35話 巨人の手のひら
ぼんやりと目を覚ました私は、しばらく天井の黒いシャンデリアをぼーっと見つめていた。
身体がぐったりと重くて、起き上がれない。
一瞬、記憶が混濁する。今日何曜日だっけ、学校だっけお休みだっけ、みたいな。
──あれ?私。いつ処刑されるんだっけ…
「……ッ!?」
ガバッと起き上がる。冷や汗がふきだし、疲れを忘れた。
瞬間、昨夜の出来事が脳裏を駆け巡った。
処刑宣告、脱走、戦争、魔王様への直談判、そして御前試合。
イグナレスに勝ち、彼に…今冷静になって考えると、少し恥ずかしいことを色々言ってしまったこと。最後に──魔王様に「剣」としての居場所をもらったこと。
私はむくりと起き上がり、身体の節々が痛むのを感じながらもベッドを降りた。
ふと、いつもなら許可も得ずにドアが開いて、「おはよー」という軽い声が響くはずなのに、今日は静か。
窓の外を見れば、日中。おそらく、そんなに早い時間でもない。
「ヴァルト……?」
なんとなく不安になって、私はドアノブに手をかけた。
ガチャリと音がたって、扉が開く。鍵はかかっていない。もう私は囚人ではないから当たり前なんだけど、その当たり前の自由が、今は少しむず痒くて嬉しい。
廊下に出ても、ヴァルトの姿はない。イグナレスは深手を負っていたから、きっとまだ休んでいるだろう。
でも、ヴァルトは? 彼はあれだけの傷を負って、それでも笑っていたけれど。
──でも、左腕を欠損してた。あれ?私、修復したっけ?そもそも、魔王様の言葉を聞いた後の記憶が、あんまりない…
「ヴァルトー?」
不安が募る。ヴァルト、大丈夫だよね?どこにいるの?慌てて廊下を進み、とにかく誰かいないかとキョロキョロと見渡した。
「……おお、お前さん。もう大丈夫なのか?」
振りあおぐと、廊下の窓辺で黒い翼を休めている鳥人族──フォーゲルがいた。
「フォーゲルさん! おはようございます」
フォーゲルは苦笑いをした。
「ああ…おはよう。顔色は良くないが、歩き回れるほどにはなったようだな。お前さん、昨日謁見の間で突然倒れたんだぞ。慌ててリザードマンの…ガラムが運んでやったがな」
「え」
私は真っ青になる。では、私はヴァルトの修復はしていないということだ。
「あの、ヴァルトを知りませんか?!片腕が、なくなっていたのに!修復をかけずに、私…!」
フォーゲルはバサリと降り立つと、少し困ったような、それでいて畏怖を含んだような顔で、城の裏手の森を指差した。
「ヴァルト殿は…あっちだ。城の結界の外れにある、深い森の中にいる」
「森に…!?そんなところで何を?」
「……行けばわかる。だが、驚くと思うぞ……本当に行くのか?」
私は迷わず頷いた。
「…わかった。背中に乗れ、連れて行こう」
フォーゲルは窓辺から降りて、背中を差し出してくれた。
◆
フォーゲルの背に乗り、空から森を見下ろす。城から少し離れた、木々が深く生い茂る場所。
そこに、不自然に木がなぎ倒され、ぽっかりと開いた空間があった。いや、空間ではない。そこには──黒い、山があった。
「え……?」
フォーゲルが旋回し、高度を下げる。
近づくにつれ、その山の異様さがはっきりと分かった。それは岩や土の塊ではない。脈動する、黒い影の集合体…と言えば良いのだろうか。人の形をしているようにも見えるけれど、あまりに巨大すぎる。うずくまっているだけで、城壁ほどの高さがあるのではないだろうか。
禍々しい、闇の塊。けれど、私はその巨体の一部──頭部と思われる場所で、巨大な二つの光が灯った瞬間、息を呑んだ。
ゆっくりと、ギョロリと開かれたのは、血の池のように巨大で、鮮烈な紅い双眸。 この世の終わりみたいな、恐ろしい姿。 けれど、その紅い色は──
「……ヴァルト?」
彼が何も言わなくても。その姿がどれだけ異形であっても。私には、分かった。 捨てられた私をここへ連れてきて、処刑が決まったら鉄格子の窓を蹴破ってまた連れ出し、戦場を駆け抜け、魔王の御前で大剣を振り翳してくれた。私の──
「ありがとう、フォーゲルさん」
「え?」
私は、フォーゲルの背中を撫でると──そのまま、空中に身を投げ出した。
「なっ……!?おいっ、ユウカッ!?」
フォーゲルの悲鳴が遠ざかる。風がごうっと耳元で鳴り、私の体は真っ逆さまに落下していく。地面までは、まだかなりの距離がある。普通なら即死だ。私は手を広げた。
眼下には、巨大な黒い影。 その影が、私を見つけてビクリと揺らいだ気がした。
ズズズ
巨大な腕が動く。 それは山が動くような鈍重さに見えて、しかし驚くほど正確だった。闇が凝縮された、広場のように巨大な掌が、落ちていく私の下に滑り込むように差し出される。
衝撃はあまりなかった。 私は、影でできた、意外と柔らかい手のひらの上に、羽毛のように優しく着地した。
頭上では、フォーゲルが「ひぃぃぃ!?」と奇声を上げて旋回している。
『…………』
私の足元から、重低音の振動が伝わってきた。ゆっくりと、エレベーターのように視界が高くなる。ヴァルトが私を乗せたまま、そっと手を顔の高さまで持ち上げたのだ。
目の前に、巨大な紅い瞳がある。 その瞳は心なしか丸く見開かれ、呆れているようにも見えた。
『……ユウカ』
空気が振動した。声というより、地響きに近い音。お腹に直接響くような重低音。
『きみ。死にたくないって言ってなかった?』
ヴァルトの声には、呆れと、僅かな焦りが含まれている気がした。いきなり飛び降りるなんて、自殺行為だと言いたいのだろう。あのヴァルトを慌てさせたと思うと、なんだか少し可笑しかった。
私はてのひらの上で立ち上がり、その巨大な瞳をまっすぐに見つめた。
「ヴァルトが、受け止めてくれると思って」
ヴァルトは瞬きをした。 そして、その凶悪なはずの巨人の顔を、くしゃりと歪めた。 それは、少年の姿の時によく見せていた、無邪気な笑顔そのものだった。
『……はは』
乾いた笑い。重低音が森に響く。
『変なやつだね。ユウカは』
赤い瞳が少し、不安げに揺れた気がした。
『俺、こんな大きいのに。イグさんだって、最初は警戒して近づかなかったよ』
私は、答えの代わりに両手で彼の親指を抱きしめる。太すぎて、腕が回らない。なんだかおかしくて笑った。頬を擦り寄せて、彼の指の体温を感じた。少しぬるいように暖かくて、このまま眠ってしまいたいくらい安心できる温度だった。
次回 おしゃべり好きな巨人




