33話 やつ当たり
「初めて会った時から、お前に対して憎しみ以外の感情を抱いたことなど、一度もない!」
イグナレスの叫びが、謁見の間に反響していた。
私は、その言葉に貫かれ、立ち尽くしていた。呼吸が止まる。心臓が、冷たい手で鷲掴みにされたように痛む。まずい、と思った。加護が揺らぐ。ヴァルトへの強化が弱まる。なのに、揺れる心を制御できない。
──ああ…。
分かっていたはずだった。初めて会った時の、ゴミを見るような目。管理対象と呼ぶ、冷徹な声。彼は私を好いてなどいない。それは、最初から分かっていたことだ。
──でも……。
脳裏に浮かぶのは、幾度となく私の身を案じてかけてくれた言葉、数々の気遣い。熱を出した時に額に触れていた冷たい指。
それらが全て、憎悪と管理のためだけのもので。私を殺すための準備で。彼は本当に、本当に、私のこと……心の底から、大嫌いで。そこまでとは、思ってなかった。
私はイグナレスの冷たい優しさだと思っていたものを喜んで、期待して、縋っていた。一緒に過ごす時間がこれからも増えたら、どこかで少しは心を許してもらえるときがくるんじゃないかな、なんてこっそり思ったりしていた。
勝手に喜んで、期待して。イグナレスは、私のことが大嫌いだったのに──。
その事実は、王都軍に捨てられたことよりも、処刑宣告よりも、何倍も深く鋭く私の心を切り裂いた。
「う……っう、うぅ…」
胸が張り裂けそうだ。 涙が溢れて止まらない。 私は、彼に殺される恐怖よりも、彼に心の底から憎まれていたという悲しみで、立っていられなくなりそうだった。
涙で滲む視界。何も見えない。だめだ、泣いてる場合じゃない。私は、ヴァルトに、もっと強化を──
「あ」
すぐそばから、間の抜けた声。
「なるほど。……イグさん。俺、それ知ってるよ」
あーそうか、そういうことね!みたいな、場違いに明るい声がした。私は涙のたまった目を瞬く。私の隣で、血まみれのヴァルトが、イグナレスを見て笑っていた。
「それって。やつあたり、だろ?」
空気が文字通り凍りついた。私の思考も一緒に固まった。
「……は?」
イグナレスの低い声が落ちる。
イグナレスの動きが、完全に停止していた。振り上げられた氷の剣が空中で止まっている。彼の美しく冷徹な顔に、理解不能という亀裂が走っていた。
「やつ…あた、り…?」
彼は、未知の言語を聞いたかのように、その単語を復唱した。
「そ」
ヴァルトは、あっけらかんと笑った。
「ユウカがさ、昨日俺に枕を投げつけて怒って泣いて騒いでたんだよね。処刑だって言われたのムカついたから、一番近くにいた俺にぶつけて発散した。それがやつあたりなんでしょ?」
驚きで私の涙は止まっていた。ヴァルト、まって、やめて、と。私は冷や汗をかき、小さく首を振ったが、ヴァルトは私をみていなかった。呆然と立ち尽くすイグナレスをおかしそうにみている。
「……貴様、何を…」
「イグさんも一緒じゃん?
100年前の異邦人が憎い。部下を殺されたのが悔しい。でも、もうそいつらはもーいないから、ユウカに全部ぶつけて殺そうとしてるんだ。イグさんの部下を、1人も殺してないユウカに。つまり」
ヴァルトは首を傾げ、無邪気な子供のように言い放った。
「やつ当たり、してんだろ?」
バギィッ!
ひどい破砕音が響いた。イグナレスの剣が、彼の手の中で砕け散った。彼は自らの得物を粉砕したのだ。
「一緒……だと?」
低い、地鳴りのような声。それはもう、人の声帯から発せられる音ではなかった。
「私の……この、血を吐くような無念を。数多の同胞の死を背負った想いを」
イグナレスの肩が、小刻みに震え始めた。彼の美しい顔の皮膚が、ピキピキと音を立ててひび割れ、その下から青白い鱗が浮き上がってくる。
「小娘の……癇癪と、同様だと抜かしたか……!」
グオォォォン!!!
爆発的な魔力と共に、イグナレスの姿が弾け飛んだ。
黒い軍礼装が引き裂かれ、背中から巨大な黒い氷の翼が突き出す。 手足は太く強靭な鉤爪へと変貌し、額の角がバキバキと音を立てて禍々しく伸びる。 美しい参謀の姿は消え、そこには半ば竜と化した、冷たく美しい異形が顕現していた。
半竜人。イグナレスの正体。彼は本性を表し、全てをぶつけようとしているのだ、私たちに。
竜の顎が咆哮した。広間の窓ガラスが衝撃波で砕け散る。周囲の魔族たちが慌てて逃げ出している。
彼はもう、言葉では自身の感情を制御できなくなっていた。全てを凍らせ、砕き、消滅させることでしか、胸の痛みを止められないのだろう。
理性も、計算も、参謀としての矜持も、もう何もない。 あるのは、一番触れられたくない傷口を、土足で踏み荒らされたことへの制御不能の激昂だけ。
イグナレスは大きく息を吸い込んだ。その口腔の奥で、青白い光が圧縮されていく。竜のブレスだ。
「消えろ……!私の視界から、私の記憶から全て、全て消え失せろ!!」
絶対零度の奔流が、私たち目掛けて吐き出されそうになっている。世界が白く染まる。放出直前の、死の冷気。
ヴァルトは凄まじい冷風に煽られながら、悠然と大剣を構えた。
「やーだね。俺はこの場所もこの身体も、ユウカも気に入ってんの」
ギラリ、と彼の瞳が赤く光った。
「ユウカ。悪いけど突っ込むよ」
彼が短く囁いた。守りを捨てて、飛び込むつもりだ。
もちろん、私を守る余裕なんてないだろう。まともに受ければ、私もヴァルトも死ぬ。今イグナレスが放とうとしているのは、きっとそういう攻撃だ。
私は覚悟を決めた。もう修復やバリアに加護を回さない。
「うん。いって!」
私は胸の前で指を組む。全てを、強化にかける。ヴァルトを信じる。そして。
──私が、あなたの剣になる!
ヴァルトがドォンと音を立てて、一直線にイグナレスへ駆けた。
赤い閃光が走って、ヴァルトが過ぎた床は大きく抉られて氷が散った。
迫るヴァルトに気付いたイグナレスが咆哮し、巨大な鉤爪を振り下ろす。それは物理的な攻撃であると同時に、空間そのものを凍結させる防御不能の一撃。
ヴァルトは笑い、紙一重でそれを躱した…いや、躱しきれていない。彼の左腕が、肩からごっそりと凍りつき、砕け散った。
「あ……ッ!」
私は悲鳴を飲み込んだ。 組んだ指が緩みそうになる。でも、修復に回す魔力はない。何より、ヴァルトもそれを望んでいない!私は再び強く指を組む。強く、強く、強く、祈った。
──力を。ヴァルトに、すべての、力を────!
彼は失った腕など気にも留めず、残った右手一本で大剣を握りしめ、さらに加速した。
「おしまいだ、イグさん」
イグナレスの眼前まで肉薄したヴァルトが、渾身の一撃を放つ。
イグナレスは、氷の翼でそれを防ごうとした。 だが、その防壁は、私の全霊を込めた加護によって強化された大剣の前に、ガラスのように粉砕された。
ガァアァン!!
轟音と共に、謁見の間が揺れた。 光と冷気が爆発し、私の視界は真っ白に染まった。
次回 愛憎の決着




