表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
6/11

 夜の空気は少しひんやりしていて、ルナの背中を撫でる指先に、風がすうっと流れ込む。指の隙間をなぞるように冷たく、肌の奥にじわじわと沁み込んでくる。


 クリニックの裏手。人気はなく、静寂だけが地面に染みていた。どこかで草が擦れる音がして、誰かの気配かと振り返るが、ただ風が植木を揺らしているだけだった。


 先ほどのことを思い出すたび、胸がじわじわと痛んだ。言葉が刃のように残っていて、今もその断面が疼いている。


(“ブスのくせに”なんて……)


 思い出すのもバカみたいだと思う。思い出したって、なにも変わらない。なのに、忘れようとしても、蒼真の顔が、声が、あの目が、頭から離れない。


 指の下、ルナの毛はあたたかくて、やわらかい。目を閉じていれば、少しだけ気持ちが落ち着くような気がした。


 そのときだった。


 「ねえ」


 空気が割れたような声。静寂の中に、誰かの声が、すぐ耳元に落ちてきた。

 驚いて振り返ると、そこには紗夜が立っていた。


 昼間と同じ、柔らかい服。淡いクリーム色のワンピースに、風でふわりと揺れるスカートの裾。長い睫毛と、ほわんとした髪。目を見開いているわけでもないのに、暗がりの中で彼女の姿はやけに印象的だった。まるで月明かりそのもののように、静かに、そこに“いた”。


「……紗夜、さん……?」

「久しぶり。ちゃんと話すの、三週間ぶりだよね?」


 その声には、とげも角もない。ただ、記憶のようにすっと沁みる。そう言って、紗夜は千鶴の隣にしゃがみ込む。膝を折る仕草さえ丁寧で、衣擦れの音ひとつがやけに静かに響いた。


 ルナに手を伸ばして、優しく撫でる。その指の動き一つとっても、自然に“絵”になってしまう。細くて白い指。整った横顔。どこを切り取っても、完璧だった。


 “この子を殺さなきゃいけない”――その言葉が、喉の奥に重くのしかかる。思考ではなく、本能的な重さ。胃のあたりがじわりと重く沈み、息が浅くなる。


「おにいちゃんと、最近仲悪い?」


 無邪気な笑みだった。けれど、その笑みに込められたものが読めない。何も知らないように見せながら、すべて見透かしているようにも思える。どこまで知っていて、何を感じているのか――わからない。それが余計に怖かった。


 千鶴は言葉を失った。喉が詰まり、声が出なかった。魔女としての任務が、頭のどこかで囁いてくる。


(今、この手で。今なら、やれる)


 だって、目の前にいる。人目もない。魔法だって、確実に通る距離。手を伸ばせば、それだけで終わる。音もなく、苦しみもなく。すべては静かに処理できる。


 でも。


 蒼真の顔が、脳裏に浮かんだ。ついさっき、自分を踏みにじったあの人の顔。優しさも、残酷さも、無関心も、すべてを持ったあの瞳。その姿が、どうしても消えなかった。

(“あの人の大事な妹”を、あたしが今ここで……?)


 指が、動かなかった。力が入らない。魔法の回路に火をともすはずの意志が、どこかで寸断されていた。理屈じゃなく、何かが――“拒んでいた”。


 笑っている紗夜の横顔を見つめながら、千鶴はただ、指先をルナの毛に滑らせ続けた。静かで、やわらかくて、温かい感触。それだけが現実だった。


 紗夜は、ルナの頭を撫でながら、何気ない調子で言った。


「……お兄ちゃんのこと、好きなの?」


 その瞬間、千鶴の心臓が、びくんと跳ねた。胸の奥で何かが小さく破裂して、肺に詰まっていた空気が一気に薄くなる。反射的に顔を上げる。


 けれど紗夜は、ただ柔らかく微笑んでいた。ほんの少しだけ首をかしげて。

その笑みには悪意も裏も見えない――なのに、どこか“深すぎる静けさ”があった。まるで湖の底に沈んでいる何かを、そのまま隠し持ったまま揺れもしない鏡面。


「べ、別に……そんなこと、ない……」


 すぐに否定しようとした言葉が、口の中でつっかえた。


(“ない”って……言い切れる? 本当に?)


 昨日の距離。今日の言葉。そして、今も胸の奥に残る痛み。

 あの言葉が突き刺さったのは、ただ傷つけられたからじゃない。

 それを言った人の言葉だったから。

 蒼真という“たった一人”の言葉が。


 それはただの任務じゃない。ただの好奇心でもない。

 それが“恋”なのかどうかは、まだ自分でもわからない。

 でも――“違う”とも、もう言い切れなかった。


 千鶴が黙り込むと、紗夜はゆっくりと立ち上がった。夜風がすそを揺らし、淡く髪をなびかせる。

 その動作さえ静かで、まるで何も問わなかったかのような自然さだった。


「そっか。……うん、なんとなく、そうかなって思っただけ」


 それだけ言って、紗夜は歩き出す。

 ルナが名残惜しそうに、小さく鳴いた。その音に、紗夜は微笑みを落としたまま、千鶴の方を振り返らない。

 その背中が、夜の闇に溶けていく。


 けれど――完全に見えなくなる、ほんの少し前。


 彼女はふと、足を止めた。風が止まり、世界が一瞬、息を潜める。


 そして、夜気に溶けるような声で、こう呟いた。


 


「――邪魔しないでね、ベルーナ」




 その名前を口にした声音は、どこまでも優しかった。

 まるで子守唄でもささやくように、柔らかく、あたたかく、やさしい響きだった。


 けれど、言葉の意味を理解した瞬間――

 心臓が、冷水に沈められたみたいに、一気に冷えた。


 『ベルーナ』


 紗夜が、確かにそう言った。

 この世界で、その名を知るはずのないはずの少女が。

 千鶴としても、魔女としても――口に出したことのない“本当の名前”を。


(――なんで)

(……どうして、その名前を――)


 頭の奥が、音もなく真っ白になる。

 考えるより先に、恐怖が、冷たい毒のように静かに体内をめぐっていく。

 まるで、どこかで命を握られていたことに今さら気づいたかのように。


 紗夜は振り返らない。

 ただ、背を向けたまま、柔らかく笑っている――そんな気配がする。

 言葉は優しい。声もやさしい。けれど、背中から滲み出るそれは、間違いなく“圧”だった。


 やさしくて、怖い。

 何もしていないのに、心の奥まで見透かされたような感覚。

 まるで、こちらが“人間である”と信じていたものを、向こうが“魔女である”と知っていた……それだけの“当然のこと”として。


 紗夜はそのまま、ゆっくりと歩き去っていった。

 夜の闇に溶けるように、音もなく。空気さえ、彼女の影を伝えきれずにいた。


 千鶴は、ルナの毛を撫でることもできず、背に置いたまま、まだ震える自分の手をじっと見下ろしていた。


(あの子は……いったい、なに?)


◇◇


 その夜、千鶴はほとんど眠れなかった。


 「――邪魔しないでね、ベルーナ」


 あの声が、何度も何度も頭の中に反響する。

 眠りに落ちかけても、そのささやきが追いかけてくる。

 耳の奥に、あのときと同じ冷たい風が吹き込むような錯覚すらあった。


 どうして、魔女名を知っているのか。

 どうして、笑って言えるのか。

 どうして、あの目で、あの言葉を口にしたのか。


 千鶴は、ベッドの上で身体を丸めた。布団の中に隠れても、背筋の冷えは消えなかった。

 魔界からの監視。任務の監督。どんな小さな“ミス”であっても、それは即座に失態として扱われる。

 魔女の世界では、「知られたこと」はすなわち、「終わり」を意味する。


(報告……できない。こんなの、知られたら――)


 その瞬間、何をされるか、想像もつかなかった。

 報告すること自体が、処分の引き金になる気がした。

 魔女としての命が、無音で消される気配すら、どこかに漂っていた。


 たったひとつ、確かなことがあるとすれば――

 この世界で、自分は完全に、ひとりぼっちだということだった。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ