8
ルゼリアの手が、ほんのわずかに揺れた。
その目が、わずかに見開かれる。
「……なんで」
ひどく小さな声だった。
でもその音には、はっきりと“焦り”がにじんでいた。
「なんで目覚めたの……? 聞かれないように、ちゃんと催眠をかけておいたのに……」
呟きながら、ルゼリアの視線が千鶴に向けられる。
そして――すぐに気づいた。
この異変の原因が、“さっきの光”にあることを。
「……まさか。あんた……っ」
その声が、途端に低く、濁ったものに変わった。
ルゼリアの目が、殺意の色に染まる。
「治したのね……蒼真を。魔法で……!」
その一言とともに、ルゼリアの手が、千鶴の首から離れた。
憎悪の熱がこもった視線を、千鶴に突き刺したまま、
彼女はベッドに近づく。
再び、眠らせようと。
再び、従わせようと。
ルゼリアは、蒼真の頬にそっと手を添え、
甘く囁くように言葉を紡いだ。
「お兄ちゃん……大丈夫、怖くないよ。ねえ、目を閉じて。全部忘れて……」
その声は、今までと変わらぬ、無垢な妹の声だった。
けれど――
蒼真の手が、その手をはらった。
静かな拒絶だった。
ルゼリアの目が見開かれる。
そして、彼は言った。
その名を、蒼真がはっきりと口にした瞬間――
空気が、ひときわ強く揺れた。
「……さよ……いや……ルゼリア……」
まるで、それが魔法の支配を否定する“鍵の言葉”であるかのように。
ルゼリアの瞳が、大きく見開かれる。
「――嘘……」
その言葉が、喉の奥で震える。
「名前を……呼ばれたら、もう…」
ぐらり、と立っていた身体が揺れた。
魅了の魔力が、音もなく剥がれ落ちていくのが、本人にも分かった。
支配がほどける。
心が離れていく。
愛されない者としての“終わり”が始まる音がした。
「私の……声、届かないの……?」
ルゼリアは一歩、蒼真に手を伸ばしかける。
けれど、触れることはできなかった。
蒼真は、静かに――でも確かに、首を振った。
「……俺は、もう騙されない」
ルゼリアの顔が、苦悶にゆがむ。
いつもの笑みも、仮面も、どこかへ消えていた。
言葉が詰まったように、喉が震え――
その目に、涙が浮かぶ。
「……お兄ちゃん」
それは、最後の呼びかけだった。
依存と執着の根源。
全てを偽っても欲しかった、“存在の証明”。
けれど――蒼真は、そっと目を伏せた。
「……俺に、妹なんていない」
その頬を、一筋の涙が伝った。
静かに。
確かに。
何かが、終わった。
その言葉が空気に溶けた瞬間――
ルゼリアの身体が、ふっと揺れた。
力が抜けたように、膝が落ちる。
けれど床に届くことはなかった。
彼女の輪郭が、ゆっくりと、霞に滲んでいく。
それは煙のようで――
霧のようで――
もろく、掴みようのない崩壊だった。
「お兄ちゃん……だけは……」
その声だけが、最後まで空気にしがみついていた。
名残惜しそうに、哀しげに、
それでも確かに、魔女・ルゼリアはこの場から消えた。
その直後だった。
「……っ」
蒼真の身体が、ぐらりと大きく揺れた。
よろめくように前へ傾く。
体が倒れかけるその瞬間――
「せ、先生!」
千鶴が、あわててその体を抱きとめた。
体温が熱い。
でも、それは生きている証だった。
息がある。鼓動がある。
彼は、確かに“ここに”いた。
千鶴はその背中を必死に支えながら、
たったいま自分の目の前で起きたことを、言葉にできずにいた。
(……さよ……じゃない……あの子は、ルゼリアだった……)
(魔女界で語られる、あの……存在が――)
信じられない。
でも、確かに見た。
愛されることで存在を保ち、
拒絶されることで、霧のように消えていった魔女の姿を――
千鶴は、そっと蒼真の顔を覗き込んだ。
「……先生……?」
彼はまだ目を閉じたまま、苦しげに眉を寄せていた。
その表情に宿る疲れと痛みに、胸が締めつけられる。
千鶴は、小さく息を吐いた。
今だけは――何も考えず、彼のことを支えよう。
すべてを受け止めるのは、それからでいい。
◇◇
陽が昇っていた。
カーテンの隙間から、柔らかな光が差し込む。
部屋の中は静かで、まるで何事もなかったかのように穏やかだった。
ベッドの上には、蒼真の寝顔。
そのすぐそば、ベッドにもたれるように、千鶴がうずくまって眠っていた。
昨夜のことを思い返せば、体は重いはずなのに――
彼女の寝顔はどこか、安心しているように見えた。
ふと、蒼真の指が動く。
まぶたがゆっくりと開き、焦点の定まらないまま、視界に映る千鶴の姿を見つめる。
しばらくそうしていたあと――
彼は、そっと手を伸ばして、千鶴の頭に触れた。
指先が、やさしく髪をなでる。
「……っ」
その感触に、千鶴がぴくりと反応する。
まぶたを開き、ぼんやりとした目で蒼真を見上げた。
「……せ、先生……?」
しばらく目を見つめあうような、静かな間があった。
そして、蒼真は、少しだけ苦笑しながら口を開いた。
「おはようございます。千鶴さん」
「……ちゃんと、名前で呼ぶの、初めてかもしれませんね」
その言葉だけで、胸がいっぱいになりそうになる。
けれど次の瞬間、彼はゆっくりと顔を伏せ、声を絞り出すように続けた。
「……今まで、ひどい態度を取り続けて……本当に、申し訳ありませんでした」
「君のこと、何度も傷つけて……無視して、罵って……
ずっと、心の中で止めたかったのに……止められなかったんです」
その声音は、嘘のない、心からの謝罪だった。
言葉を紡ぎながら、蒼真の肩がかすかに震えていた。
伏せたままの顔から、その目がどんな色をしているのかは見えなかったけれど――
それが、嘘のない言葉だということは、千鶴には分かった。
けれど――
「ち、ちが……っ」
涙を浮かべながら、千鶴は勢いよく首を横に振った。
「ちがいます! 先生は……ルゼリアに操られていただけで……!」
喉が詰まりながらも、必死に声を絞り出す。
「ずっと……苦しかったんですよね……?
あたしが、近づくたびに、
先生の中で、何かが崩れていくみたいに……」
涙が頬を伝いながらも、千鶴は言葉を止めなかった。
けれど、それに続いたのは――蒼真の声だった。
「……気になれば気になるほど、酷いことを言わなきゃいけなくなって……
言いたくないのに、止められなかったんです」
その言葉は、苦しみの底から絞り出されたように、低く震えていた。
千鶴は、はっとして目を見開く。
少しだけ、口を開きかけて――
それでも、すぐにうつむいて、ぽつりと呟いた。
「じゃあ……」
「私が……先生を……苦しめてたんですよね……?」
喉の奥から、押し殺したような声。
それを聞いた蒼真が、強く首を振った。
「違います」
その声には、迷いがなかった。
ゆっくりと、けれどはっきりと、
彼は千鶴を見つめながら続けた。
「……違います。
苦しかったのは、千鶴さんのことが、苦しいくらいに気になってたからなんです」
「あなたが笑うたび、話しかけてくれるたび……
その全部が、どうしようもなく、心を揺らしてきて――
でもそれが、誰かの手で歪められてるなんて……わからなかったんです」
千鶴の目から、ぽろりとまた涙が落ちた。
けれど、もうそれは、痛みだけの涙じゃなかった。
蒼真はそっと手を伸ばし、千鶴の頬に触れる。
「……顔を、見せてください」
優しい声音に導かれるように、
千鶴はおそるおそる顔を上げた。
目が合った。
その瞳には、もう冷たさはなかった。
ただまっすぐに、彼女を映す光だけがあった。
「そんなの……」
言いかけた言葉は、自然と唇を震わせていた。
「冗談でしょ……先生が、そんな……あたしなんか……」
その言葉の先を口にするよりも先に――
蒼真の顔が、そっと近づいた。
触れるか触れないかの距離。
そして、静かに、やさしく、彼の唇が千鶴の唇に重なった。
驚きと、とまどいと、
でもそれ以上に――胸の奥から、何かがじわりとこぼれた。
唇が離れる。
千鶴が何も言えずに見つめ返していると、
蒼真は、少しだけ恥ずかしそうに、でも真剣に口を開いた。
「……千鶴さんも、僕と同じ気持ちだと思ったんですけど――違いますか?」
蒼真の問いかけに、千鶴は何かを言おうと唇を開いた。
けれど言葉にならず、喉の奥がつかえたように震える。
どうして――
こんなにも、胸が苦しいのに。
瞳が滲む。
頬を伝う涙は止まらなかった。
それでも、やっとの想いで絞り出す。
「……す、き……っ」
震える声。涙に濡れた、精一杯の告白。
その瞬間、蒼真の瞳がほんの少しだけ揺れて、
けれど迷わず、ふたたび千鶴の顔を引き寄せる。
ふたりの唇が、重なった。
さっきよりも深く、
やさしく、だけど確かに――想いを確かめ合うためのキス。
けれど。
その一瞬の静寂を――
空気が、断ち切った。
何かが“破けた”ような感覚。
世界が、一瞬だけずれたような――そんな奇妙な違和感。
「……えっ?」
千鶴の身体が、ふっと熱を失う。
引き寄せていたはずの腕の中から、
まるで空気が抜けるように、彼女の感触が消えていく。
「千鶴さん……!?」
蒼真の手が虚空を掴む。
その腕の中から、
千鶴の姿が、まるで煙のように――強制的に“引き戻される”ようにして消えていった。
残ったのは、彼女のぬくもりと、
唇に残る――ひどく切ない、最後の感触だけだった。