34話 愛憎の決着
広間に、静寂が戻った。
ほとんどの魔族は巻き込まれるのを恐れて逃げ出すか、端っこで震えているか。強めの魔族たちは、バリアを張ったりして見物していたようだ。そして玉座の魔王様も、かわらず。この御前試合を、見届けていた。
私は土煙を掻き分けて、走った。小さな黒い影。折れた大剣を床に突き、左腕はなく、全身が氷と血に塗れている彼の元に。
「ヴァルト…!」
ヴァルトは私の声に、笑みを浮かべた。私は彼に駆け寄る。
「ユウカ、無事っぽいね。運が良かったなぁ」
「傷!みせて…」
すると、ヴァルトは首を振って、奥の方を親指で示した。
「あっちから診てあげてよ。殺しちゃったかも」
私はハッとして、ヴァルトの向こう…その血溜まりを見た。
そこには、異形の姿を解かれて元の姿に戻ったイグナレスが倒れていた。彼の胸には深い斬撃の痕が刻まれ、そこから流れる血が湖のように広がっていた。動かない。
私は震える足を叱責して、そこへ駆け寄った。
血溜まりに跪き、イグナレスの胸に手を当てる。心臓は動いている。だが、傷は深く、魔力の消耗も激しい。命の火が消えかけている。
「イグナレスさん…!」
私は叫んだ。彼の青白い顔がぴくりと動く。血だらけの頬に手をあてる。私の手が治癒の光を灯した瞬間、イグナレスは薄く目を開けた。その金色の瞳は光を失い、虚ろだった。
「なぜ……私を殺さない……お前を憎み…殺そうとした…男だぞ」
彼は、自分を治癒しようとする私の手を、弱々しく払おうとした。その手は氷のように冷たく、震えていた。そして、痛々しいほどに、壊れそうなほどに傷ついた金色の瞳を歪めた。
「触るな……穢らわしい……!」
絞り出された拒絶の言葉に、胸が痛む。けれど私は、離さなかった。
「嫌です」
イグナレスの動きがぴた、と止まった。
私は、彼の手を強く握った。その冷たさが、手に痛いほど伝わってくる。死んでしまいそう。このままでは、本当に。今、それが一番恐ろしい。イグナレスが私を憎むことより、私自身が死ぬことより、何より恐ろしい。
「イグナレスさん、私は」
声が震える。私は涙で視界を滲ませながら、腕の中のイグナレスをみつめた。
「あなたに、死んでほしくない」
瞬きしたら、涙が落ちた。血まみれのイグナレスの頬に、ぽたぽたと。
「好きです」
イグナレスの瞳が大きく見開かれたのが、滲む視界でもわかった。
「あなたが私のこと嫌いでも、私はあなたが大好き」
私は、彼の手を自分の頬に押し当て、祈るように、縋るように言葉を継いだ。
「私に居場所をくれたのは、あなただから」
温かい食事をくれた。熱を出した夜、ずっと冷やしてくれた。この絶望的な世界で、私という存在を、たとえ道具としてでも、一番見つめ続けてくれた。
私の掌から溢れる金色の光が、彼の傷を塞いでいく。 かつて彼が「呪い」と呼んだその光は、今はただ、彼を生かすためだけの温かな熱となって、彼の冷たい身体に染み込んでいった。
やがて彼は震える息を吐き出して、唇を開いた──。
◆
「私に…殺してください…などと」
掠れた声。朦朧とする意識の中で。
「言った、くせに…」
私を抱き起こしている少女が、その瞳を瞬いた。その瞳から落ちる水滴が、私の頬を叩く。
「ヴァルトの、手を取り…逃げて…」
恨み言のように。
憎悪で塗り固めていたはずの心が、いつの間にか溶かされてしまった。
殺したいほど憎かったはずなのに、今はただ、この温もりを失うことが、恐ろしい。
「ユウカ…」
甘く、切ない響きが喉から溢れた。
私は、自らの心の奥底に巣食っていた、醜悪で、甘美な感情の正体を、認めざるを得なかった。これは憎悪ではなかった。殺して終わらせる程度では飽き足らないほどの、底なしの執着。いつのまに、お前は私の心をここまで巣食う、巨大な化け物となっていたのか。
「忌々しい、娘……」
血まみれの指を持ち上げ、涙が伝う少女の頬に触れる。それが最後の力を振り絞ってできる、私のできる唯一のことだった。
◆
腕の中で、イグナレスが完全に気を失って。私は戸惑い、(どうしよう)とヴァルトに言おうとしたとき。
「勝負あったな」
玉座の奥から、厳かな声が響いた。 魔王だ。
黒いベールの向こうで、魔王がゆっくりと立ち上がる気配がした。
「イグナレス。お前の敗北だ」
イグナレスは、意識を失っていて答えない。
「ヴァルトの武勇、そして異邦人ユウカの力……見事であった」
魔王の声には、微かな愉悦が含まれていた。
「よって、イグナレスの進言を却下し、ヴァルトの提案を採用する」
静かな広間に、魔王の宣言が響く。
「異邦人ユウカ…貴様の処刑を撤回する」
私は息を呑んだ。
「もはや貴様は囚人でも、単なる盾でもない……我が軍の『剣』として、その力を振るうことを許す」
生きることを、許された。それどころか、居場所を与えられた。きっと仮初ではない、期間限定でもない。それは、私がこの世界に落ちてきて初めて得られたもので。
私はイグナレスを抱きしめたまま、嗚咽を漏らし。
「はい…!ありがとうございます…!」
万感の思いを込めて、なんとか声を絞り出した。
「よかったね〜ユウカ。ありがと〜陛下」
そんな私の横で、信じられないくらいラフな返答をするヴァルト。
一件落着かなみたいな感じの空気が広がっていた広間が、再び凍りついたが(私もフリーズした)…黒いベールの向こうで低く笑う音があった。
ヴァルトは、魔王様にも結構気に入られているみたいだった。
次回 巨人のてのひら




