消失
西暦20××年 7月某日
カッカッと白のチョークの粉が舞いながら黒板に文字が刻まれる。教室の左からは強い日差しが差し込み空間がキラキラと白く淡く輝く。
「授業の最後に今まで勉強した17世紀から19世紀の絶対王政時代に形作られた世界観、哲学について学んでいくぞ。ここは暗記だから要点だけ素早く説明するからな」
行われているのは世界史の授業。静かな部屋を緩んだ低音の声が満たす。開けた窓からはおおらかな風と共に食堂からお腹の虫を刺激する香ばしい匂いが運ばれてくる。授業を聞いている生徒の中には机の下で準備運動を始める男子もいた。そして、丁度、先生が『ベーコン』の説明を始めた頃だった。瞬間、生徒の脳裏はベーコンを食べたいという欲求に染まったことだろう。すかさず先生は、
「食べ物じゃないからな!おい田中!涎垂らすんじゃないぞ」
「何でわかったんすか!」
と生徒を弄りつつツッコミをいれ、辺りからはくすくすと息が漏れる音が聞こえる。
「ベーコンはベーコン」
小さく笑う声の中にボソっと声が漏らす者がいた。腰あたりまで伸ばした艶やかな黒髪。身長は156センチぐらいだろうか。にもかかわらず教室の後ろの方で前に座るガタイの良い男子の背に隠れるように授業を聞いていた。
「小森、違うぞ。フランシス・ベーコンは帰納法を提唱した人だからな。先入観を捨てろよ」
彼女は、自分が発した声が先生に聞こえていたことを気にしたそぶりを見せることなく続けて答える。
「ベーコンは昨日、ベーコンを食べた」
「…よし!それ採用な」
「「採用するんですか!」」
「ああ、覚えやすいからな。それより次いくぞ次。デカルトだ。『我思う。故に我あり』は聞いたことある人もいるかもしれんが、こちらは演繹法で帰納のベーコンとはまた違う、反対と言っていい考えのプロセスをだな ー 」
生徒からの指摘をそつなく流しつつ、説明を続ける。すると黒板の上、丁度壁の中央に設置されたマイクから、授業の終わりを告げる鐘の音が聞こえた。
「あ、終わりか。じゃあ、続きは明日やるから予習と復習忘れるなよ。よし、昼休みだ!お疲れ、皆んな」
先生の言葉を合図に、前の席から「起立」と言うシャッキとした声が聞こえ、イスが不揃いに引かれる。
「「ありがとうございました」」
「よっしゃあああ!ベーコンは俺のものだああ」
挨拶に被せるように叫びながら、教室の後ろの引き戸が勢いよく開かれる。
「はは、田中らしいな。俺もお腹が空いたよ」
そう言いながら、先生は質問に来た生徒に対して丁寧に接していた。お腹が空いたと言う先生をよそに教室では、ガヤガヤと賑やかな雰囲気に様変わりし、机を動かし小さなグループが作られる。
甘さ、スパイシーさ、さまざまな味の匂いが混ざり合ったお弁当の時間にある独特な匂いに包まれたにもかかわらず、閉じたお弁当袋を前に教科書をじっと見つめる姿があった。
(あああああああ、やってしまった!恥ずかしすぎる。ああ死にたい。いやもう死んだよ。表情に出てなかったかな。うん、大丈夫だよな。上手く誤魔化せたしな。うん大丈夫。大丈夫。私はクールなんだ。)
彼女の名前は小森玲。先ほどの授業で注目を浴びてしまった子だ。相も変わらずすんとした表情で教科書の一文にマーカを引いていたが、実は内心はとても乱れていた。
「こもりん、ご飯一緒に食べよう!」
「っ!あ…うん、食べる」
こもりん、小森が小動物のようにビクッと驚きながら手に持った蛍光マーカーを手放し、教科書を机にしまった。彼女の机の周りには椅子が2脚くっつけられており、ショートツインテールと茜色のリボンが似合う元気に明るく声をかけてきた女の子が弁当袋から勢いよく弁当を出しながら座り込んでいた。そうした彼女を宥めるようにブロンド縁のウェリントンのメガネをかけたレイヤーボブカットの女子生徒がお淑やかに座った。
小森も気を取り直して閉じた袋から弁当を取り出し、真っ赤なタコさんウインナーに箸をかけようとした時、ツインテールの子、橋本千紗が感心したように言った。
「それにしても、さっきのこもりんすごかったね。先生に対してああも変わらず自分を通せるなんて。私ならきっと恥ずか死するところだよ」
小森はタコさんをブッ刺した。
(私だって、恥ずか死するよ。実際さっきまで死んでいたんだけど。そして全然大丈じゃなかった。全く誤魔化せてなかった。これはまた死んだわ)
「もう、千紗ちゃん。振り返すのはやめてあげなよ。玲ちゃんもきっと恥ずかしいから」
「でも、みずみず。それを表情に出さず乗り切ったのすごくない」
「まあ、それはすごいけど」
橋本千紗と水野蒼子の二人はそう言って、今もタコさんをブッ刺したまま微動だにしない小森の方を見た。
小森の死んだ脳は、一つの行動理念に従って動き出した。それは「クールはクール」。彼女はどんなに内面が焦ろうとクールで物静かでいることが何よりかっこいいと思っているし、そういったキャラクターが大好きで、憧れている。だから、ここでも内面の気持ちを飲み込んでクールに振る舞う。
「そんなことはない。私はクール」
そして、ウインナーを口に運ぶと小森は満足したように次に食べるものを考えるのだった。
すると、おもむろに水野が席を立ち、小森の頭を撫で始めた。小森は再び狼狽える。
「何しているの、そうこ」
「いや、玲ちゃんは可愛いいなって」
「私は可愛いくない。冷静なだけ」
「うんうん、そうだね。クールで可愛いね」
そう言って、彼女は撫でる手をやめない。しまいには「私も、私も」と橋本も加わって小森はもみくちゃにされた。
そんな、何も変わることのない、いつもの穏やかな日常が通り過ぎていたが、その日常もある男子の会話から止まることになる。
「なあ、なんか眩しくないか?」
日で焼けた腕を顔の前に翳しながら、一緒に昼食を食べている友達に言った。
「そうか?丁度いい明るさだと思うが。立花がそう言うならカーテン閉めてこよう」
「ああ、悪いな。智晴」
問いかけられた男子生徒はメガネを整えながら頷き、カーテンを閉めに行った。
「どうだ、これでマシになっただろう。むしろちょっと暗いような気がするが…」
「智晴。ほんとうに閉めたのか?どんどん光が強くなっていくんだけど。っあ、ああ、アアア゛ア゛」
平穏だった教室にうめき声が響き渡る。立花輝哉は両手で自身の顔を掴み仰ぐように椅子から崩れ落ちた。
「おい!立花大丈夫か?俺のことが見えるか。見えるなら返事しろ」
九条智晴は立花の肩に手を置きながら目線を合わせて心配そうに声をかけた。しかし、彼は声を垂らすだけで、完全に気が動転していた。クラスの皆が箸を止め二人に注目した。騒然とした中、教壇に立っていた先生が落ち着くように声を上げる。
「おい、どうしたんだ」
「それが、立花が眩しいと言ったのでカーテンを閉めたのですが、光が強いと苦しみ出したんです。俺の声も聞こえていないみたいで、意識が朦朧としているのかもしれません」
「熱中症か?他に症状が出てるところはないか」
先生は落ち着いた声でそう言い、立花の体を確認する。すると彼の身体の端が光の屑となって崩れていた。
「なんだ、これ?体が消えているのか」
「きゃあああああああ!」
異変に気づいた時、別のところから女子の悲鳴が上がった。先生はすぐさま立ち上がり、駆けつける。そこには肘から下がすでにない女子生徒が自分のなくなった腕を見つめていた。見つめる彼女の口は半ば開いており、現状を理解できない、したくないように呆然としていた。彼女のそばには心配で焦るように声をかける女子生徒が先生に気付き状況を伝える。
「早瀬、大丈夫か!」
「先生!あすかの腕が、腕が突然消えたの」
「助けてよ、先生。私どうなるの?このまま消えちゃうの?嫌だよ、そんなの嫌だよ。私はまだ…死にたくない」
早瀬を包む光はどんどん強くなりもう腰から下がなかった。しかし、床に倒れることはなく、まるで存在だけが認知できないかのように佇むその姿は異常性を物語っていた。
「大丈夫だよ。あすか。約束したじゃん。死ぬまで一緒にいようねって。私はまだ消えていないよ。だから…」
「ゆい。ありがとう」
「だから、置いていかないで」
その一言ともに一際強い光が一瞬に解き放たれる。後には二人ともいなかった。
「早瀬…それに出雲まで。一体どうなってるんだ」
「先生」
「今度はどうした!」
振り向くとそこには目線を下に落とし、手を強く握りしめる九条がいた。
「立ばながきえました」
彼は消えた声で、そう一言だけ伝えた。
「そうか……クソッ!おい!お前ら。自分の体に異常がないか確認しろ。周りの奴らの目も借りて互いにだ。いいな!」
先生はクラス全員の安否を確認するために叫びながら改めてあたりを見渡した。
「っ!……」
しかし、彼の目には閑散とした教室が焼きつくばかりだった。そこにはつい5分ほど前まで賑やかに最近流行りの食べ物について話していた女子生徒も友達のおかずを取り合って互いにふざけ合う男子生徒も豪快にプロテインを飲み干すマッチョ共いなかった。残ったのは両手で十分数えられる人だけだった。
「他のみんなは先に消えちゃいました。もう彼女らだけみたいです。そして…私も。ハハ、委員長として何もできなかったな。先生、またクラスみんなで会いましょうね」
「ああ。…もう時間か。上田、お前は最後まで委員長だったよ。比べて俺はやっぱり不甲斐ないなあ。おい。あとは頼んだぞ」
先生は彼女の霞をそっと撫でると横目で振り返り、残していく者に後のことを託していなくなった。
「ね、ねえ、やばいよ。先生も消えちゃったんだけど。ねえ、どうしよ?私たちも消えるのかな。は、早くここから逃げたほうがいいのかな。」
橋本は震えた声で問いかけた。周りを見渡すと教室に残るのはヘッドホンで耳を閉ざしこの騒動からも距離を置く男子と未だ勉強を続けている男子、周りの混乱とは裏腹に健やかに寝息をたて眠る女子、そして私たちだけだった。
小森は静かに思った。これはダメだと。
(なんでだよ!私ら以外ろくなやつ残ってないじゃん。自分の世界に閉じこもったクソサブに三度の飯より受験勉強と豪語していたガリ勉、そして夢幻に囚われた姫。ちょっと死神さん選り好みしすぎだろ!協調性がないやばい奴しかいない…先生、私たちはどうしたらいいですか)
「千紗ちゃん。逃げるのは遅かったみたいだね。私たちも無理みたい」
水野はそういうと椅子を少し引き自身のスカートの裾を少し上げた。そこにあるはずの足は薄く輝き、背景に溶け込んでいた。それは水野だけではなく橋本も同じだった。小森も続けて自分の足を確認したが確かに存在していた。そして気づいた。
(もしかして、私もやばい奴と死神に思われている。いや、待って。確かにまだ死にたくはないけど、ここで一緒に消えないのは違う。本当の死より辛いよ。何か、どこか、光っているところはないの?)
小森が自分の腕の袖を捲り、服の裾をあげるなどゴソゴソしている間に彼女らの時間が来てしまった。
「こもりん、私たちそろそろだめみたい。私たちも消えても一緒…だよね」
橋本は濡れた笑顔で光の屑となった腕を小森の小さな背中に回した。
「そうだね。玲ちゃん。先に行っているよ」
小森にとって、橋本も水野も出会って2年と半年ぐらいの付き合いだ。しかしその短い関係性は彼女にとっては何よりも大切なものだった。自分のことをうまく伝えることはできなかったかもしれないけど、彼女たちが私をどう見ていたかもわからないけど、もう一度、あと一度だけでも最後にさっきみたいに彼女達の手で撫でて欲しかった。
小森は焦った。何か彼女たちに追いつけるものはないか、掛ける言葉はないかと。そして気づく。こういう時こそクールだと。
「うん、これは死ではない。ただの変遷。移り変わるだけ。だから、また私たちは会える」
小さく、されど力強くそう言い、左腕を突き出した。
「ふふ、怜ちゃんらしいね」
そして、教室はまばゆい光に包まれた。
西暦20××年 7月某日 正午
某府立高校で発光現象を観測。同時刻3年2組の担任と生徒36名の内一名を除き、消息不明となる。教室内には麻袋が数枚残されていた。