第15話(1)
アレクサンドラのところには、徐々ではあるがリストの案が持ち込まれた。
彼女はその都度、持って来た者達とともに、内容を吟味し、必要な修正を施した。
ただその途上で、全ての事務がリスト化に適しているわけではないことも判明した。
手続が特に複雑だったり、形式的に書類が整っていても認証していいかどうか難しい判断を要するものだったりは、リストの意味があまりなく、職務に慣れた者が対応するというのが最適解という結論に至ったものもあった。
また、リストが出来上がってみて、手続そのものに無駄がいくつか含まれていることに密かに気が付いたりした。
例えば、客が2件の認証を求める場合、認証理由が同じでも証明書類は2通必要だったりする。
1つ目の手続が2つ目の前提になっているような場合、同時に申請をすることはできず、客は公証に足を運ぶ機会が1回増える。
細かいところで見直した方が良さそうな点を、アレクサンドラは見つける都度書き留めた。
現在行っているのは、『現に行っている手続を理解しやすい形にして、日常の職務を楽にする』という、職員に受け入れられやすい改善である。
手続自体を変えるとなると段階が変わる、まだそこまで上がっていいのかどうか、そこまでアレクサンドラが信頼を得られているかどうか自信がなく、一旦保留にして、機会を図ることにした。
持ち込まれるリストの出来はまちまちだったが、ピョートルの所属から提出されたものは、最初から非常に優れており、手直しの必要が全くなかった。
執務室で内容の説明をしたのは中堅だったが、中堅は、作り込んだのはピョートルを始めとする若手だったと手柄を譲った。
労いの言葉をかけると、恐縮しながら謙遜などはせずそれを受けたところが、巻き戻る前と変わらぬピョートルの性格を示していた。
やはりピョートルは優秀な人物だったと、アレクサンドラは改めて認識した。
1人になった執務室で溜め息を吐く。
能力に見合った評価を与えるという、棚上げにしたままの彼の希望を思い出すが、こちらは手詰まりだった。
手腕から考えると、ピョートルはもっと上の職位で勤めることもできる。
実際、巻き戻る前もそうだったのだから、その点は間違いなかった。
ただ、アレクサンドラがここで人事に口を出すのはどうしても躊躇われた。
ピョートル1人を昇格させるよう父伯爵へ進言するのは、巻き戻る前と同じ行動である。
あの時は、自分が認めた人物なのだから、抜擢するのに何もおかしいところはないと疑いの欠片すら抱いていなかったが、一歩引いてみると、報奨としてもやりすぎではなかったかという自省を覚える。
彼に限らず、優秀な者を無理なく昇格させるとか、その程度であれば穏当かと思いながら、いずれにせよアレクサンドラの権限ではないため、父伯爵へいつ切り出すかと頭を痛めた。
頭を痛めると言えば、彼女自身の結婚問題も最近浮上していた。
デビュタントしたのだから当然相手の選定の話が出てくることを、彼女はすっかり失念しており、母夫人から控えめにではあるがそうそろ、と伝えられて初めて、そういえばと思い出した始末だった。
結婚、か。
アレクサンドラは、書き物の手を止めて顔を上げる。
貴族の子女であるアレクサンドラにとって結婚はする・しないという選択肢が存在しない、して当然な通過儀礼であった。
特にオルロフ家の場合は、家を存続させるために不可欠であることは十分に理解しており、心ときめくこともなければ、抵抗を感じたこともなかった。
ただ、相手を選ぶという段階になって、じわじわと戸惑いが生まれて来た。
今までは机上の空論だったのが、具体的な人物の顔を思い浮かべ、その者を相手として望むかどうかを考えるとなると、アレクサンドラの思考は突然動きが鈍くなる。
母夫人に、両親が勧める人ならば誰でも構わないと答えたところ、母夫人は目を丸くしながら、
「まあ、そうは言ってもこの方はいい、この方はちょっと……と思うことはあるでしょう」
と、それでもぽつりぽつりと、G公爵の次男やH子爵の三男の存在などを、それとなく娘に知らせるようになった。
しかしアレクサンドラは、そうなのですか、としか答えられない。
相手として望むかどうかを、何を基準に決めればいいのだろうと、彼女は本当に困ってしまった。
家名が釣り合っているかどうか?
いや、そもそも貴族階級しか相手にはならないのだから、釣り合わないということはない。
財力?
それも、オルロフ伯爵家には特に必要がない。
穏やかな、あるいは快活な性格?端正な、あるいは勇ましい容姿?
何を良しとして選べばいいのだろう。
無理をして、頭の中に自身の配偶者を思い浮かべてみる。
すると、何故か像として結ばれたのはピョートルの顔で、アレクサンドラはひどく狼狽えて頭を振った。
どうしてピョートルが出てくるのか、アレクサンドラ自身にも理解ができなかった。
確かに、男爵家とはぎりぎり婚姻が結べる。
彼の能力ならば、公証長となるアレクサンドラの補佐が十分に可能だろう。
同時に家長も務めることになる多忙な彼女の、領地経営への支援も期待できるかもしれない。
しかし、彼には婚約者がいるはずだ、巻き戻る前はそうだった。
公証に勤める前から定まっていたものなのか、もしかすると実はこれから決まる時間軸にあるのか。
だとすれば、支障は特にない、かもしれない。
考えがそこに至って、アレクサンドラは普段の彼女らしくなく赤く、そして青くなった。
何を血迷っているのだろう。
アレクサンドラは公証の補佐で、ピョートルはただの一職員だ、それを何故、婚姻という特別な関係に塗り替えるという発想が出て来るのか。
まさか、職位を引き上げられない代わりの報奨のつもりなのか、アレクサンドラの配偶者になれば誰にも難癖付けられることもなく出世ができる。
アレクサンドラは、僅かに震える手で辛うじてペンをインク瓶に戻すと、書き物の上に突っ伏した。
紙が撚れるのも構わず、乾き切っていないインクが肌に付くかもという配慮も忘れ、そんな無作法をしたのは初めてだったが、彼女はいたたまれなさを逃す方法を知らなかった。
いけない、それはあり得ないし、あってはいけないと思う傍らで、婚約者がいるかどうかも分からないのに、と囁く悪魔が確かに存在している。
頬は熱いのに、指先は微かに湿って冷たい。
(もしかすると私は、ピョートルに特別な感情を持っている?)
アレクサンドラは顎を少し持ち上げ、両手指を頬に押し当てて冷まし、あるいは温めながら大変に落ち込んだ。
だからあの時、巻き戻る前に、押しかけてきた女が婚約者だと聞いてかっとなったのだ。
詐欺事件の際に、ピョートルが差し出口を挟んだと腹を立て、冷酷極まる罰を科したものの正体は嫉妬だ。
そう考えれば辻褄が合う。
私というものがありながら、婚約しているとは何事だという彼女の自分勝手が、ピョートルを不幸にした上、彼女自身の自滅を招いた。
何という公私混同だろう、とアレクサンドラは赤面しながら猛省する。
巻き戻る前のアレクサンドラは、自覚がないままピョートルに想いを寄せ、自覚がないまま婚約者に嫉妬をして、私事であるそれを職務に波及させたということだ。
補佐失格にも程がある。
深い溜め息を吐きながら、アレクサンドラはそのまま手のひらで顔を覆う。
少なくとも巻き戻る前は確実に、ピョートルに想いを寄せていたらしい自分が全く信じられないし、納得もできていなかった。
彼が職務上優秀だからか、反発心は持ちながら気遣いもできるところが琴線に触れたのか、何が決め手になったか判然としないし、あまり知りたくもない。
そもそも公証の職員にそういう想いを抱くのは、歴代の公証長には例がなかっただろうから禁止はされていないものの、アレクサンドラの常識の中では厳禁、もといあり得ないことだった。
特定の人物に、他者には持たない気持ちを抱いて行動をすれば、過剰に甘くしてしまうか、必要以上に厳しくするかのいずれかに傾いてしまう。
公平な扱いができる自信が、アレクサンドラには全くない。
歴代で、配偶者に補佐を任せた公証長は、一体どのように配偶者を扱っていたのか見当が付かなかった。
(こういう時、どうすればいいのだろう……)
思考が得意なアレクサンドラの知性は、今に限って働くそぶりを見せない。
結婚相手を選ぶ基準の悩みから、彼を補佐に据えることが前提の物思いになってしまっていることに全く気づかないまま、そもそも既に婚約しているか確かめないと駄目だろう、と支離滅裂な検討を始めてしまう始末だった。




