第16話(2)
「おや、これはどうしたね」
父伯爵が、書斎机の右端に重ねていた紙束を取り上げた。
公証長の訪問は頻度が下がっていて、書斎机は概ねアレクサンドラがその主となりつつあった。
もちろん補佐であることを弁え普段は整理整頓を心掛けていたが、片づけが間に合わなかったことにアレクサンドラは内心恥じた。
机上に置いていたのは、
「手続を変えた方が良い、と思ったところを並べてみておりまして……」
躊躇いながら答えると、父伯爵は「おお、それは素晴らしい思い付きだ!どういう内容だね」と大きな笑顔になった。
長く長く続いている手続を変えるという思い切った発案であるため、アレクサンドラは全て説明して同意を得るつもりで話し始めたが、父伯爵は最初のいくつかに耳を傾けたところで、「なるほど、分かった」と頷きながら、紙面から娘へと優しく眼差しを移した。
「あの、内容に問題はありませんでしょうか」
「おや、不安かね。公証で、サーシャの判断が誤っていたことはないよ。それで、職員達にはいつ話をするつもりだね」
「それが実は……迷っております」
歯切れの悪いアレクサンドラに、父伯爵は首を傾げ、
「迷う?どうして。最近、顔が曇っているのはそのことかな」
と尋ねた。
「曇って、おりますか」
「眉間に皺が寄っているよ。美しい顔が台無しだ。お母様も心配しておられたよ、どうしたね」
両親に要らぬ心配をかけてしまった反省をしながら、アレクサンドラは促されるがままに、思い切った変更になるため、反対が相次いで頓挫するのではないかという懸念を持っていると伝えた。
すると父伯爵は、ふむ、と軽く頷いてから
「よし、では私が話をしよう」
と言った。
自分で決めたことによる苦労を父に押し付けるのは無責任だとアレクサンドラは慌てる。
「で、ですが」
「遠慮することはない。公証長は私だ、長として皆に指示を出そう。補佐の提案を承諾し、補佐が動きやすいように環境を整え、結果の責任も公証長が取るのだ。長であるということはそういうことだよ」
そう宣言した父伯爵は、アレクサンドラの書類から項目だけをリストアップさせ、それを邸宅へ持ち帰って秘書に複写させた。
そして、翌日の午前中に上役達を集め、手続自体の見直しに着手する旨を伝達した。
上役達は予想通り戸惑いの目配せをし、アレクサンドラは巻き戻る前の光景が脳裏に蘇り、指先がまた冷たくなるのを覚えた。
自分を突き落としたのは彼らではないのに、後頭部に痛みが走る感覚に囚われる。
しかし、公証長である父に動揺はなかった。
強権的に命令するのではなく、かといって下手に出るでもなく、何故見直しが必要かを、客と職員の両方の視点から丁寧に、しかし決して冗長にではなく説明した。
全員を見回しながら、熱心に説く。
随時、上役の1人2人に、君はどう思うと質問を挟み、阿るような肯定意見も、控えめな否定も頷きながら聞いた。
そして、否定の理由をどうすれば解消できるかを、雑談のような気軽さで他の上役に問いかける。
漠然とでも答えが返って来ると、「なるほど、良いアイディアだ」と褒め、説明に戻る。
そして説明が済む頃には、上役達はまあ仕方ないかという表情に変わっているのが不思議だった。
相手が公証長だからというのも当然影響しているだろうが、その"仕方ない"は嫌々ではなく、もっと広い心から生まれ出たという印象だった。
皆がそのような表情に落ち着いたのを見届けてから、父伯爵は各自に役割を振り、担当間での連携が必要だと付け加えた後、
「具体的に変えるべき項目の案は、これからアレクサンドラに抽出させるゆえ、それをもとに検討するように。迅速に進んだ場合は特別な手当も検討すると皆に伝えて欲しい」
と告げると、上役達は了解の意を述べて退出していった。
「ありがとうございました、お父様」
心なしか悄然としている娘に、どうかしたのかと尋ねると、アレクサンドラは「お父様のような、納得してもらえる言い方を、習得できる気がしません」と俯きがちに答えた。
何を言うかではなく、誰が言うかということの手本を見た気がした。
要求や指示内容をいち早く伝えてしまいたいと逸りがちなアレクサンドラと異なり、上役達が納得まではともかく、理解はした、という段階に至るまでゆったりと待った。
抽出はもう終わっているのに敢えて今からと言いなし、発案がアレクサンドラであるのを誤魔化した。
注意深い者は気づいただろうが、誰もその素振りを見せなかったのは、上役達との間に、関係が構築されているからなのだろう。
自分にはまだできていないと落ち込む娘に、父伯爵は笑い出した。
「それは当たり前だ、サーシャは非常に優秀で努力家な、自慢の娘だと思っているが、こればかりは年の功だからね。
経験を積み重ねて徐々に養われるものだ、焦ってはいけないよ」
それでは父伯爵の齢になるまでずっと苦しいままなのだろうか。
アレクサンドラがゴールの遠く隔たっていることを嘆いていると、
「自分の力では難しいと思うことがあれば頼りなさい。公証長としても父としても、私にはサーシャを育てる義務と欲求がある」
「欲求、ですか?」
「そう。娘が悩んでいる時に手をこまねいていたくないのだ。リストの時も本来は私が旗を振るべきだった、できそうだからサーシャに任せたが、実際できてしまった。よく頑張ったね」
父母は常にアレクサンドラを褒める以外しなかったものの、この父の言葉をアレクサンドラは嬉しく感じた。
過去の痛手に振り回される未熟者だと己を恥じていたが、選べるなら頼るという選択をすることが、彼女の脳裏に刻まれた。




