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 「――なにしてるの?」


 千鶴が振り返ったとき、

 そこには、夜着姿の紗夜が立っていた。


 まるで偶然通りかかっただけのような、柔らかい笑顔。


 けれど、その目の奥には、

 つい先ほどまでのあたたかさなど、どこにもなかった。

 紗夜は一歩、ゆっくりと部屋の中に足を踏み入れる。


「邪魔しないでって――言ったよね?」


 その声は、冷えた刃のようだった。

 その瞬間、紗夜の周囲の空気が変わった。

 ふっと、その手が軽く動いたかと思った次の瞬間――


 風が爆ぜた。


「……っ、きゃ――」


 いや、風じゃない。


 見えない何かが炸裂したような衝撃が、

 千鶴の身体を真正面から吹き飛ばす。


「が、はっ……!」


 声にならない悲鳴とともに、壁際まで弾き飛ばされた。


 背中が強くぶつかり、息が詰まる。

 床に崩れ落ち、肺がうまく働かない。


 痛みで視界がぐらつく中、

 紗夜は一歩ずつ、こちらに歩み寄ってきた。


「あなたが、魔女界から私を殺しに来たことくらい――」



「とっくに、わかってるのよ?」


 言葉の意味が、脳に届くまで数秒かかった。

 けれど、理解した瞬間、背筋が凍る。


(……なんで)


 目で問う。

 声が出せない分、ただ必死に目を見開いて訴えかける。

 けれど、紗夜はまるでそれすら楽しむように、

 口元をゆがめて笑った。


「あら。聞いてないのね?」


 その声音は、甘く、冷たく――底のない穴のようだった。

 そして、彼女は静かに名乗った。


「私は――ルゼリア」


 その名を聞いた瞬間、千鶴の体が震えた。


 その響きが、魔女界で語られる“忌み名”の一つだったと、

 本能が叫んでいた。


◇◇


 ――ルゼリア。


 その名は、光のように美しく、

 同時に、闇のように不気味だった。


 人の心を操る魔女。

 感情を侵し、愛を歪め、存在ごと絡め取って“依存”させる。


 その力は、生まれつきのものだったという。


 何をするでもなく、

 ただそこに在るだけで、他者の精神を侵食してしまう。


 だから彼女は――“危険すぎる存在”として魔力剝奪のうえ、魔女界から追放された。


 強すぎた。

 歪すぎた。

 そして――あまりにも、“人間らしかった”。


 彼女が消えたあと、記録は封印された。

 ただ噂だけが、ひっそりと囁かれていた。


◇◇


(まさか……そんな存在が、“あの子”だったなんて)


 千鶴は、息を飲んだ。


 誰よりも無垢な顔で、

 誰よりもあどけなく笑って、

 蒼真のそばに寄り添っていたあの子が――


 魔女界すら恐れた、“ルゼリア”。


 その名が、重く響いたあとも、

 千鶴の体は、壁に強く押しつけられたままだった。


 身体が重く、呼吸もまともにできない。

 けれど――それでも、口が動いた。


「……でも……ルゼリアには……魔力は、もう……」


 必死に、空気を吸い込んで、言葉を紡ぐ。


「……魔力は……剥奪されたはず……魔女界では……追放された、はずで……」


 声は掠れていた。

 けれどその疑問だけは、どうしても飲み込めなかった。


 すると、紗夜――ルゼリアは、楽しげに目を細めて微笑んだ。


「あら。ちゃんと知ってるのね。

 そう――確かに私は、もう“終わった魔女”だった」


 その声には、悔しさも、怒りもなかった。

 ただ、自分を語る者だけが持つ静かな誇りがあった。


「100年前だったかしら。

 人間界にすれば、だいたい……10年前。

 私は、すべての魔力を剥奪されて、ひとり追放されたの」


 言いながら、ルゼリアはゆっくりと蒼真の眠るベッドに視線を向けた。


「人間界に落ちて、気がつけば森の中。

 ふらふらと彷徨って、車道に出て――」


 指先が、空をなぞるようにゆっくりと動く。


「通りかかった一台の車。

 誰でもよかった。“誰か”が、私を“求めて”くれれば――

 私の存在は、また意味を持てると思った」


 微笑みが、少しだけ歪んだ。


「依存でも、情欲でも、執着でも――

 “何か”を抱いてくれれば、私は“戻れる”って」


 そのとき、車の中から降りてきたのが――彼だった。


「彼の瞳は、すごくまっすぐだった。

 崩れた私を見て、怯えもせず、ただ手を差し伸べてくれた」


「“大丈夫ですか”って言ったの。

 ふふ……本当に、バカみたいに優しかった」


 ルゼリアの瞳が、ねっとりと蒼真を見つめる。


「その日から、私は――また、生きられるようになったのよ」

「蒼真のおかげで、私はまた魔女になれたの。」


 ルゼリアはそう言って、

 愛おしげにベッドで眠る蒼真の頬に視線を落とした。

 その顔は、まるで物語の中の“お姫様”のようだった。

 純粋で、無垢で、

 この世で最も守られるべき存在の顔。


 ……だったはずなのに。


 その笑みが、ふいにゆがんだ。



 ――ゆっくりと、ねっとりと。



 目の奥から、暗い何かが浮かび上がり、

 口元には、嗜虐を含んだ薄ら笑いが浮かぶ。


 喉の奥で、ぐふっ……とくぐもった笑いが漏れた。


「……ああ……ほんと、楽しかったわ」


 今までの甘い声とはまるで別人のような、

 低く湿った声音が、空気を濁す。


「車に乗ってたのよ。彼だけじゃない。

 あのときの彼には――両親も一緒だったの」


 千鶴の瞳が大きく見開かれる。

 痛みと衝撃で立ち上がれないまま、

 彼女はルゼリアの言葉を、ただ受け止めることしかできなかった。


「でもね、彼に依存させるには……それじゃ、都合が悪かったの。

 “守られる存在”になりたかったら、彼を壊すしかなかったのよ」




「だから――嬲り殺してやったの」


 


 その言葉は、あまりにも平然と、

 まるで花を摘むような調子で口にされた。

「ゆっくり、じっくりと。

 彼の心に、深い傷が残るように。

 “誰も守れなかった”って、一生後悔するように。」


 千鶴は、震えた。


 寒さでも痛みでもない。

 本能的な恐怖だった。


 ルゼリアは、笑っていた。

 楽しげに、うっとりと。


「そこからは早かったわ」

「“唯一の肉親”を失った彼に、私が妹としてそっと寄り添ってあげたの」

「記憶を、ちょっとだけいじって。

 “最初からそうだった”って、思わせて。

 お兄ちゃんと妹、仲のいい家族――捏造(ねつぞう)された、たったふたりの世界。」


 千鶴の指先が、わずかに床を掴む。


 それでも、足に力が入らない。

 目の前の“姫”は、もう童話に出てくる“魔女”の顔をしていた。


(これが……この子の、本当の姿……?)


 息をするのも忘れるほど、恐ろしい。

 でも――それ以上に、どこか悲しかった。


 「……ねえ、どうして」


 震える声が、喉の奥から漏れた。


 ルゼリアは、まだ笑っていた。

 お姫様の仮面を剥がし、

 童話の魔女のような、冷たい愉悦の中に立っている。


 けれど――千鶴の中には、

 それをただ憎む気持ちが湧かなかった。


 恐怖で、体は震えている。

 それでも、目から零れた涙は、止まってくれなかった。


「なんで……そんなこと……」


 声がかすれる。

 呼吸が詰まり、言葉が上手く続かない。


「なんで……そんな、残酷なこと……したの……?」


 千鶴の瞳は、ルゼリアをまっすぐに見ていた。


 責めるでも、睨みつけるでもなく。

 ただ――悲しみと、苦しさと、どうしようもない痛みをにじませながら。


「守ってくれたんでしょ……?

 先生、あなたのこと……拾ってくれて……

 それなのに……」


 涙がぽろぽろと落ちる。

 冷たい床に吸い込まれていくその音さえ、胸に痛かった。


「そんなふうに、手に入れるしか……

 誰かの愛を、もらえなかったの……?」


 それは、純粋な問いだった。

 それだけが、千鶴の心から溢れ出た――“魔女である前に、生きる者としての声”だった。


 ルゼリアの笑みが、ぴたりと止まった。

 空気が――凍った。


 千鶴の問いかけには、何の答えも返ってこなかった。

 代わりに、ルゼリアは一歩、また一歩と近づいてくる。


 まるで、なにも感じていないかのように、静かに。

 その目には、もう“感情”のようなものすらなかった。


「……っ」


 千鶴は痛みをこらえながら、足を引こうとした。

 けれど間に合わなかった。


 ふわりと持ち上がる視界。


 気づけば、喉元にルゼリアの細い手がかかっていた。


「く……う、あ……っ!」


 体が完全に壁に押しつけられる。

 倍近く体格差のある千鶴の身体を、まるで羽のように押し上げる力。

 それが魔女としての“本質”なのだと、全身が理解していた。


 ルゼリアは、うっとりとした目で囁いた。


「蒼真に、愛されることで――私は魔力をためていたのよ」

「でも……邪魔が入った。」

「あなたよ」


 指に力がこもるたび、喉が軋む。


「今までも、スタッフが来ることはあった。

 でも、私がにこりと笑いかけるだけで、みんな魅了されてね――

 蒼真から“近づくな”って追い出されてきた」

「だけど、今回のあなたは違った。」


 千鶴の顔を間近に覗き込むようにして、笑う。


「少し昔の“つて”をたどれば、すぐに分かった。

 あなたが、魔女界の使いだってことも。

 私を殺すために来た“使い”だってことも」


 ルゼリアの瞳に、冷たい光が宿る。


「でもね――驚いたわ。

 そんな、醜い容姿の魔女がいるなんて、誰も教えてくれなかったもの」

「正直、最初は笑っちゃったの。

 “え、ほんとにこいつ?”って」

「でも……わかったわ。

 魔女界は、本気だった。私を殺しに来た。」

「だから私も、機会をうかがってたの。

 いまの私じゃ、あなたをすぐに殺せるほどの魔力はないから」


「でも――そこからよ」


 声のトーンが、ゆっくりと下がっていく。


「蒼真の心が、あなたに揺れていくのが分かった」

「だから私は、魅了を強めた。」

「そうしたら、彼の精神はどんどん不安定になっていった。

 あなたが近づくたびに、蒼真は――苦しんでたのよ。」


 その言葉は、呪いのように、千鶴の心に突き刺さった。


(……あたしが、苦しめた……?)


 喉は締めつけられ、息はもうほとんど吸えなかった。

 けれど、涙は止まらなかった。


 その言葉が、千鶴の耳の奥に、ねっとりと染み込んだ。


 まるで、魔女界のどの呪詛よりも、強く、重く。

 自分が、ただ“近づいただけ”で、彼を壊していた。

 それを証明するように、あの冷たい瞳が自分を拒んでいた。


 (……ああ、そうだったんだ)


 喉が痛い。苦しい。

 でも、それよりも――胸が、痛かった。


 魔女界では、ただのお荷物だった。

 人間界に来て、仮初めの生活の中でも初めて誰かの役に立てるかもしれないって思った。


 けど、それも幻想だった。

 任務も果たせず、誰一人救えず、

 ただ――迷惑だけをかけていた。


 (どうせ……あたしなんか、いなくてもよかったんだ)


 目の前には、自分には敵わない“本物の魔女”。

 あまりにも力の差がありすぎた。


 魔法も、信念も、何も通じない。

 なら――


 千鶴は、そっと手を下ろした。


 それまで必死に掴んでいたルゼリアの手を、離す。

 力が抜けて、両手がだらりと垂れた。


 (もう……このままでも……)


 意識が遠のいていく。

 指先が冷えて、足元が霞んでいく。


 そして――


 


 「やめてくれ、紗夜……っ」


 その声が、現実を切り裂いた。


 

 ――蒼真だった。


 穏やかな寝息を立てていたはずの彼が、

 ベッドの上で、苦しげに身を起こしかけていた。

 瞳はまだ半分閉じたまま。

 でも、その声には、はっきりと“拒絶”の意志がこもっていた。


 「……もう、誰も……傷つけないでくれ……」


 ルゼリアの手が、ほんのわずかに揺れた。

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