32話 憎悪の正体
「……忌々しい」
視界を埋め尽くす、金色の光。ヴァルトの全身から噴き出すその輝き……祝福などと笑わせる。
私にとってはそれは、吐き気を催すほど禍々しい、呪いの色に他ならない。
その光を見た瞬間。脳裏に、封じていた百年前の記憶が、汚泥のように溢れ出した。
◆
かつての戦場。我々魔族は、人間など容易く蹂躙できるはずだった。脆弱で、魔力も少なく、寿命も短い下等生物。何匹湧いて楯突いて来ようが関係ない。
だが、異邦人が現れたあの時。あの瞬間から、戦場は地獄と化した。
『救世主様万歳!』『我らは不滅だ!』『祝福の光よ!』
狂信的な叫びと共に、人間どもが突撃してくる。腕を切り落としても、腹を裂いても、止まらない。背後に控える“異邦人”の加護を受けた彼らは、傷口から金色の光を放ち、ゾンビのように瞬時に再生し、笑いながら我々の喉元に剣を突き立てた。
私の部下が、次々と殺された。 誇り高い魔族の戦士たちが、死なない人間たちの数の暴力と、尽きない体力によって、ゴミのように無惨にすり潰されていった。
最期に私を庇って死んだ副官の、絶望に染まった顔。
そして──
加護を受けた薄汚い騎士の刃が、あろうことか魔王陛下の玉座にまで届きそうになった時の、あの身の毛もよだつ恐怖。絶対的な主が、羽虫ごときに傷つけられそうになった屈辱。
──理不尽だ。命のやり取りにおいて、一方的に「死なない」などという反則が、許されていいはずがない。
あの光は、希望ではない。世界の理を犯す、おぞましいバグだ。
◆
「……ッ!」
ガギィン!
ヴァルトの大剣が、私の氷の盾を粉砕する。思考の淵から引き戻された私は、目の前の光景に、かつての地獄を幻視した。
ヴァルトの背後にいる、小さな少女。ユウカ。彼女が、祈っている。
その姿は、かつて私の部下を殺したあの異邦人と、完全に重なった。
「…お前が…」
そう思った瞬間。私の中で、何かが決壊した。
「お前のような存在が……その、身の毛もよだつふざけた力が! かつて私の部下を、私の誇りを、泥泥になるまで踏み躙ったのだ!」
私の叫びに、ユウカが、ビクリと身を震わせる。私は、ヴァルトの剣を弾き飛ばして慟哭した。
「私がなぜ、お前を城に置き、衣食住を与え、徹底的に管理していたと思う!」
ユウカの琥珀色の瞳が揺れる。
「抑止力だ。お前が生きていれば、新たな異邦人は召喚されない!ただそれだけの、便利な道具だったからだ!
私は、彼女の心を踏みにじる言葉を残酷に紡ぐ。
「情が移ったなどと、一度でも思ったか!?」
私は、理解していた。ユウカが私を見つめる眼差しには、怯え以外にも様々な感情が含まれていた。そこにはおそらく…親愛も。嗚呼、なんとも馬鹿げた、滑稽な話だ!
「人間どもを根絶やしにし、世界を我々のものにした暁には──不要となったお前は、この手で始末するつもりだった!」
だからこそこの言葉は、決定的な刃となって彼女を貫いただろう。その証拠に、ユウカの瞳が見開かれる。それに歪んだ愉悦を感じ、私は。
「初めて会った時から、お前に対して憎しみ以外の感情を抱いたことなど、一度もない!!」
叫んだ。ただ、その心を完膚なきまで傷つけるために。
そしてその期待通りに、彼女の唇がわななき、そして──硬直した。
フッ、と。 ヴァルトを包んでいた金色の光の加護が、動揺によって揺らぎ、薄くなった。
私は、その瞬間を見逃さなかった。 憎悪のままに、氷の剣を突き出す。
ズリュッ
「が……っ」
私の剣が、光の薄れたヴァルトの腹部を深々と貫いた。ヴァルトが苦悶の声を漏らし、口から鮮血を吐く。
手応えがあった。致命傷に近い。厄介な盾は砕けた。これで邪魔者はいなくなった。
──あとは、お前だけだ。
私は、串刺しにしたヴァルトの肩越しに、ユウカを睨みつけた。
──殺す……いや!ひと思いになど殺してやるものか!
私の脳裏に、昏い愉悦が駆け巡る。
そうだ。私はこの時を待っていたのだ。この小娘を地下牢に引きずり込み、その四肢を砕き、希望を削ぎ落とし、散々苦しめ、泣き叫ばせてから殺してやる。
かつて私の部下たちが味わった苦痛を、倍にして返してやるのだ。さあ、泣け。喚け。命乞いをしろ。その絶望に歪んだ顔を、特等席で眺めてやる──。
そう思って、ユウカの顔を見た、その時。
ドクン、と、心臓が嫌な音を立てた。
彼女は、私の望み通り泣いていた。
しかしそれは、恐怖からの涙ではない。怒りでもない。ただ、悲痛な悲しみだけを大きな瞳に浮かべ、ボロボロと大粒の涙をこぼしていた。そして、呟いた。
「──イグナレス、さん……」
縋るように。噛み締めるように。
胸の奥に、鈍い痛みが走った。嗜虐的な歓喜が湧き上がるはずの場所に、焼け付くような苦しみが広がる。
剣を握る手が、無意識に一瞬だけ強張る。思考が、空白に染まる。
その、一瞬の隙。 殺し合いの最中に生じた、致命的な停滞。
ヴァルトが、それを見逃すはずがなかった。
「──隙あり」
楽しげな声と共に、眼前で黒い刃が閃く。
「ッ!?」
私は反射的に、突き刺していた氷剣を引き抜き、防御に回った。
ガギンッ!
重い衝撃。腹を貫かれていたはずの男が、信じられない膂力で大剣を振り抜いてきたのだ。
「チッ……!」
私は舌打ちをし、氷の防壁を展開して彼を弾き飛ばす。ザザッ、と氷の床を削りながら、互いに距離を取る。
──まだ動けるのか……!
私は彼を睨みつけた。
見れば、ヴァルトの腹の傷は塞がりきっていない。私の氷剣による傷は、再生を阻害する呪いを含んでいる。普通なら立っていることさえ不可能なはずだ。 だが、彼は平然と立っている。
ヴァルトは、剣をだらりと下げると、ボロボロと泣き崩れているユウカを一瞥した。
そして、視線を私に戻し、口から垂れる血を拭いもせずに、まるで難解なパズルの答えを見つけた子供のように、ポンと手を打った。
「あ」
彼は、目を細めて無邪気に唇を開いた。
「なるほど。……イグさん。俺、それ知ってるよ」
ガシャン、と大剣を肩に担ぎ、嗤う。
「それって。やつ当たり、だろ?」
凍りついた思考。思考回路が、その予想外の単語を処理しきれずに停止する。
「…………は?」
喉の奥から、心から。殺意のこもった音がでた。
次回 やつ当たり




