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第2話(1)

公証には、ピョートル・アリョシュコフという若い男が勤めていた。

準男爵家の次男で、第一は報酬を得ること、第二は社会勉強を目的としていた。

職務を通じて、どのように相手から信用を得て取引などに繋げるかを知り、将来自分が活動をする際に活かしたいという意欲もあった。

上役の指導をよく聞く素直さがあり、多少無理な指示を受けても、理屈が通った指示だと思えば朗らかに従った。

一方、理不尽さを感じれば、相手が誰だろうと誰だろうと納得のいく理由を求め整然と食ってかかった。

お嬢様の無茶振りも例外ではなく、拒否に対する拒否を、さらに露骨な拒否で返した。

腹を立てたアレクサンドラに、貴方は実際に動く者たちの顔を見ていない、我々はチェスの駒ではない、と言い放った。

その上で全てを拒むのではなく、従うべきと思う指示には従い、妥協案を提示し、または精一杯の譲歩を装って雇い人たちの最善策に首を縦に振らせた。

自分より家柄や立場が勝るからといって阿ることなく、他方で、そういう者のことは上辺だけでなく敬った。

無理難題とは戦うが、そうでない時は媚びのない気遣いをした。

例えば、決裁を仰ぐ際に、アレクサンドラが何度か咳払いすることに気づき、メイドに喉に良い飲み物を指示する。

インク瓶の中身が心許ないと見ると、次の訪問時に替えを持参する。

詰められて弁解がうまく出て来ない者を庇い、意図するところを正確に伝えて取り成しながらも、女主人の判断を求めて頭を下げる。

平民が小生意気だと陰口を叩く者もいたが、きびきびとして仕事が速いという評価に誇張はないようで、自然、アレクサンドラも目に止めるようになった。



ピョートルは、手続を誤ったことについて、最初に勘違いだと疑われた上に、謝罪が横柄だと客を激怒させた上役の不手際を、狼狽えるあまり役に立たなくなったその上役の代わりに客への真摯な謝罪を始めとした後始末をつけ、アレクサンドラは父伯爵に承諾を得て、ピョートルを、その上役を大幅に飛び越す役職に就けた。

父伯爵は、ピョートルを評価はしているものの、身分と年功の序列を崩すのは他に示しが付かないと消極的だったので、得て、というよりは理攻めで文字通り強請ったと言った方が正確だった。

ピョートルは恐縮したが満更でもなく昇格を受けた。

ピョートルの新しい役職は、アレクサンドラに接する機会が劇的に増えるものであり、近くに置いてみると使える者だという印象がさらに強まった。

アレクサンドラはもちろん、ピョートルも折れない性格なため、指示に従わせようとする方と、指示が納得できない方とで時々衝突が起きたが、アレクサンドラは機嫌を損ねたりはしなかった。

口論のような遣り取りはその場限りだったし、逆らわれたことに不満はあるが腹は立たず、その後、冗談を交えた軽口を叩かれたのに冷静にやり返し、それが少し嬉しくもあった。

彼の他にも優秀な者は多く勤めており、贔屓はしていないつもりだったが、相談ごとは、父伯爵に持って行く前に、まずピョートルが現場の人間としてどう考えるかとそれとなく聞くようになっていた。



「ペーチャ!」

雇い人の間で、ピョートルの愛称が呼ばれるのは珍しいことではなかった。

客がいるところや、身分や役職が特に高い者の前では、正式な呼び方、本名や役職名で呼び合われているが、それ以外では自由に愛称が使われていた。

アレクサンドラは、経営の資料を取りに行こうと執務室を出たところで、背後にそれを聞いた。

呼んだ女性の声は高いもので、アレクサンドラには聞き覚えがなかったが、階下から響いたのと、生憎雇い人全員の声を判別できる耳を持っておらず、そのまま捨て置いた。

そもそもピョートルという名を持つ者は何人もおり、アリョシュコフのペーチャである確率はそれほどではない。

アレクサンドラが雇い人を愛称で呼ぶなどあり得ず、自分の前では形式ばった遣り取りしか飛び交わないため、ペーチャという愛称を耳新しく思うだけで、その場は済んだ。



「お嬢様は、アリョシュコフ様の婚約者にはお会いになりましたか?」

執務中の世話をするため、館から随行しているメイドが、飲み物を給仕しながら話しかけた。

身分が上の者には、上の者に声をかけられてから口を開くのがマナーだが、家庭内の使用人は例外とされていた。

メイド曰く、婚約者はターニャ・ココレワという、裕福な商家の娘だという。

近くまで来たので寄ったと顔を出し、呼び出されて奥から出て来たピョートルに、客がそれなりにいるところで、歓声を上げて抱き付いた。

ピョートルはその振る舞いを一応窘めながらも満更ではなく、仲の良い同僚や野次馬の客から囃し立てられ、最後は盛大な祝福を受けていたそうだ。

顔はそれなりに可愛らしいが、衣装は流行はあるが平凡な型、髪の結い方が甘く、後れ毛ではない解れが目立つ方でした、とメイドは片頬で笑った。



メイドが退出し、アレクサンドラは飲み物に口を付けた。

婚約者とは初めて聞いた。

平民だが爵位があり、年齢的にも婚約者がいてもおかしくないが、聞いたのは初めてだ。

先ほど耳にしたのは、その女の声だったのかと思い当たった。

仕事中の相手を、隙見するならともかく、職場に派手に飛び込んで来て大声とは、正に平民らしい、特段の身分は持たない者の振る舞いだ。

それ以前に、その振る舞いは部外者による業務の妨害だ、許されるものではない。

婚約者は部外者であり、まだそこに家族の繋がりは作られていない。

仮に既に家族だとしても、公証にとっては部外者には変わりない。

弁えない女に厳しく注意すべきところを、逆に浮かれるとは何事か。


婚約者?


頭に血が上がり、そして一気に血の気が引く感覚を、アレクサンドラは初めて味わった。

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