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 そして、朝が来た。


 制服に着替え、受付に立つ。

 鏡の前で何度も整えた顔は、一見いつも通りに見えたはずだった。

 けれど胸の奥には、昨夜から続くざわつきが、黒い霧のようにじっと残っていた。

 どれだけ呼吸を深くしても、消えない。


 蒼真の態度は、何も変わっていなかった。

 挨拶をしても返事はない。

 声も、視線も、こちらに向けられることはなく、

 ただ、カウンターにメモが一枚――乾いた仕草で置かれるだけ。


 でも、それよりも――

 紗夜の存在が、明らかに“違って”いた。


「お兄ちゃん、今日は午後までずっとここにいるの?」

「うん。じゃあ、待っててあげる」


 甘えるように袖を掴み、

 そのまま腕に額を預けるような仕草。

 わずかに触れる指先の角度、身体の寄せ方、声の調子――

 一つひとつが、過剰だった。


 ふたりの距離は近い。

 血の繋がった兄妹にしては、どこか“親密すぎる”。


 それが――見せつけるようなものにしか思えなかった。

 舞台の上で演じられるような、計算された甘え。

 意図してこちらに見せているような、あまりに“完璧すぎる妹”。


 千鶴の喉の奥が、ひりついた。

 けれど、こみ上げてくる感情は、嫉妬でも羨望でもなかった。


(……不気味)


 その言葉が、舌の裏に張りつく。

 ぞわりと背中を這うような違和感。


(この子はいったい、どこまで知ってるの?)


 “ベルーナ”という名前。

 魔女だということ。

 この任務の内容さえ――すべてを見透かしているのかもしれない。


 それでも、何も知らない“妹”として振る舞っている。

 まるで最初から、“演じる”ことを楽しんでいるかのように。


(もし、先生に……あたしが“殺しに来た”ってバレたら)

(そのとき、この子は、どんな顔をするんだろ)


 笑うのか。

 泣くのか。

 それとも、“知っていた”という顔をするのか。


 胸の奥に、冷たいものが流れた。

 重くて、濁っていて、まるで毒のようにじわじわと広がる。


 紗夜がまた、甘えた声で笑う。

 その声に、蒼真が微かに応える。

 たったそれだけのやりとりなのに、

 千鶴は息をするたび、ほんの少しずつ肺が狭くなっていくような苦しさを覚えていた。


◇◇


 それは、少しずつ。けれど確実に、空気が変わっていった。


 紗夜と蒼真の距離――それは、目に見える“物理的な間”よりも、ずっと濃密な“空気の質”として、日に日にその密度を増していった。


 最初は、ただ隣にいるだけだった。

 それが、ある日を境に変わり始めた。

 目が合えば、どちらからともなく微笑み合い、

 紗夜はさりげなく袖をつまみ、蒼真はそれを拒まない。

 髪にそっと触れ、耳打ちを交わす。

 まるで、恋人のように――あまりに自然で、あまりに親密だった。


 それを「兄妹の距離」と言い張るには、もう無理があった。

 見ているだけで、こちらの心臓がひやりと冷え、そしてどこか痛んだ。


 そして、蒼真の態度もまた――変わっていった。


 はじめは“ただの妹”として接していたその眼差しに、どこか熱が宿るようになった。

 瞳が細められ、声がわずかに低くなり、言葉の端が優しさではなく“親しみ”に変わっていく。


 その変化を、千鶴は見逃さなかった。

 見てしまった。

 そして、気づいてしまった。


 時折、ふっと触れる蒼真の手。

 その指先にこもった温度は、兄のそれではなかった。

 “誰かを異性として意識している男”の仕草だった。


 紗夜は何も変わらない。

 あいかわらず無邪気に、甘えて、微笑んで、喉をすこしだけ見せて笑う。

 そのすべてが――計算かどうかすら、もはや分からなかった。


 千鶴は、受付の椅子に座ったまま、書類に目を落としたふりをして、視線だけを動かした。


 ほんのわずかに。

 けれど、胸の奥では確かに何かが――きしり、と音を立ててひび割れていた。


◇◇


 千鶴に対しての暴言は、もはや珍しくもなかった。


 ここ最近では、わざわざスタッフ室にまで足を運んで、

 書類整理をしていた千鶴に向かって、棘のある言葉を吐き捨てることさえあった。


「仕事が遅い。整理されてないと、こっちが迷惑なんだけど」

「何度言わせるの。……もう少し頭、使って?」


 感情の色が抜けたような声音。冷えきった口調。

 言われ慣れたはずだった。

 けれど、その言葉の一つひとつが、鋭い針のように心に突き刺さって、抜けなかった。


(なんで、こんなふうになったんだろ……)


 思えば、最初からこんなだったわけじゃない。

 言い返したくても、言い返せなかった。

 笑ってやり過ごしても、だんだんと笑えなくなっていた。

 何をしても、近づけば遠ざかっていく。それが苦しかった。


 そして今日も、いつもと同じように、蒼真がスタッフ室に入ってきた。


 千鶴は、思わず身構えた。

 胸がぎゅっと縮こまり、背中に薄く冷たい汗がにじむ。

 また何か、言われる。心を削られる。そんな予感に、体が先に反応していた。


 でも、今日の蒼真は――何かが違った。


 ドアを開けたまま、

 千鶴の顔を見ることもなく、蒼真は書類棚の前に立ち尽くしていた。


「……先生?」


 恐る恐る声をかけた。

 すると、蒼真はゆっくりと振り返る。

 その顔には、見慣れた冷たい表情――いつもの、拒絶と無関心を張りつけた仮面。

 けれど、その奥に、かすかに乱れた呼吸があった。


 肩が、わずかに上下している。

 喉元で引っかかるような浅い息づかい。

 肌は少し蒼ざめ、額にはじっとりと汗がにじんでいた。


「また、……ここ、散らかって……る」


 責めるように言いかけた声は、途中で――ふいに、ぷつりと切れた。


 ――ぐらり、と身体が揺れた。


「……せ、先生?」


 千鶴が身を乗り出すよりも早く、

 蒼真の身体がふらりと前へ傾く。

 バランスを失ったまま、そのまま――


 ばたり。


 音を立てて床に崩れ落ちた。

 乾いた床にぶつかる音が、静まり返った室内に無遠慮に響く。


「先生っ……!」


 駆け寄った千鶴の指先が、震える。

 それでも、そっと伸ばした手が蒼真の額に触れた瞬間、じっとりとした熱が指の腹に伝わった。


 額に触れると、熱い。

 まるで火照りきった鉄板に触れたかのように、肌の奥から熱が這い上がってくる。


(高熱……? でも、こんな突然……)


 千鶴は思わず唇を噛む。

 意識を失っているのか、蒼真の瞼は閉じられ、喉から漏れる呼吸は浅く、途切れがちで、胸の上下も不安定に見えた。

 その表情は歪み、苦悶を堪えるように眉がわずかに寄せられている。


 今まで見たことのない蒼真の顔だった。

 完璧に整えられた白衣も、知的な振る舞いも、冷静な言葉も――

 いまはすべて、額の汗と苦しそうな吐息の下にかき消えていた。


◇◇


 ベッドに運ぶまでの間、千鶴の胸はずっとざわついていた。

 腕に預けられた蒼真の身体は思ったより重く、けれどそれ以上に、“こんなにも無防備な彼”を支えているという事実が、全身を震わせた。


 クリニックには、もう紗夜の姿もなかった。

 今日も一日受付に顔を見せず、物音ひとつ立てることなく、どこかに隠れるようにしていた。

 だから、千鶴が一人で彼を抱えて運ぶしかなかった。


 スタッフルーム――千鶴の生活空間。

 他人を入れたことなどなかったその部屋の空気が、いまはまるで違って感じられる。

 狭いシングルベッドに、蒼真の身体を横たえると、シーツが小さく軋み、彼の呼吸音だけが部屋に残った。


 シャツは汗で湿っていて、熱に浮かされた肌がうっすらと赤みを帯びていた。

 額に触れれば、すぐさま熱が伝わってくる。火照りきった肌からは、体温の奔流が溢れているようだった。


 千鶴はタオルを冷水で湿らせ、しっかりと絞ってから、そっと額にあてた。

 その瞬間、蒼真の眉がわずかに動く。意識は戻らない。けれど、苦しそうな呼吸の波が、少しだけ落ち着いたように見えた。


 熱が高すぎる。まともに動ける状態じゃない。

 額に置いたタオルを交換するたび、彼の弱々しい吐息が胸に重くのしかかってくる。


「……なにが原因なの。どうしてこんな……」


 答えは返ってこなかった。

 けれど、彼の寝顔はいつもの冷たさをまったく感じさせなかった。


 苦しげに眉を寄せ、額には細かな汗。

 唇は乾いて、小さく震えている。

 目を閉じていても、夢のなかでさえ不安に苛まれているような、そんな表情だった。


(あたしに、あんな言葉を投げた人には――見えない)


 あの日の鋭い視線も、刺すような言葉も、いまこの顔からは想像できなかった。

 静かな寝息が、時折乱れて揺れるたび、胸の奥に波のような感情が広がっていく。


 どこか、壊れそうなほど、無防備だった。


◇◇


 数時間が過ぎた。

 部屋に置かれた小さなランプの灯りが、息をするように静かに揺れている。

 明るすぎず、暗すぎず――まるで夢と現の境界を保つような、やわらかな光だった。


 ベッドの脇に座る千鶴は、濡らしたタオルを手に、

 そっと身を乗り出した。


 蒼真の額にそっと触れようとした、そのとき――


 かすかに、指先が動いた。

 ピクリと揺れた手が、ベッドのシーツを弱々しく掴もうとする。

 まるで何かを探るように。しがみつくように。


 続いて、眉がわずかにひそまり、

 まぶたが、ゆっくりと、重たそうに持ち上がった。

 瞳の奥にはまだ光が定まっておらず、焦点は宙をさまよっていた。


「……!」


 千鶴はとっさに身を引いた。

 緊張が喉元までせり上がる。

 目が合った――そう思った瞬間、息を止めた。


 焦点はまだ曖昧で、ぼんやりと揺れている。

 それでも、確かにこちらを見ていた。

 声にならない驚きが、胸の奥で跳ねる。


「……田嶋、さん……?」


 かすれた声だった。

 喉がうまく動いていない。言葉にならない音のかけらが、熱に浮かされた唇から、ゆっくりと漏れていく。


 熱と脱力で、まともに口も動いていない。

 それでも――その目だけは、はっきりと見えた。


 やわらかくて、やさしくて、あたたかくて――

 あのとき、ルナを撫でていたときと、まったく同じ眼差しだった。


 冷たさも、拒絶もない。

 棘の代わりに、そこにあったのは、穏やかな光だった。


 まぶたの重みとたたかいながらも、千鶴を見つめるその視線は、どこまでも真っ直ぐで、澄んでいた。

 それが、千鶴の心を優しく、けれど確実に、叩いた。


 千鶴は思わず、胸を押さえた。


(……こんな目で、見られる日が来るなんて……)


 信じられなかった。

 けれど、信じたかった。


 涙が滲みそうになるのを、どうにか飲み込んだそのとき、

 蒼真の唇が、もう一度、わずかに動いた。


「……ごめ、んなさい……」


 弱々しくこぼれたその一言に、

 千鶴の胸は、ずきりと締めつけられた。


 あんなに冷たかったのに。

 何度も突き放されたのに。

 それでも、あの目は――まるで夢みたいに、やさしかった。


(ほんとに、あの人なの……?)


 呼吸は浅く、額は熱いまま。

 何も変わっていないはずなのに、涙が出そうになる。


 千鶴は濡れタオルを絞り直しながら、

 どうしていいかわからず、ただ額を拭いたり、

 シーツを直したりしていた。


 心臓の音ばかりがうるさくて、

 蒼真の寝息がだんだん弱くなるような気がして、怖くて――


 そして、ふと。


(……あれ?)

(魔法……)


 はっとした。


 指先がぴくりと動く。

 胸の奥に眠っていた魔力が、微かに呼応するようにざわついた。


 今までなら、こんなとき、すぐに魔法を使っていたはずだった。

 小さなケガも、風邪の初期症状も、迷わず治してきた。


 けれど、蒼真が倒れたあの瞬間、

 何もできなかった。


(そうだ、使える。あたしなら……)


 千鶴はそっと、蒼真の胸に手を重ねた。

 まぶたを閉じ、静かに息を整える。

 呼吸と鼓動を合わせるように、意識を内へと沈める。


 指先に、あたたかい光がにじんだ。

 掌の奥で、魔力が静かに目を覚ます。

 やさしく、穏やかに――まるで春の風が肌に触れるような感触で、彼の身体に染み込んでいく。


 熱をやわらげ、痛みを和らげ、

 苦しそうだった表情が――少しずつ、穏やかにほぐれていった。


 浅かった呼吸も、ゆっくり、落ち着いていく。

 肺の奥から静かに流れる空気の音が、安堵を連れてくる。


 やがて、安らかな寝息。


 「……よかった……」


 ぽつりと、息のように漏らす。

 心の底から、そう思えた。


 だけど、その直後だった。


「――なにしてるの?」


 背後から、氷のように冷たい声が落ちてきた。


 千鶴は振り向く。


 そこには、夜着姿の紗夜が立っていた。


 笑っていた。


 でも、その笑みの奥にあるのは、まるですべてを見ていたような静けさだった。

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