41話 お前は剣であり、私の
41話 お前は剣であり、私の
翌朝。
魔王城の大広間──謁見の間は、物々しい空気に包まれていた。
異様な熱気と、張り詰めた静寂。どちらもある、というか。
ここは先日の御前試合で半壊したはずだが、全てが美しく修復されていた。
重厚な黒い柱が並び、高い天井まで届く巨大なカーテンが窓の光を遮っていて、最奥には玉座。
そこは黒いベールに覆われ、向こうに座す魔王陛下の隠しきれない威圧感が、広間を支配している。
下級のゴブリンから、オーク、リザードマン、高位の悪魔族に至るまで。 城に駐屯する全ての魔族が、ここに集められていた。数千の異形の瞳が、壇上の一点を見つめている。
私は、幹部の列の末席──ヴァルトの隣に立っていた。
なんとなくだけど、わかる。イグナレスがなん度も、「じきに開戦だろう」と言っていたから。だから多分…いやおそらく確実に、それが伝えられる時なのだと。
心臓がうるさい。これから始まることの重大さに、指先が冷たくなるようだった。
「どしたの? ユウカ」
隣で、ヴァルトが小声で囁いた。彼はやはりいつも通り、不思議そうに首を傾げている。私はそんな彼をちらりとみた。
「ねぇ、手……握っててもいい?」
私は冷たくなった指を摩りながら、小声で頼んだ。
「? ……いいよ」
私はすぐにヴァルトの黒いマントに手を突っ込み、彼の手を握りしめた。 大きくて、熱い手。少しだけ呼吸が落ち着く。ヴァルトは少しくすぐったそうに笑った。
「イグさんの話、長いからさ。適当に聞き流してればいいよ」
「……うん」
その時、壇上に黒い影が現れた。
衣擦れの音が響き、広間の空気が一瞬で凍りつく。現れたのは、イグナレスだ。 完璧に整えられた軍服。冷徹な美貌。彼は私たち全軍を見下ろし、よく通る低い声で、静かに口火を切った。
「全軍、聞け」
マイクも拡声魔法も使っていないのに、その声は広間の隅々まで明瞭に響いた。
「本日未明。……人間どもが、百年にわたり結ばれていた『停戦の約定』を一方的に破棄した」
広間がどよめく。イグナレスは眉一つ動かさず、言葉を継ぐ。
「奴らは我が軍の東方領土へ、大規模な侵攻を開始した。国境の砦は既に陥落。現在も東へ向けて進軍中である」
「人間ふぜいが!」「許せん……!」「早く叩き潰してやらねば!」
怒号が飛び交う。しかしイグナレスが片手を挙げると、再び水を打ったような静寂が戻った。
「奴らの軍には、新たに召喚された『異邦人』が同行している」
イグナレスの声が、一段低くなる。
「……ッ」
“異邦人”。その単語が出た瞬間、古参の兵士たちの顔に、明らかな恐怖の色が走った。百年前の戦争を知る者たちだろうか。
──同行しているんだ。……王都側の、新しい救世主…。どんな人なのかは、わからないけど…。
イグナレスは続ける。
「新たな異邦人の加護は強力だ。報告によれば、その強化と修復力は常軌を逸している。斬っても死なず、疲労を知らず、際限なく湧き出る不死の軍勢と思え」
恐怖が伝播する。士気が揺らぎかけるほどだった。しかし、その瞬間。
「だが」
イグナレスの声が、重く響いた。 彼はゆっくりと視線を動かし──そして、私の方を見た。
「我々にも、切り札がある」
全軍の視線が、私に集中する。 突き刺さるような視線。怖い。でも、逃げちゃいけない。私はヴァルトに握られた手に力を込め、背筋を伸ばした。
「我が軍にも、同志たる異邦人──ユウカがいる」
どよめきが、驚愕と、そして微かな希望の色に変わる。
「今回の戦いにおいてはユウカも前線へ同行し、部隊への『加護』の付与を行う」
イグナレスはそこで言葉を切り、鋭い眼光で全軍を射抜いた。
「ただし……勘違いするな」
冷徹な声が、釘を刺すように。
「これはあくまで初陣。彼女の力の『試験運用』に過ぎない。彼女の肉体は脆弱であり、その力は未知数だ」
イグナレスの金色の瞳が、ギラリと光った。
「ゆえに命ずる。……彼女を、死なせるな。ユウカは敵の『無限再生』に対抗しうる、我が軍唯一の戦略的リソースである。彼女を失うことは、すなわち敵への対抗手段を失うことと同義だ」
その声は、あくまで論理的で、軍務における重要事項を説く響きだった。 けれど、その言葉の裏にある重圧は凄まじかった。
「いかなる戦況においても、彼女の生存維持を最優先任務とせよ。……それが、必ず我々の勝利の要となろう」
彼は一呼吸置き、全軍を威圧するように言い放った。
「この時をもって、全軍、臨戦態勢へ移行せよ。準備を急げ。出撃は明朝である」
彼の声が、熱を帯びる。
「奪われた領土を奪還し、愚かな人間どもに思い知らせてやるのだ──我ら魔族の誇りを! 魔王陛下の威光を!」
「「ウオオオオッ!!!!」」
地鳴りのような歓声が爆発して、私は肩を跳ねさせた。
緊張と恐怖を吹き飛ばす、魔族たちの戦意。たった一度の演説でその空気を引き出したイグナレスに、私は呆然としてしまった。
これがカリスマというものなのかもしれない。
「はじまるねぇ」
隣で低い声で、嬉しそうに囁くヴァルトの声。
私は、戦争なんか楽しみじゃないし、怖い。けれど…
私は周囲の湧き立つ魔王軍勢を、その中にちらほら見える顔見知りの魔族を、フォーゲル、ガラム、グレイナ…壇上のイグナレス。そして隣のヴァルトを順に見た。
──私は、ここにいたい。だから、ここを守りたい。
戦う理由は、きっとそれだけで充分だろう。
◆
謁見の間での演説が終わると、魔族たちは一斉に動き出した。
大広間を出ると、城の回廊は戦争の熱気で満ちていた。 武器庫の扉が開かれ、黒鉄の槍や刃が並ぶ棚から、兵士たちが武具を受け取っていく。 魔法師団の一角では、魔石を円陣に並べ、低い声で呪文を唱えている。紫の光が床を走り、巨大な転移陣が形を成していく。
──これが、戦争の準備……
私は息を呑んだ。鎧の擦れる音、魔力の揺らぎ、微かな血の匂い。すべてが、明日からの死闘を予告している。
私も戦地へ赴く当事者として、心臓の音が治まらない。その時、背後から声がした。
「ユウカ様。参謀イグナレス様がお呼びです。……執務室へ」
「……はい」
胸の奥がきゅっと締め付けられる。
こんな時に何だろう。叱責? それとも、追加の指示?
私は深呼吸をして、魔族たちの慌ただしい準備を横目に、イグナレスの執務室へ向かった。
◆
「……入りなさい」
中に入ると、イグナレスは窓辺に立ち、中庭に集結する兵士たちを見下ろしていた。 私が歩み寄ると、彼はゆっくりと振り返る。その手には、漆黒の布が握られていた。
「こちらへ」
手招きされ、私は彼の前に立つ。 イグナレスは無言で、その黒い布──マントを広げ、私の肩にふわりとかけた。
「あっ……」
それは、イグナレスが着ている外套と同じ、滑らかで上質な生地だった。 ふわりと、彼と同じ冷ややかな香りが私を包み込む。
「防刃術式と、対魔法障壁を編み込んであります。……戦場で身につけておくように」
彼は私の首元で留め具をカチリと締めながら、低い声で告げた。
「いいですか、ユウカ。よく聞きなさい」
彼の指が、私の襟元を整える。その動作は丁寧で、どこか切実だった。
「明朝、出陣です。あなたの役割は加護の付与。
前線には出しますが、直接戦闘は許可しない。身を隠し、ヴァルトの背後に控え、加護を与えること」
「.....はい。」
声が震えそうになるのを必死で抑える。
イグナレスは一瞬、視線を伏せた。
「私はここにいるが、戦況を把握しお前たちに指示をする。それに必ず従うこと」
「……はい、わかりました」
私が頷くと、彼の表情がわずかに和らいだ。すると彼は私の頬を包み込み、親指でそっと摩った。
「……恐れることはない」
甘く、低い声が鼓膜を震わせる。
「お前は死なない……私が、死なせない」
彼の瞳に、昏い光が宿る。
「そのために…ここまで、指導してきたのですから」
脳裏に蘇る日々。 毎日飲まされた薬湯。繰り返された同行ワープの練習。加護の付与の訓練。それら全てが、ただの業務ではなく、私をこの戦場で生き残らせるための──私を守るための準備だったのだと思うと、胸に暖かなものが広がる。
「私のやったことを信じなさい。……そう簡単に壊れはしませんよ」
「はい…!」
私が強く頷くと、彼は私の顔を覗き込み、不意に身をかがめた。
「っ!?」
冷たい唇が、祈るように私の額に押し当てられる。
「ひゃうっ……!?」
私はビクリと肩を跳ねさせ、すぐに顔を赤くした。思考が一瞬停止する。え、今、キス……? おでこに?なぜ…
イグナレスはゆっくりと顔を離すと、真っ赤になって固まる私を見て、微かに目を細めた。
「行ってきなさい」
「は、はいっ……!?はいっ!行ってきます、イグナレスさん!」
私は動揺を隠すように大声で返事をすると、逃げるように執務室を飛び出した。 背中に感じる黒いマントの重みと、額に残る冷たい感触。心臓が早鐘のように鳴り止まない。
廊下に出ると、窓の外には燃えるような朝焼けが広がっていた。それをみて少し気持ちを落ち着けてから、中庭に走った。
◆
「おーい、ユウカ」
頭上から声がして、私は空を仰いだ。 城壁に座っていたヴァルトが、私を見つけて飛び降りてくる。 ドスン、と着地する彼は、すでに臨戦態勢だ。背中の大剣が、血に飢えたように鈍く光っている。
「ヴァルト!」
「イグさんに捕まってたの?お説教?」
「ううん……これ、もらったの」
私は、肩にかけられた黒いマントをぎゅっと掴んだ。 ヴァルトはそれをまじまじと見つめ、ふっと笑った。
「へぇ、いいね。それ着てると、完全俺たち側って感じがする」
「……うん」
「じゃ、行こうか!」
ヴァルトが手を差し出す。私はその手を強く握り返した。
◆
パタン、と扉が閉まる音が、執務室に静寂を連れ戻した。
私はその場から動かず、彼女の残した気配が薄れていくのを数秒間感じていたが──やがて、吸い寄せられるように窓辺へと歩み寄った。
眼下の中庭には、巨大な魔法陣が幾重にも展開されている。
前線へと繋がる移動陣だ。青白い光の柱が立ち昇り、武装した魔族の軍勢を次々と飲み込んでいく。
「……」
私の目は、ただ一点。 屈強なオークや、異形の魔獣たちの列に混じって歩く、あまりにも小さく、頼りない影だけを探し当てていた。
いた。
ヴァルトの隣を歩く、小さな後ろ姿。 私が先ほど着せてやった、漆黒のマント。 彼女の小さな体には少々大きすぎるそれが、風にはためき、彼女の華奢な体躯を覆い隠している。
「……ユウカ」
ガラスに指を這わせ、その小さな背中をなぞる。ふと、昨夜の記憶が蘇った。
出撃前夜。全ての準備を終え、城が静まり返った深夜。私は自ら定めた立ち入り禁止の規則を破り、彼女の寝室へ足を運んだ。
月明かりが差し込む部屋で、彼女は私の管理通り、深い眠りに落ちていた。 警戒心のかけらもない、無防備な寝顔。
私は音もなくベッドサイドに近づき、その柔らかな頬に、そっと触れた。
「ん……」
彼女が小さく身じろぎし、私の掌に頬をすり寄せてくる。温かい。そして、その肌の下を流れる魔力が、私の指先に呼応して甘く脈打つのが分かった。そこには、嗚呼…僅かに、私の魔力がある。
「お前は、私の…」
誰にも聞かれぬ声で囁いた。 その温もりを指先に焼き付けるように、私はしばらくその場を動けなかった。
──指先に残る、あの温かな感触を思い出す。
あんな脆弱な生き物を、戦場にやりたくはない。できることなら閉じ込め、私の目の届く場所で、私の与えるものだけを摂取させ、外界から完全に遮断してしまいたい。
だが、それはできない。我々魔王軍には、彼女の力が──『異邦人』という切り札が必要不可欠だからだ。
ズズズ……と、光の柱が彼女を飲み込もうとする。
心臓が、嫌な音を立てた。窓枠を強く握りしめる。
私はただ、彼女を見つめ続けた。
──大丈夫…お前は必ず、帰ってくる…
自分に言い聞かせるように。
──お前の体には、私の魔力が髄まで染み込んでいる。お前の肌を守るマントには、私の最高位の術式が編み込まれている。
死ぬはずがない。 死なせるはずがない。
小さな背中が、光の中に消えた。
彼女が完全に視界から消えた後も、私はしばらくの間、その場所から目を離すことができなかった。
ガラスに映る自分の顔が、ひどく酷薄で、同時に泣き出しそうなほど歪んでいることに気づき、私は舌打ちをしてカーテンを閉ざした。




