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第3話(1)

カシャン


また、頭をぶつけたのかと、ぼんやり考える。

今度はガツッではなく、カシャンという繊細に壊れる音だった。

壊れるだけ壊れたはずなのに、砕け残った破片でもあったのだろうか、漂う思考はそのうち、今は息ができていることに気がつく。

だとするとここは神の御許か、と瞼を持ち上げようとしていると、遠くから誰かの声が聞こえてきた。

聞き覚えのあるそれは次第に大きく、はっきりとしてくる。


(サーシャ!)

(お嬢様!)


自分が呼ばれていることを認識するなり、声はわんわんと耳の中で乱反射を始めた。

煩い、黙りなさいという制止は何故か形にならず、苛立ちを募らせるうちに、身体が浮かび上がる感覚に襲われる。

騒声から離れられると思ったところが、呼び掛けはますますボリュームを上げ、意識が輪郭を持ち、瞼の裏に光を感じて、


「サーシャ!サーシャしっかり!」

「待て、動かさぬ方が良い。程なく侍医が参る」

「まあ陛下、何たる幸甚……!」

「お、奥様!お嬢様がお気づきに!」

   

う、と小さく呻いた後に薄く開いた翠眼は、まず石灰岩の敷石を映した。

何故敷石に頬を付けているのだろう、と不審に思う間に、ティーカップの破片、ささやかな茶色い水溜まり、そして投げ出されている小さな白い手が次々に目に入る。

陶製のような滑らかな手は、驚いたことに、意思に応じてぴくりと動いた。

自分の手ならば、何故こんなに小さいのだろう、困惑するうち焦点が、破片に残っている王冠と鷲の紋章に合った。

記憶が擽られる。

突如として、かつて招かれた私的な茶会が蘇る。


宮廷の美しい庭

ガゼボに設えられた4席

カーテシーを褒めてくださった皇后陛下

促され、差し出した手の甲へのキス

似合いの、と交わされる大人達の微笑み

誇らしくも当然、と


後頭部を中心とした激しい頭痛が始まった。


「サーシャ!ああサーシャ!」


周囲が慌ただしさを増す中、そうかこれは夢かと合点し、アレクサンドラは再び意識を失った。


*


(……夢が続いているの、かしら)


見知った天蓋に翳してみた手のいとけなさに、アレクサンドラは愕然とした。

意識を取り戻したお嬢様に気が付いた当番のメイドは、寝室から文字通り転がり出て行った。

アレクサンドラは確かに、階段から落ちて絶命したはずだった。

それが、記憶が正しければ今は4歳の春である。

記憶の中の4歳の春には、私事で茶席を設けるゆえ娘を伴うよう、成長が見たいと、恐れ多くも最高の方から仰せがあった。

しかしあの時は、承った母が、光栄のあまり卒倒しかけたのと除けば恙なく済んだはずだ。

最中であのような頭痛に襲われた覚えはない。


自室に寝かされているということは、重症とみなされて王宮から運び出されたのだろう。

王宮で死者を出すのは禁忌であり当然の処置だが、馬車の揺れすら気が付かなかったことにアレクサンドラは少なからずショックを受けていると、邸内を走る複数の靴音が近づいてくるのを耳にする。

伯爵家ではあり得ない無作法に、全く誰が、とアレクサンドラは眉を寄せたが、乱暴に開いた扉から率先して駆け込んできたのは父と母だった。


「サーシャ!大丈夫かい!?」

「気が付いたのね、ああ神様……!」


泣きそうな面持ちでベッドに縋り付く両親に遅れ、乳母とメイドに腕を引っ張られ、執事に背中を押された医者が、息切れしながらどだどたと駆け込み、早く診ろと急かされた。

医者の診立てでは、頭痛の原因は不明だが、現状消耗が激しい。

また、この年齢にはよくあることだが、この後熱が上がるかもしれない。

頭痛が発熱の前兆で、この後ぶり返す恐れもあるため、絶対安静と養生が第一である。

原因不明というところに、父伯爵は医者に、何も診ていないのと同じではないかと抗議し、母夫人はそれを、お静かにと押し留めながら、アレクサンドラの髪を掻き撫でた。


「気分はどう、サーシャ?びっくりしましたよ」

「……おかあさま。今日は、何月なんにちでしょう」


アレクサンドラは、これが夢か現かはっきりさせたくて、母夫人に尋ねる。

夢ならば、絶命する前に、神が垂れてくださっている憐れみであり、じきに醒める。

けれども、夢ではないのなら、それはどういうことになるのか、はっきりさせておきたかった。


「5月2日よ。貴方は3日間もずっと眠りどおしだったの、本当に心配しましたよ」

「なんねんの、何月でしょう」


母夫人は


「まあ!もちろん帝国歴498年の5月よ。どうしたのサーシャ」


と目を丸くした。

498年は、アレクサンドラから誕生してから4年後の年である。

彼女は思わず手の甲を抓った。

食い込ませた爪が痛みを生み、アレクサンドラは、今見ているこれは夢ではないことを理解せざるを得なかった。

どうしてこうなったのか、アレクサンドラの時間は、階段から落ちた時点から4歳まで巻き戻ってしまったようだった。

倦怠感がどっと訪れ、視界がぐにゃりと歪む。

吐く息が異様に熱い。


「本当にどうしたんだいサーシャ。帝国歴を聞くなんて、もう熱が上がって来ているのではないか」

「まあいけない、本当だわ!」


医者を呼び戻せ、と父伯爵が指示する大声を含め、喧騒が次第に遠くなった。

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