第5話(1)
ソルトモーレ帝国の第1王子、ニコライ・フョードロヴィチ・ザハーリンは、先日、といっても数か月前だが、その時と同じく庭のガゼボ(西洋風あずまや)に設えられた席で、母皇后とともに、オルトワ夫人とその娘を待ち受けていた。
季節は初夏に差し掛かっている時分で、蕾を解いているとりどりのバラに注意を引かれると、スイカズラがどこかで私も、と香る。
もっともガゼボは、屋根が吐いていて今日のように軽食を楽しむこともあるため、あまり花の香が押し寄せないよう、周囲の植え方に配慮がある。
今日は、先日途中で倒れた娘が快復したため、仕切り直しの席ということだった。
初回もそうだったが、何故自分が同席するのかニコライはいまいち理解していなかった。
6歳になったばかりのニコライには姉妹はおらず、弟はいるがまだ赤ん坊である。
ゆえに歳が近い話し相手ということなのかな、と受け入れていたが、口さがない侍女達の、あけすけな噂話に耳を傾けてみると、
お顔立ちも歳の頃もお似合いでいらっしゃる
家柄も申し分ない
オルトワ家側の事情で婚約できないのは残念なこと
言葉の意味は理解できるが、内容は全く分からないものだった。
何心なく母皇后に尋ねると、誰が言いましたと少し眉を顰めたが、すぐに謎めいた笑みを零し、「オルトワの娘をどう思いましたか」とニコライに問いかけた。
「オルトワ?この前たおれた子ですか?」
「そうです、美しく可憐な娘でしたろう。大人びて、はきはきして賢く、礼儀正しくもある」
「かれんとは何ですか」
「可愛らしく、守ってやりたくなる、という意味です」
ニコライは、それは違うかもしれないと思い口を閉じた。
確かに顔は作り物のように可愛らしかったし、特徴は母の言う通りだったが、守りたいという印象は生まれなかった。
自分よりも年下にも関わらず、取り澄まして隙がなく、守らずとも全て自力で解決しそうな娘だった。
容姿に優れかつ頭が良いという自覚があり、他者からもそう思われて当然だと感じている態度を、貴族の娘らしく、少し生意気だとニコライは思った。
「気に入りましたか」
息子の沈黙を肯定と捉えるつもりらしい、母親ながら気の置けないソルトモーレの皇后に向かって、機嫌を損ねず、自分の意見も主張したい反抗心で、ニコライは満面の笑みで、
「どうでしょう、とちゅうで帰ってしまいましたから」
と答えた。
母皇后は目を丸くし、次いで「大人びているのはそなたも同じね」と扇で上品笑みを隠し、追従する侍女がその代わりというように笑いさざめいた。
*
「お招きいただき、こうえいしごくに存じます。先日のごぶれい、心よりおわび申しあげます」
あれ、とニコライは、多少の驚きとともに、中庭で再度演じられた少女のカーテシーを見守った。
姿勢も挨拶も非の打ち所がない、見事な淑女ぶりだったが、先日と比べて声に覇気がない。
先日は、うまく繕った遠慮深さの奥に満ちあふれる自信があったが、今日はその代わりに憂いが押し隠されているようだった。
「おお、元気になって何よりだ。顔色も良くなったな」
母皇后はそのように喜んだが、ニコライは真逆の印象を受けた。
おそれ入ります、と伏せた目元には長い睫毛が落とす以外にも深い影があるように感じられた。
母子の挨拶は、続いてニコライに献上される。
「殿下に御挨拶申し上げます、また少し大きくおなりですか」
「ありがとう。あまり時間がたっていませんから、それほどでもないでしょう」
伯爵夫人の恭しい口上を受け取ると、娘が「殿下にごあいさつ申しあげます」と控えめに続いた。
「ずつうはもう治りましたか」
「はい。お心づかいにかんしゃいたします」
完璧に使いこなされて、身に着いていると感じられる言葉遣いは、前回は鼻についたが今日は憐れを誘われて、ニコライは彼女から目を離し難くなった。
ガゼボはそれほど広さがなく、大きなテーブルを置けないことから、やむを得ずティースタンドを持ち出しての茶席になったが、私事扱いなのと子供が2人加わっていることから、略式の名のもとにルールを少し崩し、サンドイッチの代わりに種々のプチケーキを揃えてあしらう心遣いがなされた。
飲み物はもちろん茶だが、旬の果実のジュースとミルクもガラスジャグに用意され、飲みたいものをサーブするよう侍女が控える。
茶席の話題は、当然母同士が独占した。
治って良かったという労いが繰り返され、頭痛の原因は分からず仕舞いだと訴えると、侍医を遣わそうという申し出、伯爵夫人の感激、と続く。
A公爵の子息とB侯爵の令嬢の婚約と、C侯爵家が親戚から迎えた養子が財産を食い潰したスキャンダルを挟み、テーマはオルトフ家の事情に至る。
「そなたのところは、例の義弟を除けば盤石であろう。公証という公正中立を厳とする役目を、こなせる者はそうはおるまい」
「陛下の御名のもとに、我が家が司らせていただいていることに感謝しております。家の恥でお耳汚しをしていることは、心苦しゅうございますが」
「まあ、アレクサンドラが継ぐのなら何も問題はあるまいよ。……もったいないことではあるが。兄弟がおらず1人というのは寂しかろうし、付け入る隙を与えないために、早く弟か妹を持たせてやることだ」
「はい、私も夫も、常日頃そう思って焦がれているところでございますが、お恥ずかしながら……娘を授かるにも苦労いたしましたゆえ」
「そうであったか。無神経だったな、すまぬ」
「そんな陛下、とんでもないことでございます」
皇后は斜向かいのアレクサンドラが、ティーカップを手にしたまま茶を冷ましているのを見つけ、「今日はジュースの気分か?」と努めて優しく声をかけた。
アレクサンドラは驚いて顔を上げ、「い、いえ、おいしく頂いております。お心づかい、身にあまるこうえいでございます」と返しながら、カップをソーサーに戻した。
「臆せずともよい、遠慮なく好きな物を取りなさい。コーリャも勧めておあげ」
皇后の言葉が終わるか終わらないかのところで、すかさず侍女が令嬢の茶を入れ替えた上、さりげなくジュースジャグのそばに待機を始めた。
アレクサンドラの隣に座るニコライは、「白いのはチーズにヨーグルトが合わせてあっておいしいですよ」など、自分が好みだったものをいくつか伝え、侍女が皿に取り分ける。
アレクサンドラは喜ぶでもなく戸惑うでもなく、「おそれ入ります」と微かに微笑みを返した。
ただ、フォークを取り上げる素振りはなく、プチケーキは、王冠と鷲が縁に描かれた皿の上で、鮮やかなモザイクを描いたままになっていた。
気に入らなかったのか、それとも単に食欲がないのかとコーリャが落胆を内心に隠していると、伯爵夫人が「お勧めくださったのだから遠慮せず頂きなさい」と、促すとみせかけた窘めを与えている。
皇后がそこで再度
「無理をさせてはならぬよ。食べたい時に食べたい物を、というのは大切なことだ。それより、大人の話題でつまらなかったであろう」
と助け船を出した。
「いえ、そのようなことは」
「コーリャ、アレクサンドラ嬢に庭を案内して差し上げなさい。今が最も美しい季節だから」
ニコライは、幼いながらに、母皇后が自分と令嬢を2人きりにしようとしていることに気が付いた。
この中庭は、季節ごとに移り変わる花が飾る、いつでも見応えある場所であり、美しいからと誘い出す常套句が、舞踏会が行われるたびに囁かれる。
もっとも自分にも都合が良かったので、ニコライは知らないふりで母皇后に従うことにした。
ニコライは椅子を滑り降り、アレクサンドラの傍に立ち、「ではまいりましょう」と、彼女のカーテシーに負けないボウアンドスクレープを見せた。
戸惑うアレクサンドラの左手を、相手は臣下とはいえ失礼だと教育されていたが、僕はまだ子供、と思い切って手を取って引いた。
氷のような手の冷たさに驚き、彼女が椅子から立ったのを見届けてからさりげなく離す。
案の定、母皇后から咎めはなく、ニコライは、はらはらしている伯爵夫人に、
「ご令嬢をおかりしますね」
と笑いかけると、返事は待たずに、アレクサンドラを伴って白薔薇の小路に入っていった。