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1話 捨てられ救世主

『逃げて、逃げて。ひたすらお逃げなさい。とにかく、王都から離れて…』




彼の、悲痛な声が耳の奥で反響する。

息が切れる。足がもつれる。小枝が容赦なく頬を打ち、ぬかるんだ地面に泥だらけの靴が沈む。


──ああ、どうして……


もうどれだけ走ったか分からない。どこへ向かえばいいのかもわからない。命からがら逃げ込んだこの黒い森は、雨と霧で視界さえ奪おうとしていた。


──わたしが、こんな目に……


衰弱しきった私の体が、ついに限界を迎える。当たり前だ。この状態で、ここまで走れたのが奇跡だ。


太い木の根に足を取られ、私は前のめりに倒れ込んだ。冷たい泥水が、破れた服の隙間から容赦なく体温を奪っていく。もう指一本動かせそうになかった。


その時。


降りしきる雨音と、自分の乱れた呼吸音しか聞こえなかったはずの空間に、ふっと異質な気配が混じった。


本能が警鐘を鳴らす。


震える腕をぬかるんだ土につけ、必死に顔を上げる。


霧の向こう、数メートル先の闇が人型に揺らめいた。


いや、違う。 闇の中から、それは現れた。


「ふ、ぁ……」


喉から、音が漏れた。恐怖、絶望、諦め。そういった類の、息を吐くような音。


ガチャリ。


雨音の中でも、距離があっても、その金属の擦れ合う音は重く森に響いた。


黒いマントを羽織った男…に見えた。艶のある黒髪が、雨で濡れて白い肌に張り付いている。背に、巨大な大剣を背負っている。

私と同じか、少し上なくらいだろうか。少年とも青年ともつかない、中性的な顔立ち。


けれど、その存在感は圧倒的だった。 そして暗闇の中で、私を射抜く血のように紅い瞳。


彼は、まるで最初からそこにいたかのように静かに佇んでいた。


「……お嬢さん」


場違いなほど、軽い声が響いた。


彼は、私が泥水に倒れ伏しているのを見ても、何の感情も動かさず、むしろ楽しそうににこりと笑った。

笑っているのに、その紅い瞳の奥は何も映していない。底が見えない。 この世のものとは思えない、絶対的な強者の恐ろしさがあった。


「探してる人がいるんだ」


私は泥水に塗れながら、威圧感があるのに世間話するみたいに軽い声をただ聞くしかなかった。


「きっとその子はこの世界で…右も左も分からない女の子なんだけど」


彼はゆっくりと、私に向かって歩き出す。一歩、また一歩。

私は動けなくて、歩いてきているのは向こうなのに、私が処刑台に向かって歩いて行っているような錯覚を覚えた。


「人間にとっても魔王軍(俺たち)にとっても特別な存在で」


魔王軍。たしか、人間の敵…ああ、じゃあ彼は。


「俺はその子を殺しに来たんだよねぇ...どう?知らない?」


溢れ出す、純粋な殺気。 生物としての格の違いを突きつけるような圧力だった。


息が詰まる。体が鉛のように重くなり、立ち上がることができない…動けない。


──ああ。ここで死ぬんだ…。


衰弱しきっていたせいか、私は思ったよりも冷静にそれを受け入れようとしていた。


答えない私に、彼は苛立つ様子はなかった。きっともう、彼の中で答えが出ているからだろう。


「俺はヴァルト。さすがに魔族だってことはわかるよね?」


ヴァルトと名乗った少年は、私の目の前で立ち止まる。

そして、背負っていた巨大な黒い大剣を軽々と引き抜いた。


ギィン、と鈍い音が森に響く。


すると彼はその大剣の切っ先を私に向けるのではなく、肩に剣をのせた。


「ねぇ」


そして、楽しそうに言った。


「せっかくだからさあ。きみの力、みせてほしいな」


「……え?」


私が、初めて彼に発することができた言葉。言葉というか反応だ。掠れた声。ヴァルトは笑みを深めた。


「俺、戦うのだーい好き。だからホントは、きみをここで殺したくない。長く楽しみたいからね」


何を言っているのか、理解が追いつかない。


「まあ仕事だからやらなきゃいけないんだけど…だからさ」


このまま、気絶してしまいたい。そのうちに、死んでしまえたらどんなに楽だろう。


「せめて、足掻いて楽しませてほしい」


その言葉と同時に、ヴァルトが大剣を振り上げた。 空気が変わる。


ゴォッ、と黒い風が吹き荒れ、彼を中心に魔力の奔流が渦巻いた。

森の木々が恐怖に震えるようにざわめき、あたり一面を消し飛ばしそうな圧倒的な力が、その一点に凝縮されていく。


これが、魔王軍の…幹部クラスの魔力…。


私は固く目をつむった。








しかし、いつまで経っても衝撃は来ない。痛みもない。


恐る恐る目を開けると、ヴァルトは黒い魔力をまとったまま、大剣を振り上げた姿勢で…ぴたりと止まっていた。


「…あれ?」


彼は心底不思議そうに首をひねる。 あれほどの殺気を放っていたのが嘘のように、魔力も風も薄れていく。


「護衛の騎士は?魔術師は?ほかにも色々...いないわけ?なんで?」


ヴァルトは首を捻る。


「えー…もしかして」


ガチャン。剣が下ろされる。纏っていた禍々しい魔力は完璧に霧散していた。


「きみ、ひとり?なんで?」


悔しさと、悲しさと、絶望。もう限界だった。


「そんなの…」


か細い声が、自分でも驚くほどはっきりと響いた。


「そんなの?」


ヴァルトが、私の言葉を繰り返す。


「私が知りたい!!!」


私の慟哭が、雨音を突き抜け、黒い森に響き渡った。 驚いた鳥たちが、バサバサと一斉に飛び立っていく。 それを見て、ヴァルトは…血の色の瞳を、まん丸くして私を見ていた。



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