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第2話(2)

次の日、ピョートルがいつものように、アレクサンドラの指示に異議を唱えた時だった。

いつものように、進歩的な口論に進むのを期待しているかもしれない、そういう想像が思い浮かぶや否や、口を突いて出たのは、指示に従わないなら降格、今の役職を下りて、元の所属に戻れという命令だった。

ぽかんと立ち尽くすピョートルに、聞こえなかったのかと繰り返すと、我に返ったピョートルは顔を引き攣らせながら部屋を出て行った。

その表情に、アレクサンドラは当然の報いだと嘲笑ったが、命令に従うのかどうか答えを言わないで立ち去ったことに気づくと、苛立ちは再び燃え上がった。



アレクサンドラは、一気に強硬な独裁者に逆戻りした。

雇い人への要求が増え、言い方は、一言目は有無を言わさない険を帯び、少しでも躊躇を示せば理屈攻めで捻じ伏せ、それでも抵抗する勇気ある者には容赦なく退職を勧奨した。

一気に解雇を言い渡されるのではなく退職を"勧められる"というのが、圧力として逆に雇い人の間に恐怖として広がった。

それに耐えられず、身分があり経済的に困らない中には、自ら辞める者もぽつぽつと出たが、ほとんどはしがみ付かなければならなかった。

公証は給金も良く、格も高い職であり、誰彼構わず勤められる場所ではない。

一度辞めれば同程度の職が見つかるものではなかったし、この状況で退職しても、雇い主が書く人物証明書に不利なことを並べられて、次に雇ってくれるところがなくなる恐れもあった。

日々の糧を天秤にかけられた心地で、恐怖で委縮し、仕事で同じようなミスを繰り返して心を病む者も現れた。

客も、事務の精度の低下やもたつきに気づいて苦情を申し入れたり、よく利用する客は顔の強張りに気が付いて、こっそり何かあったのかと尋ねたりした。



ある日、勤めて5年に満たない女の職員が、偽物の印章を本物とする証明書を発行してしまい、それをもとに詐欺事件が起こり大きな損害が出た。

公証に登録してある原本と照合するのは、必ず複数の目で行うと決められているのにそれを怠り、しかも公証の者であれば、独りの目でも疑いを持つ程度なのによく見ていない、とミスが重なった。

アレクサンドラから出頭するよう呼び出され、もう終わりだと泣き続ける女に付き添って執務室に現れたのは、女の上役とピョートルだった。

元の所属には戻らず留まっていたが、一応側近であるのに執務室の滞在時間はごく短く、口を開くのは業務連絡のみで、アレクサンドラの顔を見ないようにしていたピョートル、元々下の者の面倒見が良いという評判はあったが、部署違いがどういう了見で出しゃばって来たのか、アレクサンドラは目の前に並んだ3人を凝視した。

上役の方は部下に負けず劣らず、この世の終わりのような顔をしていたが、ピョートルは今日は蒼褪めながらも挑むような目で、視線を合わせて来た。

上役がまずたどたどしく不祥事の謝罪を述べ、今後はこのようなことがないように、と再発防止の誓いを口にするのを遮り、それでどう責任を取るつもりなのか質問するや否や、女がわっと床にひれ伏し、お許し下さい、家族を養っていけません、と甲高い悲鳴を上げた。

実際、詐欺の犯人は国外へ逃亡してしまい、客から求められた損害賠償は、オルトフ家が既に支払っていた。

平民では一生かかっても払いきれない額だ。

それをどうするかは、今のところ父伯爵の判断で保留にはなっている。

今の悲鳴の声量で耳を痛めた上に、第一に自分の生活の心配かと、自分も被害者と言いたげに泣き続けている不快に、苛立ちが追加され、そこに、女を助け起こしながらピョートルが言った。


「本人もこのように反省しておりますし、何卒寛大な処置をお願い申し上げます。マリアも悪意でしたことでは無かったのです」


ピョートルはとりなすつもりだったのだろうが、その口添えがアレクサンドラの火に油を注いだ。

アレクサンドラはまず、上役に役職からの降格を申し渡した。

マリアという女には、冷たい一瞥の上クビを宣告した。

最後に、抗議するつもりなのか口を開こうとしたピョートルを睨み付けながら、


明らかなミスで今回の事態が起きていること、

被害が、何の処分もせず不問にできるレベルを超え、悪意は関係がないこと、

そもそも、何の立場で今ここにいるのかという問い、

上役ではないピョートルが謝罪の場に立ち会うのは権限外どころか越権であること、

出しゃばった上で処分に異議を唱えるのはどの立場からの物言いなのか、

庇うのなら、相応の覚悟があるのだろう、よろしいピョートルが弁償を肩代わりせよ、

ついでに越権行為の責任を取って空いた女のポスト、最下位の職に降りるように、

望み通りの寛大な処置であり、話は以上ゆえ速やかに退出せよ


淀みなく言い切り、アレクサンドラは作りかけの書類を手に取った。

解雇で済んだというのに、女が、2人に助け起こされるのを拒みいつまでも絨毯にへたり込んでいるので、アレクサンドラが顔を上げずに卓上のベルを鳴らすと、程なく数人が現れて、泣き叫ぶ女を引きずって行った。


*


ピョートルは、辞職せず最下位の職で勤め続けているという。

当然の帰結ではあった。

雇い人に弁償させることの撤回について、梃子でも動かない娘に譲歩したオルトフ伯爵の、「どうせ全額は取れないのだから」という取りなしで、分割での支払いを許すこととなったが、給金を全て弁償に回し、かつ老いるまで勤めないと終わらない額を、ピョートルは背負った。

準男爵は平民に過ぎず、アリョシュコフ家の資産など高が知れている。

ピョートルが逃げれば、家に請求が行くことになるが、そうなれば準男爵の地位ごと家はなくなるだろう。

しかもピョートル自身は次男であり家督を継ぐ見込みはなく、巨額の負債を少しでも減らすためには、給金が激減した職であっても、続けていくしか道はない。

結婚の約束が履行されるのもいつのことになるのか。

そもそも、婚約が続いているかは疑わしい、とアレクサンドラは飲み物のカップを傾けながら思った。

ココレワとかいう女の実家は商家という話だった、結婚すれば持参金はもちろん、実家の財産が弁償に回る。

成金が爵位を欲して、顔も職も優れた男を捕まえて得意ぶったという型だろう。

まず間違いなく、婚約を破棄して逃げただろうが、逃げなくても貧する夫婦として茨の道が待っている。


当然の報いだ、とアレクサンドラは再び毒づいた。

しかし、何故"報い"だと思うのかは、彼女には珍しいことに、アレクサンドラ自身よく理解していなかった。


*


アレクサンドラの、そんな驕れる者の賢しい圧政は、唐突に終わりを告げた。

アレクサンドラは、執務室に戻る途中、不注意に書類に目を通しながら階段を上がっていた。

階上にいる人の気配には気づいたが、内容を読み取るのに忙しく、顔を上げることなく段をコツコツと踏んで行った。

最上段に至ったところで、突然右肩を凄まじい力で掴まれ、乱暴に横に引っ張られて、手すりから離れた中央部分に引き摺られた。

そしてそのまま上体を強く押された。

それだけでは済まず、傾いだ身体の胸の上に、革靴の蹴りが入り、転落の勢いが倍になった。

階段の上にある、ピョートルの、やってやった、と言いたげな表情が浮遊感とともに遠ざかっていき、アレクサンドラは自分の状況を理解した。


(突き落とされた)


記憶の最後に刻まれた、自分の言葉がそれだった。

直後、後頭部が恐ろしい衝撃が走り、ガツッという凄まじい音とともに、文字通り息が止まった。

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