22話 薄氷上の安寧
灯りの落ちた、暗い部屋。
私はひどい寒気で目を覚ました。ぼんやりと震えながら、暗い室内に目を向けるが、もうイグナレスはいない。
泣きそうになった。誰でもいいからそばにいてほしかった。
『……ユウカさん』
その時、優しい声。シオさんだ。
私は朦朧とする意識の中、救いを求めるように、枕の下にゆるゆると手を入れて探った。そこに隠してある群青色の石を掴む。
『お加減はいかがですか……?辛かったら返事をしなくても、大丈夫です』
私はぼんやりと、石をいつものように胸に寄せた。
「シオさん……さむいの、しんどいよぅ」
私は魘されるように、涙声で言った。いつもみたいに念話をする余裕はない。
『ああ…起こしてしまってごめんなさい』
シオさんの優しい声は、弱った心と身体に染み渡るようだった。
「いいの……シオさんの声、ききたい……なにか、話して……」
ぐずぐずと鼻を鳴らしながら石を抱きしめる。石は、シオさんの魔力を帯びていて暖かい。ひどい寒気がましになるような気がした。
『……ユウカさん。魔族へ加護を与えましたね』
シオさんの声が静かに、優しいけれど悲痛な響きを伴った。 私は熱に浮かされながらもぎくりとする。魔族への加護。人間側からすれば裏切りだ。シオさんは、私を責めるだろうか。
「だってぇ……わたし、捨てられたく、なくって……怒らないで……」
『怒りませんよ』
声は柔らかく、責めている様子はない。
「ほんとう?」
私は掠れた声で囁いた。
『ええ。僕はただ、あなたが心配なだけです』
私は安心して石に頬を寄せた。
『ユウカさん。あなたは救世主の加護を、もっとうまく使いこなせるはず』
シオさんは静かに、優しい声で続けた。
『王都側であなたが加護を使用した際にこのようなダメージがなかったのは、魔術師部隊があなたの身の負担を魔法で軽減していたからです。
魔族への加護が、人間へのそれより負担が大きいということもありますが……』
「むずかしい……わからない……」
『ああ、すみません。ではユウカさん、これだけ覚えておいてください』
「うん……」
『魔法を使う時に一番重要なのは、使用者の望み。強い意志です。救世主の加護も同じだと思います』
「ん……?」
『あなたが心から力を望んだ時、あなたの魔力はそれに応えるでしょう。今回はあなたの意思が伴っていなかったから、きっと魔力暴走を起こしたのです』
「…………」
『大丈夫ですよ。恐れずに、けれどきっと自分の意思で、その力を振るいなさい。きっと、大丈夫だから』
シオさんが何を言っているのかよく分からないけれど、私を案じてくれているというのは伝わってくる。私は涙ぐんで何度も頷いた。
「……シオさん。ありがとう……」
『いいえ。もう……おやすみなさい』
「はい……シオさん」
『なんでしょうか』
「だいすきです」
熱に浮かされ、身も心も弱り、私はちょっとおかしくなっていたんだと思う。感謝しているのも、シオさんのことが好きなのも嘘ではない。
でも感謝はともかく、普通は大好きなんて突然異性には言わない。私だってそれくらいの分別はある。だからこの時、とにかくシオさんをとても困らせるようなことを言ってしまった。
けれどシオさんは、それを馬鹿にすることも、ごまかすこともなく、静かに返事をしてくれた。
『僕もですよ。……だから、早く元気になってくださいね』
◆
冷たい指の感触。腫れぼったい瞼に染み渡るような心地よさ。 黒い天井、豪奢なシャンデリア。覗き込むようにして私を見下ろしている、冷たい相貌。
「……あ」
掠れた声が漏れる。
「まだ、眠っていなさい」
私の額に指の背をつけたまま、イグナレスが囁いた。
私はだいぶ快復していて、まだ身体は重くて怠かったけれど、しっかりと思い出していた。
昨晩、熱に浮かされてイグナレスの手を掴んで離さず、幼子のようにぐずってしまったこと。色々と恥ずかしいことを言ってしまったこと。頬が一気に熱くなる。
眠っていなさい、と言われても、眠れるわけがない。
「あの、イグナレスさん……その、昨日は、本当に……すみませんでした……」
「昨日ではなく一昨日です」
「え」
「あなたはほぼ丸1日、意識が戻らなかった」
イグナレスは私を冷ややかに見下ろす。あ、お説教のスイッチを入れてしまったと思ったけれど遅かった。
「あなたが自分の立場を全く理解していないということが、よく分かりました」
「は、はい……」
「あなたは本当に、私の仕事を増やすことに熱心ですね?」
「す、すみません……」
ヴァルトに焚きつけられたとはいえ、グレイナに加護を与えてしまって大変な戦いになってしまったし。そういえば、グレイナは……。
「あの、グレイナさんは」
「何ともありませんよ。あなた、私がやめろと止めたのに最後に修復をかけたでしょう」
イグナレスが低い声で言った。え、そうだったのか。完全に無意識だった。というかそのあたりの記憶がない。
「命令を無視し、身体を壊し。挙句、管理者である私に手間をかけさせ。これでよく、軍の役に立ちたいなどと言えたものです」
これは、ひどい。イグナレスが怒るのも納得だ。でも、グレイナの怪我が治っているのは良かった。そういえば彼女、元気にこの部屋にやってきて私を燃やそうとしていたのだった。
「本当に、すみません」
謝罪しながらも笑顔がこぼれてしまった。元気になってきたし、グレイナに会いたいなと思った。
そしてふと、一緒に思い出したのはヴァルトのことだ。彼はいったい、何を考えているんだろう。あの時、どうしてあんな風に私を焚きつけたんだろう。それを彼に尋ねたい。怖いと思うのに、彼の考えていることを知りたい。
また、会いに来てくれないかな……そんなことを考えた。
イグナレスが眉を寄せる。
その時、ベルが鳴った。リンリン、と涼やかな音だった。ドアに取り付けられたベル。誰も使わないから、存在を忘れていた。
「どうぞ」と、イグナレスが答えた。
すると扉が開き、黒い艶やかな羽を丸めたフォーゲルがやってきた。
「フォーゲルさん……! うっ、げほっごほ!」
「おお……!驚かせて悪かった。はっ、イグナレス様……」
私が身を起そうとすると、イグナレスが背中に手を差し入れて起こしてくれて、クッションにもたれさせてくれた。フォーゲルがあわあわと両手で(起き上がらなくていい)のポーズをとる。
「言われておりました、月光草を摘んで参りました。ブルゴに届けております」
「ご苦労」
イグナレスは静かに答える。
月光草?と首をかしげると、フォーゲルが説明してくれた。
「人間の滋養に良いと聞いたのだが、稀少な上に高所にしか生えておらんでな。今朝、ようやく摘んでこれたところだ」
「フォーゲルさんが取りに?ありがとうございます……」
私は感激して彼を見上げる。
フォーゲルは頭を掻いた。
「わしは取ってきただけだ。指示をされたのはイグナレス様だから……」
「余計な話だ。もうよいです、下がりなさい」
イグナレスがうんざりしたように言った。
私は目線の合わないイグナレスを見つめた。ありがとうって、また言ったら怒るだろうか。やめておこうかな、とも思った。でも結局。
「ありがとうございます、イグナレスさん」
言ってしまった。イグナレスはやはり、嬉しそうな顔ひとつしなかった。冷たい瞳を曇らせて、何も言わなかった。
フォーゲルは去る前に、一度振り返った。
「ユウカ。わしは斥候に戻れた……お前さんのおかげだ」
と、嬉しい報告をしてくれた。
「お前さんのために、早速この翼を使えたこと、誇らしく思うぞ」
「フォーゲルさん……本当に良かった。ありがとうございます!」
扉が閉まった後も、暖かい気持ちだった。
すると間をおかずに、ゴォンゴン!と扉が叩かれて私はびくっとした。
「どうぞ」とイグナレスが再び返事をする。
「ユウカァ、大丈夫か?」
野太いが、小さく抑えつけられた声。オークでコックのブルゴだ。手には蓋つきのお皿をのせたトレイを持って、のしのしと部屋に入ってきた。彼が自ら持ってきてくれるとは珍しい。
私は顔を輝かせた。
「ブルゴさん!お久ぶりで……っごほっ!げほ」
嬉しくなって声を張り上げたら、見事に再び咳込んだ。
ブルゴは慌て、イグナレスはため息を吐く。
「彼に直接、食べられそうなものをリクエストなさい。今回は極力、身体に負担のなさそうなものを作らせました」
イグナレスが淡々と伝える。
「すみません、わざわざ……」
「良いってことよ。でもあんまり心配かけさせんじゃねえぞ。小鬼どもも心配してるからな。で、リクエストは?なんでも言えや」
私は少し考える。正直言ってあんまり食欲がないのでリクエストもぱっと思いつかない。でも、目の前でわくわくと腕をならしているコックに何かリクエストしないと悪い気がする。
「く、果物……とか……」
「おう!果物を、どうする!?」
「えっ!えーっと!じゅ、ジュースみたいに?絞って……飲みやすく、してくれると……」
「あぁ!?絞るだけか!?」
「おい、病人を困らせるな。ただ彼女の希望するものを作りなさい」
ずいずいと迫るブルゴに参っているのを見かねて、イグナレスが口を挟んだ。
「へい……おいユウカ、次はもっと凝ったリクエストをしろよな」
大きな体をしゅんとさせて、ブルゴはとぼとぼと部屋を出て行った。少し悪いことをしてしまったかもしれない。
イグナレスが疲れたようにため息を吐いた。よく見ると、サイドテーブルによくわからない言語で書かれた書類と万年筆が置いてある。イグナレスは私を看病しながら、ここで仕事をしていたのだろうか。
彼はテーブルを撫でてそれらを消すと、ブルゴの置いていったトレイの上の椀を手に取った。その匙を私は受け取ろうとしたのだが。
「口をあけなさい」
イグナレスは椀に沈めて粥をすくいあげ、私の口元へ持ってきた。どこまで何もできないと思われているんだろうか。
「あの……食べられます、自分で……」
そう言うと、イグナレスは無表情で私に匙の持ち手を差し出したが、私はその匙を受け取ることができなかった。
「あれ?」
指先が震えている。だいぶ、体調は戻っていると思っていたのに、腕を持ち上げると怠くて、それだけで疲れてしまう。
イグナレスは無言で匙を持ち直し、私の口元にそれを近付けた。
「ユウカ」
私は冷や汗をかく。何と言えばいいのかわからない。とにかく恥ずかしい。できれば、匙を置いて出て行ってほしいが、この管理者がそれを許してくれるわけがなかった。
「これ以上、私の仕事を増やすな」
◆
「これが、ベッドの横に落ちていました」
羞恥しかない食事を終えてぐったりしていると、イグナレスが白い手のひらを差し出し、その中には……シオさんの石!昨日、抱いて眠ったまま、転がしてしまったのだ。
私は疲れを忘れて真っ青な顔でそれに手を伸ばし、その冷たい手から石をもぎ取るようにして奪った。
イグナレスは、そんな私を静かに見下ろしている。じっとりと……何か、観察するように。その冷たい視線に、私は硬直する。
あ……まずい。私は石を握りしめて、イグナレスを見上げた。もっと、普通の顔で「ありがとうございます」と言えば良かった。
怪しまれて、これを取り上げられたら、私は……。
が、ふっとイグナレスは薄く笑った。真意の分からない、酷薄な笑みだった。
「そんなに大事なら、適当に転がしておかないことです」
イグナレスは腰を上げ、立ち上がる。
「良いですか。今度こそ、絶対安静です。ヴァルトを騙して外へ連れ出させるのも禁止します」
そしていつもの調子でくぎをさし、部屋を後にした。
シオさんの石を握りしめて息を止めていた私は、ハァッと息を吐いた。
次回 召喚士の祈り




