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第1話

アレクサンドラ・イワーノヴナ・オルロワは、オルトフ伯爵家の長女として、ソルトモーレ帝国オルトにて生を受けた。

長く子宝に恵まれなかった夫妻は、待望の一子に非常に喜び、掌中の珠、蝶よ花よ、猫可愛がり、形容をいくら並べても並べ足りない溺愛をアレクサンドラに注いだ。

あやされて笑えば狂喜し、初めて片言を発したと言って乱舞した。

子育ては際限のない甘やかし、欲しがる物は何でも、欲しがっていない物もこれはどう、あれはどうと次々に与えた。

与えるものは全て最高級だった。

ものには教育も含まれていた。

歴史文化などの教養、家業に必要となる基礎知識、貴族の子女としての礼儀作法を教えるのに、最上の教師を宛がった。

子の機嫌を損ねないかとハラハラしたが、一粒種は両親の意向を汲んだように、そつなく教育内容を飲み込んだ。

伯爵の翠眼と婦人のプラチナブロンドを受け継ぐ、生い先頼もしい可憐な顔立ちに、10にも満たない子の利発さと所作の美しさに、拝謁願った最高の方々からの覚えもめでたく、夫妻はもったいなさと誇らしさで涙ながらに娘を褒めに褒め、溺愛は加速の一途を辿った。



さて家業である。

オルトフ家は代々、王の御名に基づき、公証者としての務めを行う一族だった。

例えば、帝国では契約書に印章を押すか、サインをするかで契約締結になる。

1通の書面を目の前にして、2人の当事者が互いにサインをし合えば何の問題も生じない。

しかし、全てが対面で行えるわけではない。

一方が押印した書面を送って来ることもあるだろう。

その印やサインが本物かどうか、書面上では分からない。

代理人と名乗る人物の委任状が本物かどうか、前の雇用者の在職証明が偽造でないか、どうやって判別するか。

それを建国以来担っているのが、オルトフ家である。

サイン・印章の登録、真正かどうかの照合、証明の発行。

国の他機関からの問い合わせへの回答、時に大使館経由で国外からの依頼もある。

もちろん実務は、雇い入れた者が行っていたが、貴族階級でのトラブルが生じうるような困難な事案は、必ず当主が判断を下した。

申請に来る者からは王の御名のもとに手数料を取り、半分を帝国に収め、残余は技術ある雇い人の囲い込み、貴族の体面維持、公証をオルトフ家の家業として独占的に継続していくための諸費用、それからアレクサンドラの養育に注ぎ込まれた。



アレクサンドラは、乾いた土が水を吸うように、家業の基礎知識を習得した。

週に1度行う復習のテストで答えられないところなく、実際にあった事例を密かに応用として出題したところ、実際にオルトフ家が行った策を最適解として即答してみせた。

知識を、未知の事例にどのように当てはめるかはセンスである。

夫妻は娘の出来の良さに狂喜乱舞したが、僅かに残っていた理性で、デビュタントもまだの娘を家業に関わらせていくことにした。

帝国では女も爵位を継ぐことができ、またアレクサンドラに弟ができるとは限らない。

帝王学を授けるなら早い方がいい。

そこで、教育の一環として、受付で何をするか、どう審査してどう回答するかなど、もちろん応対には出さなかったが、手続から学ばせ、徐々に内容にも触れさせていった。

知識を形式的に適用させると不都合が生じることがあること、解決のためには例えば選択肢を複数用意し、それぞれの課題を洗った上で、最終的に政治的判断という伝家の宝刀を抜くこともあることを、目の前で実際に起こっている事例に即して教えた。

さすがの才女も、今まで覚えた知識を理不尽に曲げなければならないことに、しばしば不服を口にしたが、最後はそれもまた知識と飲み込みに専念した。

夫妻は、娘の経営者としての資質を見て感動したが、同時に娘が我を折る事態に遭遇したことが気の毒で涙した。

もちろんどちらも娘を手放しで労いを添えて褒めちぎり、事あるごとに、また事がなくとも持ち上げに上げたが、娘の機嫌を損ねないように、アレクサンドラを伯爵の補佐として、正式に家業へ関与する地位へとステップアップさせた。

伯爵は、長としての判断が必要とされる時は必ず娘の意見を聞き、ほとんどはそのまま取り入れた。

あまりにも極論すぎて採用ができない場合は、娘の顔色を伺いながら何とか理屈を説いた。

娘の天秤は吊り合いを取るのが難しく、少しでも筋が通らないと思えば説得はそこで終わり、娘は聞く耳を持たなくなった。

最高の方々からの意向でやむを得ない場合は折れたが、実務を司っているのは我が伯爵家なのにと酷く悔しがった。

夫妻は機嫌取りに心を尽くし、不満を逸らすのが目的だと思わせないように、手を変え品を変え娘を甘やかした。

公証の実務上の慣例を、娘の意見に従って変えることさえした。



デビュタントにて、ホールに歩み入ったアレクサンドラの美しさには、参加者からは口々に賞賛のため息が漏れた。

床まで届く純白のドレスは、ビーズやパールのあしらいは最低限だったが、歩みに合わせて、裾が膨らみながらも得も言われぬ鮮やかな波を作る。

それに目を留めて顔を上げると、顔立ちと繊細に結い上げられたプラチナブロンドに例外なく魅入られてしまう。

最初のワルツの相手は侯爵家の子息だったが、差し伸べられたオペラグローブの指先の優雅さに既に気圧されていた。

左、右のターンの繰り返し、切り替えるステップを、白い靴の華奢なヒールが軽やかに踏んでいるのが時折露わになり、これも時折零れ落ちる微笑みとともに、見る者を虜にした。



いつの時代も、美貌は魔法のように作用する。

両親の丹精の結果、アレクサンドラは、利発で気品があり、意志が強く、好き嫌いがくっきりとして、取捨選択に容赦がなく、こうと思ったことは理由をいくつも用意して是が非でも押し通す、気位も驕りも高い娘に成長した。



名目は父の補佐だったが、アレクサンドラは、次第に父に代わって公証を取り仕切るようになった。

今まで現場を観察して来たアレクサンドラは、かねてから不経済だったり、合理的でないと思っていた業務の改善を図ろうと、雇い人へ指示を出した。

正しくはないが些細な誤りゆえに誰もが目を瞑り、もはや慣例と化している業務に、容赦なく切り込む。

現状で支障がなくとも、より良いと思うやり方を見つけては、早急に対応するようにとの注文を投げる。

父伯爵は、先代から受け継いだそのままの維持で満足する性格だったが、娘は曖昧や過ちは正して完璧を目指すべきという考えを育んでいた。

雇い人は、若輩者の伯爵家のお嬢様に恭しくも、慇懃無礼だった。

新しいやり方に慣れるのに時間がかかる、それまで手際も悪くなり客に混乱を招く、周知期間が十分に必要だ、直すと逆に非効率になる、直すには障害が多すぎる、などと遠回しに無理だ、できないと頭を下げた。

もっとも、拒否は拒否で返された。

アレクサンドラは並べ立てられたできない理由を1つずつ論破し、その上できっぱりと一蹴した。

お嬢様が言うことはごく筋が通っており、指示通りに直して改善に繋がったものもあったが、高慢な言い方と配慮のないタイミングがそれを全て台無しにしていた。

場を掻き回す振る舞いに雇い人の多くがストレスを感じ、上役の数人が密かに父伯爵への直談判に出たが効果はなかった。

お前たちの不満は分かった、だがサーシャ(アレクサンドラの愛称)はいずれはオルトフ家の当主になる、今から経験を積ませることがぜひとも必要だ、まだ年若いのだから大目に見てやらなければ、しかしサーシャはどうだ、あの聡明さはどうだ、オルトフ家の末長い繁栄が目に見えるようだ、末頼もしいことこの上ない、あの子は天使、私たちのもとに舞い降りてくれた美しい天使だよ。

碌に訴えを聞かず、滔々と娘自慢を続ける伯爵の盲目ぶりに上役たちは絶望した

アレクサンドラは、立ち居振る舞いも含めて確かに美しさは申し分ない、それは誰もが認めるところで、実際、美に目が眩んでアレクサンドラの肩を持つ者も何名もいた。

ただし内面については、"聡明"から、他者への理解と優れた人格とを差し引く必要があった。

司る者でありながら、配下を人ではなく歯車として見ていると、雇い人たちは感じていた。

いくら言うことが正しくとも、主家の娘であることと美しさだけでは決して相殺できない負の振る舞いが、日々加算されていった。

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