第22話(3)
アレクサンドラはしばらく口が利けなかった。
誰かにきつい言葉を放つのは巻き戻る前以来で本当に久しぶりであり、ゆえに制動のかけ方も一時的に失っていた。
思考による情報の整理が後から追い着いて来て、やっと王子の試みの重大さに立ち止まったのだった。
試みといってももう成された後だが、恐ろしく大胆であり、ソルトモーレ中が大騒ぎになるような事件だった。
第1王子が王位を継承しない、皇太子にならない王子は公爵位を得て王家から離れるのが通例のところ、伯爵家の娘であるアレクサンドラに求婚をした。
まさか、新たな公爵家にアレクサンドラを迎え入れるということなのだろうか、と尋ねたが、私がオルトフの一員になるのです、もちろん次期公証長は貴方だと、殿下から訂正を受けた。
確かにその策が通れば、形式的には、オルトフ家は公証の地位を手放さなくて済むが、
「……皇后陛下は、このことをご存知なのですか」
「いいえ。話してしまえば、今日の茶席は催されず、私が貴方と直接お話しできる機会は、未来の皇太子妃として登城する時までなくなってしまいますから」
「それは……それで、皇后陛下はご納得されるのでしょうか」
殿下の主張ではどう考えても屁理屈の誹りを逃れられないのではないかと思われた。
皇后陛下がそれを指摘し、皇太子にならないという殿下の決断を取り消させるだけで、事態はオルトフにとって最悪に傾く。
しかし殿下は朗らかに、
「母上が仰ることの細かいニュアンスは私は存じません、細かい機微を察するのは不得手なので、はっきり言っていただかないと。
それに、父上からは王家から離籍するご承諾は賜っています、次期皇太子の決定は国王陛下の専権ですから、母上も口出しはできますまい。
弟のアレクセイも妹のタチアナも非常に優秀ですし、さらにその下にも弟妹がおります。
王家は皇太子候補には事欠いていないのですよ。父上も最後には納得してくださいました」
アレクサンドラは今度こそ心から呆れた。
最後には、ということは余程言い争った上で押し通したと推測されたが、お子ではあられるものの国王陛下に対し何という振る舞いを、また長子で適齢であり、貴族も平民も次期皇太子は第1王子と疑っていないところを、と端で聞いても驚愕するものであるのに、渦中に据えられているアレクサンドラは悩める顔でこめかみを押さえる。
オルロワ嬢、と改まった声をかけられて眼差しを上げると、ニコライ殿下は打って変わって緊張した面持ちで言った。
「アレクサンドラ・イワーノヴナ。貴方もご存知の通り、貴族の結婚はほとんどが政略結婚です。
ですので、これは政治なのだと思って私を利用してくださればと思います。
私が貴方のその、配偶者になれば、僭越ですが公証を責める声も、全くではなくとも、ある程度は抑えられましょう。
それから、これ最初に言っておくべきでしたが、あくまでこれは提案、そうですね、政治的な提案であって、脅しでは決してありません。
もちろん、お気に召さなければ断っていただいて構いません、私は貴方の慈悲を請う立場ですから。
ただ、私の想いは本物だということだけは信じていただきたい」
「その場合は、翻って皇太子になられるのですか」
「いいえ、それでは状況が元に戻ってしまいます。
その場合はそうですね、諦めてしばらく傷心の公爵として、独り身を謳歌しますよ」
どうしてそこまで、とアレクサンドラは戸惑った。
彼女がどちらを選ぼうと、殿下は王家から去ると決めている、あまりにもリスクが高い破天荒な未来にどうして踏み切ったのだろう。
「私と結婚して、殿下に何かメリットがおありになりますの」
それを聞いた王子はぐったりと項垂れた。
政治という形容が効きすぎたのか、彼女に広い視点で考えてもらえば承諾を得やすいのでは、と取った策が裏目に出たと見えた。
騎士の礼を取り結婚を申し込むということは、申し込む方は当然本気なのだが、ニコライの想い人は聡明なのにこの分野はどうも鈍いらしかった。
可愛らしいとは思うが、その玉の瑕は今はニコライにとって致命的になりかねない。
佇まいを整え、ニコライは改めて想いの丈を訴えた。
「本物の想いだと申し上げたではありませんか。
貴方と手を携えて歩みたいというのが、あの幼き日からの私の希望でした。
政略結婚とは申しましたが、私の方はこれこそが本懐なのです」
懇願の滲んだ求婚は、今度はアレクサンドラに届いた。
彼女のために王家を離籍する殿下の真剣さは、彼女の心を少なからず打った。
彼女は考える。
殿下は強制ではないと仰ったが、求婚を受けない選択肢はオルトフにはないのも同然だ。
しかも、受けても何も悪い要素はない。
唯一の懸念は、王子殿下の人となりを、世間で噂されているのと同じ程度しか存じ上げないことだ。
当然会話したことなど、あの時の茶会の時以来だった。
碌に顔を見たこともない相手、どんな方なのか掴めていない相手を伴侶として良いのか迷った。
父母に意見を求めたいと願うが、もちろんそんな時間はない、結論は今ここで出さなければならない。
恐らく最初に抱いた恋心は、完全に彼女の眼鏡違いだった。
一度あることは二度起こる、人を見る目がない自分が、再び誤った判断に陥ったら。
恐れ多くも殿下を長く待たせるわけにはいかない、ごく短い時間の中で彼女は悩んで悩んで悩み抜いて、
最終的に政治を選んだ。
アレクサンドラはドレスを摘まみ、今までで最大限に優美に淑女の礼を取って、
「不束者ではございますが、私でよろしければ、謹んでお受けいたします」
と緩やかに膝を折った。
起き直ると、これ以上はなく笑み崩れた殿下の顔が間近にあって、思わず身体を引いた。
ニコライも、婚約を得た相手とはいえ近づき過ぎたことに慌て、「失礼」、と同じように後ずさる。
少しの間2人とも俯きがちに押し黙っていたが、やがてアレクサンドラの眼差しの先に、手のひらが差し出された。
「戻りましょう」
見上げた殿下が面映ゆそうにしているのを目新しく拝見し、アレクサンドラは己の手を委ねて連れ立って小路を歩き始めた。
母上と皇后陛下の茶席はどうなっているだろうか、俄かに心配事を思い出し駆け出したい気持ちに駆られたが、他方で、初めて"本物の"エスコートを受けていることの居心地の悪さがそれを引き留めていた。
「しかし、国王陛下がよくお許しになられましたことでございますね」
沈黙を紛らわそうとアレクサンドラが呟くと、ニコライは人の悪そうな笑い方をした。
「父上、国王陛下も第2子でいらっしゃいますから。その辺から説きました。必ずしも長子が家を継ぐ時代ではない、ということですよ。
あっいや、これはあくまで一般論であって、いや一般論でもないか、必ずしも誰にでも当てはまるという理論ではないので、お気になさらず、聞かなかったことにして下さい」
自慢から一気に慌てて否定に転落する殿下の、威厳形無しの様子に、アレクサンドラは少し熱い頬を気にしながら、唇に笑みを含んだ。




