4話 飛ぶか走るか
「こっちです、急いで!」
シオさんの手に引かれ、私は夜の王都を走っていた。シオさんが魔法をかけて、私たちの姿は誰にも見えないみたい。
牢屋の見張りの人も、いびきをかいて眠っていた。
シオさんは、自分をできそこないの召喚士で魔術もあまり得意じゃないって言っていたけど、絶対にそんなことはないと思う。
...などと、ぼんやりと考えつつ。私の足元はふらつき、視界は揺れていた。体はまだ冷えきっていて、まともに力が入らない。
シオさんの手の温もりだけが、唯一の支えみたいだった。彼の手を握っていると、安心できた。
やがて、石畳が土に変わり、木々の影が濃くなっていく。
王都の灯りが遠ざかって、真っ黒な口を開けたみたいな森の入り口が目の前に現れた。
不気味なそれに、私はシオさんの手を更に強く握ってしまう。
シオさんがそこで足を止めた。
「ここから先は......僕は、ついていけません」
「え....!?」
シオさんは苦しそうに顔をゆがめて、私をまっすぐに見ていた。
「...ごめんなさい。僕は、国を裏切れない。あなたを助けられるのは、ここまでなのです」
私は、眩暈がした。絶望なのか、衰弱によるものなのか、もうよく分からない。
「本当に...ごめんなさい。僕の家族は...城下に住んでいます。彼らをおいていくことは...できないんです」
分かってる。頭では分かってるのだ。
シオさんは王都に仕える召喚士。兄弟がいっぱいいて、弟たちのために一生命努力して、今の職を手に入れたって前に話してくれた。
なのに今、王様の命令に背いて、できるぎりぎりのところまでやってくれてるんだ。でも。
「でも.....でも、逃げるって言われても。どこに行けばいいんですか!?私、こっちの世界のこと何も知らないのに......!森の中の、モンスターだって、怖いし...!」
声が震える。本当に心細いのに。今すぐ倒れたいくらい疲れていて、不安なのに。一人になんかされたら、死んじゃうに決まってる。
「シオさんは...一緒に来てくれないの......?」
シオさんは、目を伏せた。
それを見た時、ああ、そうだよねって思った。
大事な家族がいる中、まったくの他人である私を、シオさんはこんなに助けてくれたんだから、恨み言よりお礼を言わなきゃねって思った。
諦めにも似た、静かな気持ちが胸を満たした。
妙に冷静だった。この時点でもう、自分は無理なんじゃないかって思ったから。
「...そうですよね」
私はシオさんの手を自分から離した。
ぽつぽつと、雨が降り始めていた。
「ユウカさん、これはまじないをかけた石です。どうか、肌身離さずに。これできっと、あなたはモンスターには襲われない」
シオさんは、私のワンピースのポケットに、綺麗な群青色の石を入れた。
「...ありがとうございます」
私は、それをポケットの上から抑えた。少し、暖かい気がした。
シオさんは懐から包みを取り出し、またパンと水筒をくれた。私はそれを抱いて、シオさんを見つめる。
「シオさんは、これから...大丈夫なんですか?」
シオさんは目を見開き、更に苦しそうな顔になった。
「どうか、僕のことなんか気にしないでください...僕は、あなたを守れない、国に殉ずることもできない、腰抜けです」
「そんなことないです。いっぱい助けてくれました。素敵な召喚士さんです」
私は一生懸命、感謝を伝えた。冗談とかではなく、本気でこれが最期だと思ったから。
彼と会えることだけじゃない。
私を思いやってくれる人と話す、最後の時間だと思った。
だったら、生きている人に、少しでも良い印象を残したいじゃない?
そんなささやかな願いだった。ちょっとよこしまだけれど。
シオさんはついに、泣きそうな顔になってしまった。泣かせたいわけじゃなかったんだけど。
「ユウカさん。逃げて、逃げて。ひたすらお逃げなさい、とにかく王都から離れて....」
シオさんは祈るようにそう言った。
私は静かに頷いた。そしてシオさんに背を向け、重い体を叱責して、走り出した。
もう、振り返らなかった。彼の顔を見たら、足が止まってしまうと思ったから。
雨がどんどん強くなっていって、さっきシオさんにもらった手のぬくもりは、冷たい雨水に流されるように消えて行ってしまった──
◆
「どうしたの?」
目の前に、血のように赤い玉がふたつ..。ぼやけた視界がクリアになる。
私は冷や汗をかいて、底知れない双眼を見つめた。焦点が合うと、それは離れていった。
足場の悪い林道を、ヴァルトともに進んでいる。
衰弱しかけた身体は、疲労で限界が近かった。
ヴァルトは不思議そうに私を見つめている。とってもつかれているんです、休ませてくださいとは、なんだか恐ろしくて言えなかった。
「あ、あの..あとどれくらいで、着きますかね...」
「うーん。きみに合わせてトロトロ歩いてたら一週間くらいかかるかな?」
さらりとした返事。私は頬が自然と引きつるのを感じた。
彼は、私の事を相当のろまと思っているに違いないが、特に急かすことも、苛立つ様子もない。腕を頭の後ろに組んで平然と私に合わせてのろのろ歩いていた。でもその禍々しい赤い眼は、ずっと私に注がれていた。観察するように、もしくは見定めるように...。
「あ、あの。なんか、魔術的な、移動とか....魔族の方って、しないんですか、ね....?」
このままいったらぶっ倒れます、むしろ今すぐ倒れたいです、という言葉がのど元まできてる状態で、私は必死に彼に尋ねた。
「ああ、ワープのこと?できるけど」
彼は私をちらっとみる。
「きみ多分発狂するか、死ぬと思うよ」
「え」
「俺、魔力量を調節するの苦手なんだよね。イグさんならうまく雑魚連れて移動とかできるんだけど、俺が連れてったやつは毎回ほぼ全滅でさ」
言ってる内容はよくわからないけれど、俺の魔術で移動したらきみは死ぬぜと言われていることは分かった。
「あーでも」
ヴァルトはもう一度、私を覗き込んだ。
「なんかすごく歩くの大変そうだね。試してみる?」
とどめを刺してあげようか、と言われているのだろうか。私は冷や汗をかいてぶんぶん首を振った。それでまた眩暈を起こし、よろけた。
「おっと」
すると伸びてきた彼の手が、私を危なげなく抱き留めた。ヴァルトは私より背が少し大きいくらいで小柄なのに、異常なまでに膂力があるようだった。中に詰まっているものが違うと言うか。奇妙な程に、力がある。
「うーん。とはいっても、このまま歩いたら一週間じゃすまないかもなあ」
ヴァルトは、腕の中で身を固くする私を見つめてうーんと空を仰いだ。
「あ、じゃあ運ぶか」
「え?」
運ぼうか?じゃなくて、運ぶか、だった。独り言みたいに言った。そして彼は私の腕をぐいと引っ張って持ち上げた。
「う、わっ?」
身体が完全に一度宙を舞って、彼の腕の中にぽすんと収まった。いわゆる、お姫さま抱っこ。
「んー走りにくいな」
「うぐっ」
ぐいっと肩に担がれた。荷物のように。
「これでいっか」
私は目を白黒させながら、彼の背中にしがみついた。
あ、頭に血がのぼる。
「あれ?どうしたの?」
意識を失いそうになっていると、私が無反応なのを不思議に思ったのか声をかけられる。
「あ、あたま…」
もう、意識が朦朧としていて怖いとか遠慮(?)とかは頭からすっぽぬけていた。
「うん。頭が、なに?」
「ちがのぼって、く、くるし」
「え...あーそうなの?死にそう?」
「はい!」
彼の少しめんどくさそうな声に、私は即答した。
「じゃあしょうがないか....これでいい?」
彼は私をひょいと胸の前に回し、もう一度お姫さま抱っこしてくれた。安堵する。
「はい..ありがとうございます」
ニコ、と笑みが帰ってくる。
「お礼なんていいよ。俺、人間の扱いよくわからないんだ。気がついたら死んでたなんて困っちゃうからね」
ですよね。と思って私は苦笑いを返した。
彼の腕は、信じられないほど楽そうに私を抱えていて、まるで羽みたいに軽いものを持っているみたいだった。私は別に軽くなんかないのに。
そのとき、茂みがざわめいた。
金属の音。鎧の擦れる音。
私は反射的に顔を上げる。
茂みの向こうに、王宮の紋章の旗が見えて、私は息を止める。
そこには、十人以上の兵士がいた。
彼らはこちらに気付いており、皆剣を抜いている。
「見つけたぞ、異邦者だ!」
─一あ。そうか、私を始末しに来たんだ。
ただでさえ冷えていた身体が、胸の奥からしんと冷たくなったような心地がした。シオさんは、大丈夫だろうか…?
「殺せ!」
その声が、耳に飛び込んできて。私は息が止まった。
──やっぱり、勘違いとかでもなんでもなく。王都のひとたちは、私を…
わかってたけど、認めたくなかったことだった。
遠くから、炎を纏った矢が何本も飛んできた。間違いなく、私を狙っていた。
私は呆然と、それを見つめていた。
「この子は、きみたちが捨てたんだろ?」
耳元で声がした。軽い声なのに、背筋が冷える。
「返さないよ」
見上げると、深く弧を描く口元。爛々と鈍い光を放つ紅の瞳。飛んできた矢は空中で焼け落ちている。
「あ…警戒しろ!幹部レベルの魔族だ!」
兵士の一人が叫ぶ、ヴァルトは狂暴な笑みを浮かべた。
「幹部レベルじゃなくて、幹部なんだけどなあ」
彼は私を片手で抱えたまま、もう片方の手で背中の大剣をすらりと抜いた。黒い刃が、夜の闇よりも深い色をしていた。
「.....つ!」
兵士たちが一斉に駆け出す。魔法の詠唱を唱えながら、突撃してくる。皆、魔法のバリアみたいなものを張っている。
私は息を呑んだ。ヴァルトは、笑ったまま剣を振り上げ──ひと振り。
空気が裂ける音がした。
次の瞬間、黒い風が爆ぜた。
豪風が森を薙ぎ払い、兵士たちの叫びが一瞬でかき消える。
鎧が砕け、剣が宙を舞い、血の匂いが風に溶けていく。
ほとんどのものに張られていたバリアはガラス細工よりも胎く崩れ去ったのだろう。
茂みの隅で、魔術師のローブを着た人間の身体の下半身だけがぼとりと落ちていた。
私は声を出せなかった。
ただ、ヴァルトの腕の中で震えていた。
彼は、何事もなかったみたいに剣を鞘におさめ、笑った。
「よし、おしまい。じゃあ今度こそ行こう、ユウカ」




