第5話(2)
母達の声が概ね聞こえなくなった頃、確かこの辺に、と思っていたスカイブルーのガーデンベンチが、小路の途中に姿を現した。
ニコライは、黙って着いて来ていたアレクサンドラを誘って座らせ、自分は少し離れて腰をかけると、
「だいじょうぶですか。まだきちんと治っていないのではないですか」
と覗き込むように尋ねた。
彼女は少しきょとんとしたようだったが、すぐに瞬きとともに、「ご心配いたみ入ります。もう十分にかいふくしております」と淑やかに答えた。
触れた手の冷たさがまだ記憶の続いているニコライは、むっとして「とてもそうは見えません」と抗議した。
「まえにお会いしたときの君は、はきはきしてつんつんしていましたが、もっと元気がありました。母上が、何の勉強をしているのかおたずねになった時、すらすらと難しいことを答えて、とてもとくいそうでした。
でも今日は、元気がありません。しょんぼりしているように見えます。ぐあいが悪いのをがまんしているのではないのですか」
詰め寄るように尋ねたニコライは再び、あれ、と驚いた。
アレクサンドラは、怒るでもなく動揺するでもなく、
「何でもないのです。健康はとりもどしております、殿下がご心配くださっているようなことはなにも。
あとはわたくしが……わたくしだけの問題でございます。おゆるしくださいませ」
と、、声だけは年相応だったが、大人びた、ではない本物の大人がするように、透き通った微笑みを片頬に含んでみせた。
楚々とした中に、唇だけに僅かな苦しみがある気がした。
4歳の少女どころか、まもなく社交界デビューする従姉の公爵令嬢にも見たことがない表情だった。
ニコライは、目の前の少女を初めて可愛らしいと思った。
姿形は元々申し分なかったが、滲み出る自尊心の強さに気圧されていたところ、こういう儚げな一面もあるのだと、新しい風が吹き抜ける。
同時に、隠している苦しみを和らげ、守ってあげたいと、歳よりは大人びているものの6歳になり立てのニコライは、直情的に考えた。
また、嘘を吐いていると詰ってしまったことを反省し、責任を取らなければとも思った。
そこで、アレクサンドラの正面に回り、左膝を地面に、右腕を胸上に留める騎士の礼を取り、
「アレクサンドラ・イワーノヴナ。僕とこんやくしてくださいませんか」
と、胸をときめかせながら告げた。
話に聞いているプロポーズというものを、精一杯実行に移してみたつもりだったが、アレクサンドラは声を発さない。
どこかに失敗があっただろうかとニコライが心配になり始める頃、これ以上はないほど見開かれた翠眼が潤み、瞬きとともに大きな煌めく雫が白い頬を伝い、華奢な両手のひらで顔を覆い、やがて、しゃくりあげる声が漏れ聞こえてきた。
しまった、泣かせてしまった、とニコライは青くなった。
驚かせてしまったか、思いつきで突然婚約したのがいけなかったか、"良いふんいき"が大事だと侍女が噂していたが、今は良くなかったのかもと慌てながら、アレクサンドラを宥めようとする。
が、まだ6歳の子供が、張り詰めたものが弾けて泣いている者の涙を紛らわす技術など持ち合わせているはずもなく、少女が泣き止む気配は容易に訪れなかった。
やはり駄目だったか、そんなに簡単には行かないと自分に言い聞かせる一方で、他でもない王子からの申し出なのだから、顔を赤らめて躊躇うくらいの反応は受けられると思っていたのに、と、泣かれたことに自尊心が傷ついた。
差し出したハンカチーフも受け取ってもらえず、持て余したニコライは、自分も泣きそうになりながら、仕方なく、大人を呼びに戻った。
伯爵夫人親子は、既に帰路に着いたと、茶席後の母の私室で聞かされたニコライは赤面して、改めて謝罪を述べた。
成人には全く手の届かない、若輩の枠にすら入れていない子供が、子供心だが随分とませたことをしてしまったという後ろめたさでいっぱいだったが、意外なことに、母皇后からは泣かせたことには言及されたものの、勝手に婚約を申し出たことには何の咎めもなかった。
母皇后曰く、オルトワ家は国からの委任を受け、公証という重要な執政を担っているということだった。
そしてアレクサンドラは現状、オルトワ家本流の唯一の子であり、このまま行くと家業を継ぐことになると教えてくれた。
「では、こんやくを申し出たのはいけなかったのですね。泣かせてしまって、済まないことをしました」
子が1人なのであれば、その子が家を継がなければ、家業は他家に取られてしまう。
先に事情を聞いておけば良かった、と項垂れるニコライに、母皇后は、「驚いただけでしょう、気になさらぬよう。ほとぼりが冷めたら手紙でも書いて差し上げなさい」とさらりと慰めた。
「でも、けっこんできない相手からの申し出なんて、こまるだけでしょう」
ニコライが顎を引くと、母皇后は、
「今はね。早く弟か妹が生まれて欲しいものです」
と謎めいた笑みを浮かべた。