸で紋章が縫い込まれ、袖口には淡い蒼の刺繍。腰には魔力を帯びた細剣と、光を宿す水晶の装飾。
まるで祭壇から抜け出した女神様のような姿だった。
しかし、その姿は私がよく知るもので──とんでもなく、身近な人だった。
信じられないような気持ちで、私は彼女を呆然と見つめる。
「おねぇ……ちゃん?」




