第4話(1)
ようやく熱が下がり、少しずつだが食事ができるようになるまで、優に1か月はかかった。
熱に加えて栄養が取れず、頭が働かないことが幸いして、巻き戻されたショックも、自分の罪の重さもしばらく考えずに済んでいた。
徐々にベッドから降りられるようになり、手を借りずとも歩けるようになり、椅子に座っていられる時間が伸びていった。
久しぶりに御髪を梳きましょうと促されて、ドレッシングテーブルに向かう。
身体はメイドの手によって清拭を受けていたが、髪は比較的手つかずだった。
向かい合った楕円の鏡には、酷く面窶れした4歳の自分が映っていた。
分かっていたことだが、巻き戻りをまざまざと見せつけられる、身に応える光景に、アレクサンドラは思わず目を伏せ、黙って手入れを受けた。
ごわつき縺れていたシルクのような髪に筋が通り、プラチナブロンドの輝きが取り戻されていく。
髪を梳きながら、今日の当番のメイドは、普段は美しいが作り物のような主が、面窶れしてかえって人間らしい優美さが加わっている、とこっそり目の保養をしていた。
上役が見ていないところでは、幼い主相手に、時々気安い口の利き方をする、若いメイドなのだった。
起き上がっている時間を伸ばした方がいい、という医者の勧めで、床離れした後は、掃き出し窓の近くに移動され、クッションなどで心地良く設えられた肘掛け椅子で、日中は本を読みながら安静にして過ごした。
疲れるといけないということで、直射日光が避けられ、日の傾きに合わせて位置は随時動かされており、日の光の明るさは落ち着きと安らぎを幼い目に与え、好きなだけうたた寝をすることも許された。
ただ、なまじ巻き戻る前の記憶を持っているせいで、書斎の本は読了していて3周目4周目の読書になっているし、学問で気を紛らわすにも、もうほとんど教わるものは教わっていた。
家業については、まだ学ぶべきことは残っており、その学習や研究に時間を使えばさぞ捗るだろうが、今は、家業のことは深く考えたくなかった。
机上でさまざまに学べば学ぶほど、見聞きした実務の粗に、次々と気がついてしまう。
やり方に無駄がある、手続そのものに問題がある、慣れによる注意力低下が見られる、ミスへの対応が不十分だ。
巻き戻る前は、如何なものかと眉を顰める都度口を出し、主家に従わない理由はないはずだと押し通し、それで失敗した。
もう二度と繰り返さないと心から反省はしているが、性格上気づいてしまうのはどうにも止められなかった。
研究で留まるのであれば無害だが、アレクサンドラはいずれオルトフ家の当主になり、実務に関与する道が待っている。
もう培ってしまった知識は記憶から消せないが、これ以上増やさないことは今からでも可能だ。
お父様のやり方をなぞり、現状を維持していくのが最善だと言い聞かせ、考えないようにするのが唯一の対処法だった。
アレクサンドラが、こうやって未来にかかった覆い布を持ち上げるたび、ガツン、という衝撃が記憶から飛び出して脳を激しく揺さぶるのだった。
蹴られた胸、
突き飛ばされた肩、
憎しみの溢れる目、
アレクサンドラは読みかけの本を取り落とし、椅子の上で両腕を抱え蹲った。
震える彼女に、寒いのかとメイドが駆け寄って来た。
*
本当に久しぶりにダイニングルームに降りて来た娘を、夫妻は涙ぐみながら迎えた。
幼いながらに礼儀作法を完璧に身に着けている娘が、最高の方の茶席で退席できずに倒れるとは、余程苦しかったのだろうと、異常に早く気づいてやれなかったことにを痛めた。
病状は一進一退を繰り返し、どう手を打てばいいのかと冷静さを失っていたが、ここまで快復した奇跡に、心から安堵するとともに、神の御手に感謝した。
頭痛と引き続いた高熱の原因は医学的には不明、子供なのであり得ることだと診断され、陛下にお願いして侍医に診察を頼もうかと思うほどには、夫妻は非常に不満だった。
しかし、ここから大切なのは再発させないこと、再発の兆しを見逃さないことという医者のもっともな指示には従わざるを得ず、まだ機敏に動けない愛娘に不便な思いをさせてストレスをかけないよう心を配った。
基本は伯爵夫人自らが、所用でやむを得ない時は筆頭メイドが、途切れなく幼い娘の見守りを行い、教育を再開してからは、教師陣がそれに加わった。
娘は元々おしゃべりな方ではなかったが、予後と言える段階になっても極端に言葉少ななまま、体調が改善しても沈みがちになった。
話しかければ口は開くが、以前のようなはきはきとした、子供らしからぬ受け答えや、聞き知ったことを大人が舌を巻くような膨らませ方をして尋ね返すような発言は影を潜めていると、見守りに加わっている誰もが感じていた。
別な病なのではないかという疑いも出たが、特定はできず、様子を見ているしか術がなかったが、倒れる前のように、4歳とは思えない所作でカトラリーを扱う娘に、夫妻は一喜するのだった。