6
そして、朝が来た。
制服に着替え、受付に立つ。
鏡の前で何度も整えた顔は、一見いつも通りに見えたはずだった。
けれど胸の奥には、昨夜から続くざわつきが、黒い霧のようにじっと残っていた。
どれだけ呼吸を深くしても、消えない。
蒼真の態度は、何も変わっていなかった。
挨拶をしても返事はない。
声も、視線も、こちらに向けられることはなく、
ただ、カウンターにメモが一枚――乾いた仕草で置かれるだけ。
でも、それよりも――
紗夜の存在が、明らかに“違って”いた。
「お兄ちゃん、今日は午後までずっとここにいるの?」
「うん。じゃあ、待っててあげる」
甘えるように袖を掴み、
そのまま腕に額を預けるような仕草。
わずかに触れる指先の角度、身体の寄せ方、声の調子――
一つひとつが、過剰だった。
ふたりの距離は近い。
血の繋がった兄妹にしては、どこか“親密すぎる”。
それが――見せつけるようなものにしか思えなかった。
舞台の上で演じられるような、計算された甘え。
意図してこちらに見せているような、あまりに“完璧すぎる妹”。
千鶴の喉の奥が、ひりついた。
けれど、こみ上げてくる感情は、嫉妬でも羨望でもなかった。
(……不気味)
その言葉が、舌の裏に張りつく。
ぞわりと背中を這うような違和感。
(この子はいったい、どこまで知ってるの?)
“ベルーナ”という名前。
魔女だということ。
この任務の内容さえ――すべてを見透かしているのかもしれない。
それでも、何も知らない“妹”として振る舞っている。
まるで最初から、“演じる”ことを楽しんでいるかのように。
(もし、先生に……あたしが“殺しに来た”ってバレたら)
(そのとき、この子は、どんな顔をするんだろ)
笑うのか。
泣くのか。
それとも、“知っていた”という顔をするのか。
胸の奥に、冷たいものが流れた。
重くて、濁っていて、まるで毒のようにじわじわと広がる。
紗夜がまた、甘えた声で笑う。
その声に、蒼真が微かに応える。
たったそれだけのやりとりなのに、
千鶴は息をするたび、ほんの少しずつ肺が狭くなっていくような苦しさを覚えていた。
◇◇
それは、少しずつ。けれど確実に、空気が変わっていった。
紗夜と蒼真の距離――それは、目に見える“物理的な間”よりも、ずっと濃密な“空気の質”として、日に日にその密度を増していった。
最初は、ただ隣にいるだけだった。
それが、ある日を境に変わり始めた。
目が合えば、どちらからともなく微笑み合い、
紗夜はさりげなく袖をつまみ、蒼真はそれを拒まない。
髪にそっと触れ、耳打ちを交わす。
まるで、恋人のように――あまりに自然で、あまりに親密だった。
それを「兄妹の距離」と言い張るには、もう無理があった。
見ているだけで、こちらの心臓がひやりと冷え、そしてどこか痛んだ。
そして、蒼真の態度もまた――変わっていった。
はじめは“ただの妹”として接していたその眼差しに、どこか熱が宿るようになった。
瞳が細められ、声がわずかに低くなり、言葉の端が優しさではなく“親しみ”に変わっていく。
その変化を、千鶴は見逃さなかった。
見てしまった。
そして、気づいてしまった。
時折、ふっと触れる蒼真の手。
その指先にこもった温度は、兄のそれではなかった。
“誰かを異性として意識している男”の仕草だった。
紗夜は何も変わらない。
あいかわらず無邪気に、甘えて、微笑んで、喉をすこしだけ見せて笑う。
そのすべてが――計算かどうかすら、もはや分からなかった。
千鶴は、受付の椅子に座ったまま、書類に目を落としたふりをして、視線だけを動かした。
ほんのわずかに。
けれど、胸の奥では確かに何かが――きしり、と音を立ててひび割れていた。
◇◇
千鶴に対しての暴言は、もはや珍しくもなかった。
ここ最近では、わざわざスタッフ室にまで足を運んで、
書類整理をしていた千鶴に向かって、棘のある言葉を吐き捨てることさえあった。
「仕事が遅い。整理されてないと、こっちが迷惑なんだけど」
「何度言わせるの。……もう少し頭、使って?」
感情の色が抜けたような声音。冷えきった口調。
言われ慣れたはずだった。
けれど、その言葉の一つひとつが、鋭い針のように心に突き刺さって、抜けなかった。
(なんで、こんなふうになったんだろ……)
思えば、最初からこんなだったわけじゃない。
言い返したくても、言い返せなかった。
笑ってやり過ごしても、だんだんと笑えなくなっていた。
何をしても、近づけば遠ざかっていく。それが苦しかった。
そして今日も、いつもと同じように、蒼真がスタッフ室に入ってきた。
千鶴は、思わず身構えた。
胸がぎゅっと縮こまり、背中に薄く冷たい汗がにじむ。
また何か、言われる。心を削られる。そんな予感に、体が先に反応していた。
でも、今日の蒼真は――何かが違った。
ドアを開けたまま、
千鶴の顔を見ることもなく、蒼真は書類棚の前に立ち尽くしていた。
「……先生?」
恐る恐る声をかけた。
すると、蒼真はゆっくりと振り返る。
その顔には、見慣れた冷たい表情――いつもの、拒絶と無関心を張りつけた仮面。
けれど、その奥に、かすかに乱れた呼吸があった。
肩が、わずかに上下している。
喉元で引っかかるような浅い息づかい。
肌は少し蒼ざめ、額にはじっとりと汗がにじんでいた。
「また、……ここ、散らかって……る」
責めるように言いかけた声は、途中で――ふいに、ぷつりと切れた。
――ぐらり、と身体が揺れた。
「……せ、先生?」
千鶴が身を乗り出すよりも早く、
蒼真の身体がふらりと前へ傾く。
バランスを失ったまま、そのまま――
ばたり。
音を立てて床に崩れ落ちた。
乾いた床にぶつかる音が、静まり返った室内に無遠慮に響く。
「先生っ……!」
駆け寄った千鶴の指先が、震える。
それでも、そっと伸ばした手が蒼真の額に触れた瞬間、じっとりとした熱が指の腹に伝わった。
額に触れると、熱い。
まるで火照りきった鉄板に触れたかのように、肌の奥から熱が這い上がってくる。
(高熱……? でも、こんな突然……)
千鶴は思わず唇を噛む。
意識を失っているのか、蒼真の瞼は閉じられ、喉から漏れる呼吸は浅く、途切れがちで、胸の上下も不安定に見えた。
その表情は歪み、苦悶を堪えるように眉がわずかに寄せられている。
今まで見たことのない蒼真の顔だった。
完璧に整えられた白衣も、知的な振る舞いも、冷静な言葉も――
いまはすべて、額の汗と苦しそうな吐息の下にかき消えていた。
◇◇
ベッドに運ぶまでの間、千鶴の胸はずっとざわついていた。
腕に預けられた蒼真の身体は思ったより重く、けれどそれ以上に、“こんなにも無防備な彼”を支えているという事実が、全身を震わせた。
クリニックには、もう紗夜の姿もなかった。
今日も一日受付に顔を見せず、物音ひとつ立てることなく、どこかに隠れるようにしていた。
だから、千鶴が一人で彼を抱えて運ぶしかなかった。
スタッフルーム――千鶴の生活空間。
他人を入れたことなどなかったその部屋の空気が、いまはまるで違って感じられる。
狭いシングルベッドに、蒼真の身体を横たえると、シーツが小さく軋み、彼の呼吸音だけが部屋に残った。
シャツは汗で湿っていて、熱に浮かされた肌がうっすらと赤みを帯びていた。
額に触れれば、すぐさま熱が伝わってくる。火照りきった肌からは、体温の奔流が溢れているようだった。
千鶴はタオルを冷水で湿らせ、しっかりと絞ってから、そっと額にあてた。
その瞬間、蒼真の眉がわずかに動く。意識は戻らない。けれど、苦しそうな呼吸の波が、少しだけ落ち着いたように見えた。
熱が高すぎる。まともに動ける状態じゃない。
額に置いたタオルを交換するたび、彼の弱々しい吐息が胸に重くのしかかってくる。
「……なにが原因なの。どうしてこんな……」
答えは返ってこなかった。
けれど、彼の寝顔はいつもの冷たさをまったく感じさせなかった。
苦しげに眉を寄せ、額には細かな汗。
唇は乾いて、小さく震えている。
目を閉じていても、夢のなかでさえ不安に苛まれているような、そんな表情だった。
(あたしに、あんな言葉を投げた人には――見えない)
あの日の鋭い視線も、刺すような言葉も、いまこの顔からは想像できなかった。
静かな寝息が、時折乱れて揺れるたび、胸の奥に波のような感情が広がっていく。
どこか、壊れそうなほど、無防備だった。
◇◇
数時間が過ぎた。
部屋に置かれた小さなランプの灯りが、息をするように静かに揺れている。
明るすぎず、暗すぎず――まるで夢と現の境界を保つような、やわらかな光だった。
ベッドの脇に座る千鶴は、濡らしたタオルを手に、
そっと身を乗り出した。
蒼真の額にそっと触れようとした、そのとき――
かすかに、指先が動いた。
ピクリと揺れた手が、ベッドのシーツを弱々しく掴もうとする。
まるで何かを探るように。しがみつくように。
続いて、眉がわずかにひそまり、
まぶたが、ゆっくりと、重たそうに持ち上がった。
瞳の奥にはまだ光が定まっておらず、焦点は宙をさまよっていた。
「……!」
千鶴はとっさに身を引いた。
緊張が喉元までせり上がる。
目が合った――そう思った瞬間、息を止めた。
焦点はまだ曖昧で、ぼんやりと揺れている。
それでも、確かにこちらを見ていた。
声にならない驚きが、胸の奥で跳ねる。
「……田嶋、さん……?」
かすれた声だった。
喉がうまく動いていない。言葉にならない音のかけらが、熱に浮かされた唇から、ゆっくりと漏れていく。
熱と脱力で、まともに口も動いていない。
それでも――その目だけは、はっきりと見えた。
やわらかくて、やさしくて、あたたかくて――
あのとき、ルナを撫でていたときと、まったく同じ眼差しだった。
冷たさも、拒絶もない。
棘の代わりに、そこにあったのは、穏やかな光だった。
まぶたの重みとたたかいながらも、千鶴を見つめるその視線は、どこまでも真っ直ぐで、澄んでいた。
それが、千鶴の心を優しく、けれど確実に、叩いた。
千鶴は思わず、胸を押さえた。
(……こんな目で、見られる日が来るなんて……)
信じられなかった。
けれど、信じたかった。
涙が滲みそうになるのを、どうにか飲み込んだそのとき、
蒼真の唇が、もう一度、わずかに動いた。
「……ごめ、んなさい……」
弱々しくこぼれたその一言に、
千鶴の胸は、ずきりと締めつけられた。
あんなに冷たかったのに。
何度も突き放されたのに。
それでも、あの目は――まるで夢みたいに、やさしかった。
(ほんとに、あの人なの……?)
呼吸は浅く、額は熱いまま。
何も変わっていないはずなのに、涙が出そうになる。
千鶴は濡れタオルを絞り直しながら、
どうしていいかわからず、ただ額を拭いたり、
シーツを直したりしていた。
心臓の音ばかりがうるさくて、
蒼真の寝息がだんだん弱くなるような気がして、怖くて――
そして、ふと。
(……あれ?)
(魔法……)
はっとした。
指先がぴくりと動く。
胸の奥に眠っていた魔力が、微かに呼応するようにざわついた。
今までなら、こんなとき、すぐに魔法を使っていたはずだった。
小さなケガも、風邪の初期症状も、迷わず治してきた。
けれど、蒼真が倒れたあの瞬間、
何もできなかった。
(そうだ、使える。あたしなら……)
千鶴はそっと、蒼真の胸に手を重ねた。
まぶたを閉じ、静かに息を整える。
呼吸と鼓動を合わせるように、意識を内へと沈める。
指先に、あたたかい光がにじんだ。
掌の奥で、魔力が静かに目を覚ます。
やさしく、穏やかに――まるで春の風が肌に触れるような感触で、彼の身体に染み込んでいく。
熱をやわらげ、痛みを和らげ、
苦しそうだった表情が――少しずつ、穏やかにほぐれていった。
浅かった呼吸も、ゆっくり、落ち着いていく。
肺の奥から静かに流れる空気の音が、安堵を連れてくる。
やがて、安らかな寝息。
「……よかった……」
ぽつりと、息のように漏らす。
心の底から、そう思えた。
だけど、その直後だった。
「――なにしてるの?」
背後から、氷のように冷たい声が落ちてきた。
千鶴は振り向く。
そこには、夜着姿の紗夜が立っていた。
笑っていた。
でも、その笑みの奥にあるのは、まるですべてを見ていたような静けさだった。




