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 ルゼリアの手が、ほんのわずかに揺れた。


 その目が、わずかに見開かれる。


「……なんで」


 ひどく小さな声だった。

 でもその音には、はっきりと“焦り”がにじんでいた。


「なんで目覚めたの……? 聞かれないように、ちゃんと催眠をかけておいたのに……」


 呟きながら、ルゼリアの視線が千鶴に向けられる。


 そして――すぐに気づいた。


 この異変の原因が、“さっきの光”にあることを。


「……まさか。あんた……っ」


 その声が、途端に低く、濁ったものに変わった。

 ルゼリアの目が、殺意の色に染まる。


「治したのね……蒼真を。魔法で……!」


 その一言とともに、ルゼリアの手が、千鶴の首から離れた。


 憎悪の熱がこもった視線を、千鶴に突き刺したまま、

 彼女はベッドに近づく。


 再び、眠らせようと。

 再び、従わせようと。


 ルゼリアは、蒼真の頬にそっと手を添え、

 甘く囁くように言葉を紡いだ。


「お兄ちゃん……大丈夫、怖くないよ。ねえ、目を閉じて。全部忘れて……」


 その声は、今までと変わらぬ、無垢な妹の声だった。



 けれど――


 


 蒼真の手が、その手をはらった。

 静かな拒絶だった。

 ルゼリアの目が見開かれる。


 そして、彼は言った。


 その名を、蒼真がはっきりと口にした瞬間――

 空気が、ひときわ強く揺れた。


 「……さよ……いや……ルゼリア……」


 まるで、それが魔法の支配を否定する“鍵の言葉”であるかのように。


 ルゼリアの瞳が、大きく見開かれる。


「――嘘……」


 その言葉が、喉の奥で震える。


 


「名前を……呼ばれたら、もう…」


 ぐらり、と立っていた身体が揺れた。

 魅了の魔力が、音もなく剥がれ落ちていくのが、本人にも分かった。


 支配がほどける。

 心が離れていく。

 愛されない者としての“終わり”が始まる音がした。


「私の……声、届かないの……?」


 ルゼリアは一歩、蒼真に手を伸ばしかける。

 けれど、触れることはできなかった。


 蒼真は、静かに――でも確かに、首を振った。


「……俺は、もう騙されない」


 ルゼリアの顔が、苦悶にゆがむ。

 いつもの笑みも、仮面も、どこかへ消えていた。


 言葉が詰まったように、喉が震え――

 その目に、涙が浮かぶ。


 「……お兄ちゃん」


 それは、最後の呼びかけだった。

 依存と執着の根源。

 全てを偽っても欲しかった、“存在の証明”。


 けれど――蒼真は、そっと目を伏せた。


 「……俺に、妹なんていない」


 その頬を、一筋の涙が伝った。


 静かに。

 確かに。

 何かが、終わった。


 その言葉が空気に溶けた瞬間――

 ルゼリアの身体が、ふっと揺れた。


 力が抜けたように、膝が落ちる。

 けれど床に届くことはなかった。


 彼女の輪郭が、ゆっくりと、霞に滲んでいく。


 それは煙のようで――

 霧のようで――

 もろく、掴みようのない崩壊だった。


「お兄ちゃん……だけは……」


 その声だけが、最後まで空気にしがみついていた。

 名残惜しそうに、哀しげに、

 それでも確かに、魔女・ルゼリアはこの場から消えた。



 その直後だった。


「……っ」


 蒼真の身体が、ぐらりと大きく揺れた。


 よろめくように前へ傾く。

 体が倒れかけるその瞬間――


「せ、先生!」


 千鶴が、あわててその体を抱きとめた。


 体温が熱い。

 でも、それは生きている証だった。

 息がある。鼓動がある。

 彼は、確かに“ここに”いた。


 千鶴はその背中を必死に支えながら、

 たったいま自分の目の前で起きたことを、言葉にできずにいた。


(……さよ……じゃない……あの子は、ルゼリアだった……)

(魔女界で語られる、あの……存在が――)


 信じられない。

 でも、確かに見た。


 愛されることで存在を保ち、

 拒絶されることで、霧のように消えていった魔女の姿を――


 千鶴は、そっと蒼真の顔を覗き込んだ。


「……先生……?」


 彼はまだ目を閉じたまま、苦しげに眉を寄せていた。

 その表情に宿る疲れと痛みに、胸が締めつけられる。


 千鶴は、小さく息を吐いた。


 今だけは――何も考えず、彼のことを支えよう。

 すべてを受け止めるのは、それからでいい。


◇◇

 

 陽が昇っていた。

 カーテンの隙間から、柔らかな光が差し込む。

 部屋の中は静かで、まるで何事もなかったかのように穏やかだった。


 ベッドの上には、蒼真の寝顔。

 そのすぐそば、ベッドにもたれるように、千鶴がうずくまって眠っていた。


 昨夜のことを思い返せば、体は重いはずなのに――

 彼女の寝顔はどこか、安心しているように見えた。


 ふと、蒼真の指が動く。


 まぶたがゆっくりと開き、焦点の定まらないまま、視界に映る千鶴の姿を見つめる。


 しばらくそうしていたあと――

 彼は、そっと手を伸ばして、千鶴の頭に触れた。


 指先が、やさしく髪をなでる。


「……っ」


 その感触に、千鶴がぴくりと反応する。

 まぶたを開き、ぼんやりとした目で蒼真を見上げた。


「……せ、先生……?」


 しばらく目を見つめあうような、静かな間があった。

 そして、蒼真は、少しだけ苦笑しながら口を開いた。


「おはようございます。千鶴さん」

「……ちゃんと、名前で呼ぶの、初めてかもしれませんね」

 

 その言葉だけで、胸がいっぱいになりそうになる。


 けれど次の瞬間、彼はゆっくりと顔を伏せ、声を絞り出すように続けた。


「……今まで、ひどい態度を取り続けて……本当に、申し訳ありませんでした」

「君のこと、何度も傷つけて……無視して、罵って……

 ずっと、心の中で止めたかったのに……止められなかったんです」


 その声音は、嘘のない、心からの謝罪だった。

 言葉を紡ぎながら、蒼真の肩がかすかに震えていた。

 伏せたままの顔から、その目がどんな色をしているのかは見えなかったけれど――


 それが、嘘のない言葉だということは、千鶴には分かった。

 けれど―― 


 「ち、ちが……っ」


 涙を浮かべながら、千鶴は勢いよく首を横に振った。


「ちがいます! 先生は……ルゼリアに操られていただけで……!」


 喉が詰まりながらも、必死に声を絞り出す。


「ずっと……苦しかったんですよね……?

 あたしが、近づくたびに、

 先生の中で、何かが崩れていくみたいに……」


 涙が頬を伝いながらも、千鶴は言葉を止めなかった。


 けれど、それに続いたのは――蒼真の声だった。


 「……気になれば気になるほど、酷いことを言わなきゃいけなくなって……

 言いたくないのに、止められなかったんです」


 その言葉は、苦しみの底から絞り出されたように、低く震えていた。


 千鶴は、はっとして目を見開く。


 少しだけ、口を開きかけて――

 それでも、すぐにうつむいて、ぽつりと呟いた。


 「じゃあ……」

 「私が……先生を……苦しめてたんですよね……?」


 喉の奥から、押し殺したような声。

 それを聞いた蒼真が、強く首を振った。


 「違います」


 その声には、迷いがなかった。


 ゆっくりと、けれどはっきりと、

 彼は千鶴を見つめながら続けた。


 「……違います。

 苦しかったのは、千鶴さんのことが、苦しいくらいに気になってたからなんです」

 「あなたが笑うたび、話しかけてくれるたび……

 その全部が、どうしようもなく、心を揺らしてきて――

 でもそれが、誰かの手で歪められてるなんて……わからなかったんです」


 千鶴の目から、ぽろりとまた涙が落ちた。

 けれど、もうそれは、痛みだけの涙じゃなかった。


 蒼真はそっと手を伸ばし、千鶴の頬に触れる。


「……顔を、見せてください」


 優しい声音に導かれるように、

 千鶴はおそるおそる顔を上げた。


 目が合った。


 その瞳には、もう冷たさはなかった。

 ただまっすぐに、彼女を映す光だけがあった。


「そんなの……」


 言いかけた言葉は、自然と唇を震わせていた。


「冗談でしょ……先生が、そんな……あたしなんか……」


 その言葉の先を口にするよりも先に――

 蒼真の顔が、そっと近づいた。


 触れるか触れないかの距離。


 そして、静かに、やさしく、彼の唇が千鶴の唇に重なった。


 驚きと、とまどいと、

 でもそれ以上に――胸の奥から、何かがじわりとこぼれた。


 唇が離れる。


 千鶴が何も言えずに見つめ返していると、

 蒼真は、少しだけ恥ずかしそうに、でも真剣に口を開いた。


「……千鶴さんも、僕と同じ気持ちだと思ったんですけど――違いますか?」


 蒼真の問いかけに、千鶴は何かを言おうと唇を開いた。

 けれど言葉にならず、喉の奥がつかえたように震える。


 どうして――

 こんなにも、胸が苦しいのに。


 瞳が滲む。

 頬を伝う涙は止まらなかった。


 それでも、やっとの想いで絞り出す。


「……す、き……っ」


 震える声。涙に濡れた、精一杯の告白。


 その瞬間、蒼真の瞳がほんの少しだけ揺れて、

 けれど迷わず、ふたたび千鶴の顔を引き寄せる。


 ふたりの唇が、重なった。


 さっきよりも深く、

 やさしく、だけど確かに――想いを確かめ合うためのキス。


 けれど。

 その一瞬の静寂を――


 空気が、断ち切った。


 何かが“破けた”ような感覚。

 世界が、一瞬だけずれたような――そんな奇妙な違和感。


「……えっ?」


 千鶴の身体が、ふっと熱を失う。


 引き寄せていたはずの腕の中から、

 まるで空気が抜けるように、彼女の感触が消えていく。


「千鶴さん……!?」


 蒼真の手が虚空を掴む。


 その腕の中から、

 千鶴の姿が、まるで煙のように――強制的に“引き戻される”ようにして消えていった。


 残ったのは、彼女のぬくもりと、

 唇に残る――ひどく切ない、最後の感触だけだった。

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