37話 管理改め、指導宣言
グレイナに背中を押され、私はイグナレスの執務室の前に立った。
重厚な扉を見上げる。心臓が、痛いくらいに早鐘を打っていた。
昨夜の出来事が蘇る。血の海の中で彼を抱きしめ、泣きながら「好きです」と伝えたこと。
勢いで言ってしまったけれど、冷静になって考えると……あれは、相当迷惑だったんじゃないだろうか……?
だってイグナレスは私のことをずっと憎んでいた。 “八つ当たり”だとしても、私に向けていた冷徹な視線や言葉は本物だった。
昨夜は弱っていたから流されたかもしれないけれど、正気に戻った今、「勘違いするな」と冷たく拒絶されるのが怖かった。
「グレイナさん…い、一緒に入ってくれませんか…?」
グレイナが驚いた顔で私を見下ろす。私は彼女の鎧の腕をつかんだ。
「なぜだ?兄様はもうお前を殺したりなんかしないぞ」
「それは…わかってるんですけど。気まずいというか…」
「兄様はお前と2人で話したいと思うし、わたくしはすぐに任務がある」
そんなぁ…と思って、でも諦めきれずに無言で鎧を掴んで見上げていたら、グレイナが白い頬を染めて慌てて首を振った。
「うっ…!そんな潤んだ目で見上げてきても、ダメだぞ!兄様を待たせるな!」
「うう…はい…」
私はしぶしぶ彼女の手から手を離した。これ以上彼女を困らせるわけにはいかない…。手を離すと、グレイナは慌てたように去っていってしまった。
観念してコンコン、と。ノックをする。
「……入りなさい」
すぐに中から低い声が返ってきた。私は意を決して、震える手で重い扉を開けた。
「失礼、します……」
広い執務室。その奥のデスクで、イグナレスは書類仕事をしているようだった。
昨夜の瀕死の重傷が嘘のように、軍服に乱れはなく。その美貌にも、傷一つない。
私が部屋に入ると彼は筆を止め、こちらを見た──が。 私と目が合った瞬間、彼は一度、すっと不自然に視線を宙に彷徨わせた。
「あ……」
やっぱり、嫌がられてる……。私が小さくなっていると、彼はすぐに咳払いをして、顔を上げた。表情は、一瞬で鉄壁のポーカーフェイスに切り替わっていた。そこにはもう、何の感情も読み取れない。
「そこに掛けなさい」
「は、はい」
私が椅子に座ると、彼は事務的に一枚の羊皮紙をデスクに置いた。覗き込んだが、書かれていることは全くわからない。
私は魔族の人たちの言っていることはわかるが、文字はまったくわからないのだ。
「ユウカ。先ほど魔王陛下より、正式に辞令が下りました。本日付で、あなたを魔王軍特別戦力として迎え入れます」
淡々とした口調。昨日のことなんて、まるで無かったかのようだ。
……もしかして、記憶喪失にでもなったんだろうか?それとも、慈悲で忘れたフリをしてくれているのだろうか?と、思ってしまうくらいだった。
「つきましては、あなたの今後の待遇についてですが」
イグナレスは静かな声で続けた。
「これまでの管理対象…囚人という扱いは、本日をもって撤廃」
「あ……はい」
「今後は、管理改め、指導を行います。あなたの体調、魔力運用、教養、全てにおいて……私が直接、徹底的に指導します」
「えっ?」
私は思わず顔を上げた。
──イグナレスさんが、私を? あんなに私のことを憎んでいて、顔を見るのも嫌だ…みたいな感じだったのに。これ以上、彼を苦しめたくない…。
だから私は、彼を気遣うつもりで口を開いた。
「あ、あの。イグナレスさんはお忙しいですし、私なんかのために時間を割かせるわけには……えっと、他の人でも……」
ピシリ、と。
部屋の空気が凍りついた気がした。イグナレスの動かしていた筆が止まる。彼はゆっくりと顔を上げ、冷たい瞳で私を射抜いた。
「……私では、役不足とでも?」
低く、地を這うような声。
「ひっ……!?ち、違います!そうじゃなくて、その……」
「ならば何故、他の者を望むのです」
「だって……イグナレスさんは、私のこと……嫌い、ですよね……?」
私が恐る恐るそう尋ねると、彼は言葉を失ったように沈黙した。重苦しい沈黙が落ちる。やっぱり、怒らせてしまった…。
「……本当に、忌々しい」
彼が低く呟く。私はビクリと肩を震わせた。イグナレスは音もなく立ち上がり、机を回って私の目の前に立った。逃げ場はない。見下ろされる威圧感に、私がぎゅっと目を瞑ると──。
頬に、冷たい感触があった。
恐る恐る目を開けると、イグナレスの白く長い指が、私の頬をそっとなぞっていた。
その冷たさは、熱を出したあの夜に触れられた時と同じ、心地よい温度だった。
「……憎らしいですよ」
彼は、私の頬に触れたまま、静かに言った。
「ここまでの…憎悪以外の強い感情を。私は、何者にも抱いたことがない」
「……?」
憎悪以外の、強い感情? どういう意味だろう。私が問おうとする前に、彼はパッと指を離し、背筋を伸ばした。
「これは決定事項です」
彼の瞳から不穏な揺らぎは消え、冷徹な上官の顔に戻っていた。
「あなたのことは、今後私が直属の上司として徹底的に指導する。1日でも早く、陛下に相応しい部下として働けるように鍛え上げる。……それが、私の仕事です」
「あ……」
そうか。仕事、なんだ。個人的な感情ではなく、魔王軍の参謀としての義務。嫌いな相手でも、組織のために指導する。彼はそういう、真面目で責任感の強い人だ。
少しショックだったけれど、同時にホッとした。嫌われていても、見捨てられたわけじゃない。それに──イグナレスに指導してもらえるのは、やっぱり嬉しいと思ってしまった。
「はい。……分かりました。よろしくお願いします」
私が頭を下げると、彼はフンと鼻を鳴らし、デスクに戻った。
「一応、幹部としてのスタートです。段位は“牙位”を与えます」
「牙位……!」
私はパッと顔を輝かせた。
「ヴァルトと一緒!」
ヴァルトと同じ段位。それなら、彼と肩を並べて頑張れるかもしれない。 そう思って喜んだ、次の瞬間。
「フッ」
イグナレスが、冷ややかな、本当に冷ややかな失笑を漏らした。
「ヴァルトは“角位”へ昇進しましたよ。残念でしたね?」
「えっ」
「あいつは陛下のお気に入りなのでね。あの忌々しい大立ち回りがお気に召されたのでしょう。特例での昇進です」
イグナレスの目が笑っていない。どこか勝ち誇ったような、それでいて不機嫌そうな目だ。
「そ、そうなんですか……すごいな、ヴァルト」
ちょっとがっかりしたけれど、ヴァルトが評価されたのは嬉しい。
「じゃあ、ヴァルトとお仕事は一緒にできるんですか? ヴァルトとなら、連携もうまくいくと思うのですが……」
私がそう尋ねると、どうしてかイグナレスの周囲の温度がさらに5度くらい下がった。彼は書類を持つ手を止め、般若のような冷笑を浮かべて私を見た。
「先ほどから、馬鹿の一つ覚えのようにヴァルト、ヴァルトと言いますが」
「ひっ……」
「もう一度言いましょう。……残念でしたね」
「え?」
彼は、私の目を真っ直ぐに見据えて、宣告した。
「何度も言わせるな。お前は私の直下。……本格的に戦争が始まるまでは、お前には私の『補佐官』の任を与える」
「ほ、補佐官……!?」
「そうです。私の執務室で、私の目の届く範囲で、私の仕事を補佐しなさい。……暫く、ヴァルトに振り回されることはないでしょう」
イグナレスは皮肉げに口角を上げ、パチンと指を鳴らす。すると膨大な資料がどこからともなく現れ、ドサドサと私の前に積み上がった。
「ふぁっ!?」
「さあ、無駄口を叩いている暇はありません。指導を開始しますよ、ユウカ」
「あの、イグナレスさん」
私は積み上がった紙の束を見て、冷や汗を流す。
「読めません。私…魔族の文字…というか、この世界の人間の使う文字も…」
「…………」
イグナレスが沈黙する。まずい。最悪じゃないか、ただでさえ嫌いな上に世話のかかりすぎる文字すら読めない無能な部下って。
青ざめて膝の上で拳を握る。絶対に、さらに、もっと、嫌われた…!そう思って。
「……失念していました」
ややあってイグナレスが、こめかみを押さえながら顔を上げた。
「あなたは異界の住人。こちらの言語体系に通じていないのは、道理でした」
「も、申し訳ありません……あの、あいうえお表?みたいなものがあれば、独学でなんとか……」
「却下します」
彼は冷たく切り捨てた。
「そんな悠長なことをしている時間はありません。あなたは即戦力として期待されている」
「うっ……」
「一文字ずつ教えている暇などない。……ですので」
ガタリ。 椅子を引く音がした。
「え?」
顔を上げると、イグナレスが自分の椅子を私の真横に持ってきて、ドカリと腰を下ろしたところだった。近い、肩が触れそうな距離だ。彼の纏う冷ややかな香りが、鼻先を掠めた。
彼はポカンとしている私の手から本を取り上げると、無造作に机の上に広げた。
「私が読み上げ、意味を解説します。あなたは私の声を聴きながら文字を目で追い、音と形を脳に叩き込みなさい」
「ええっ」
彼は困惑する私に構わず、長い指で冒頭の文章を指し示した。
「『魔界の起源は、混沌の海より生じ……』」
彼の低くよく通る声が、すぐ耳元で響いた。まるで朗読劇のような、滑らかで聞き取りやすい声。王都の翻訳魔法よりもずっと自然に、意味が頭に入ってくる。
けれど。
──ち、近い……!
彼が文字を指差すたびに、腕が触れそうになる。近すぎて、彼の吐息を感じる。文字を追わなきゃいけないのに、彼の整った横顔、長いまつ毛に目が行ってしまって、全く集中できない。
「……ユウカ」
不意に、彼の手が止まった。イグナレスが横目で私を睨む。
「どこを見ているのです。文字を見なさい、文字を」
「は、はいっ!すみません!」
「全く……集中力のない」
イグナレスは呆れたようにため息をついた。でも、その場を離れたり、距離を取ったりすることはなかった。
彼は再び、淡々と読み上げ始めた。嫌われているはずなのに。邪魔だと思われているはずなのに。多忙な彼が、こうして時間を割いて私のために本を読んでくれている。
──仕事、だからだよね。私は普通の幹部と違って、能力が特殊だし…。
私は自分にそう言い聞かせ、必死に赤くなる顔を隠して、彼の指先を目で追った。
次回 囚人改め、補佐官として




