第8話(2)
今していることはただの職務放棄なのではないか、アレクサンドラはそう思い始めていた。
辛うじて今はまだ補佐であり、最終責任を負う立場にはないが、公証の後継者として見過ごしてはいけないものに口を閉ざしている自覚が大いにあった。
娘を完全に信用し、後継者に今から箔を付けるつもりなのか、父伯爵が庁舎に足を運ぶ機会は次第に、劇的に減って行き、実務をほぼ娘に任せきりになった。
長の判断を要する案件があるたび、伯爵宅へ知らせてやる必要が生じるほどで、来庁した父伯爵は、それとなくこの内容ならアレクサンドラが代理決裁しても良いのだよと助言めいた誘導をした。
補佐になってから気が付いたことだが、父伯爵は現状の維持、先例の踏襲は得意だが、実務の内容の良し悪しについては政治的判断を除いてそれほど熱量はなかった。
また事なかれ主義の面があり、苦情があればすぐさま謝罪に足を運ぶ機動力はあったが、その苦情の原因を改善するという視点は持っていないようだった。
そのせいで、客が機嫌を直し、トラブルが解決するのは早かったが、根本的な解決は行っていないため、忘れた頃に似たような苦情がまた発生する。
案件によっては、その繰り返しが先代から続いているものもあり、過去の対応記録集に目を通したアレクサンドラは頭を痛めた。
その場では丁重に謝罪するが、次にまた同じトラブルに直面すれば、相手に、あれは上辺だけの謝罪だったと反感を買われることになりかねない。
記録集には、それ以外にも改善内容未解決のままとなっており、小さな負債が溜まっている形跡が散見された。
書物に教えられなくても、アレクサンドラが見た実務の現状から明らかなことではあった。
長い間放置して来た粗が、徐々に目立ち始めている。
内部の人間であるアレクサンドラが気づいたのだから、顧客の方はとっくに認識を持っているだろう。
どうすればいいのだろう、とアレクサドラは書斎机で項垂れた。
父伯爵に提案という形で忠告することは躊躇われた。
組織のトップに対して、細かい問題点を並べ立てて対応を迫るのは愚策だった。
話しても効果はないだろうし、第一細部の改善について具体的な指示を出すのは、トップがすべきことではない。
実行に移すならば、補佐であるアレクサンドラの責務だった。
今のアレクサンドラは、現場に口を出さない点で職員にとっては無害だが、公証への信頼構築という点では無能な補佐に成り下がっていた。
おかしいものはおかしいと、直すべきものは直すようにと指示を出さなければいけない立場なのだ、巻き戻る前のように。
しかし、こういう理由で改善を図りたい、と父に切り出すことは躊躇われた。
父の方針がまずい、というニュアンスを滲ませないことは、伝え方で何とでもできる。
切り出せば、承諾は簡単に取り付けられるだろう、アレクサンドラが自分の意見を表明した、と狂喜する父伯爵の様子が目に浮かぶようだ。
だが、切り出すということは、以前と同じ道に分岐し、同じ道を辿ることを意味した。
数多くの反感、抵抗、そして
(申し訳ないことですが、それはできませんね。貴方は我々の顔を見ていない、我々はチェスの駒ではありませんよ)
あの頃の生意気な拒否が木霊し、アレクサンドラは顔を覆った。
ピョートルはあれから、他の職員と同様、決裁を求めてごくたまに来室したが、事務的な話しかせず、アレクサンドラも余計な口は利かなかった。
ピョートルの役職を大幅に引き上げるきっかけになった、上役の不手際をピョートルが巧みに処理した事件は既に起こっていたが、今回のアレクサンドラはあくまで補佐に徹し、報奨には一切関与しなかった。
このため、彼の役職が引き上げられていない点は、巻き戻る前とは異なっている。
しかし、アレクサンドラが改革の開始を言い渡せば、ピョートルからまた同じ抵抗を受けるだろう。
そうなった時、彼と口論し強硬に押し切るエネルギーは巻き戻りとともに失われてしまった。
他の職員ともども結託して反対されれば、アレクサンドラはきっと改革を取り下げる。
対立関係を生むきっかけは失われ、アレクサンドラがピョートルの前途を潰す未来は訪れず、彼から恨みを買い、突き落とされる事件はもう起こらないのかもしれない。
しかし、反対されて指示を取り下げるのでは、そもそも指示すること自体無意味だ。
手を施さなければいけない状況にあるのは歴然とした事実であり、部下の反対で手をこまねいているのでは、補佐の存在意義がない。
将来の公証長としての資質が欠けていることを、アレクサンドラが自ら体現したことに他ならない。
とうとうアレクサンドラは、伯爵夫妻が焦燥する娘を心配して呼んだ医師から今すぐの転地療養を勧められ、補佐の役目を一旦返上して、領地オルトへと旅立つこととなった。




