5
夜の空気は少しひんやりしていて、ルナの背中を撫でる指先に、風がすうっと流れ込む。指の隙間をなぞるように冷たく、肌の奥にじわじわと沁み込んでくる。
クリニックの裏手。人気はなく、静寂だけが地面に染みていた。どこかで草が擦れる音がして、誰かの気配かと振り返るが、ただ風が植木を揺らしているだけだった。
先ほどのことを思い出すたび、胸がじわじわと痛んだ。言葉が刃のように残っていて、今もその断面が疼いている。
(“ブスのくせに”なんて……)
思い出すのもバカみたいだと思う。思い出したって、なにも変わらない。なのに、忘れようとしても、蒼真の顔が、声が、あの目が、頭から離れない。
指の下、ルナの毛はあたたかくて、やわらかい。目を閉じていれば、少しだけ気持ちが落ち着くような気がした。
そのときだった。
「ねえ」
空気が割れたような声。静寂の中に、誰かの声が、すぐ耳元に落ちてきた。
驚いて振り返ると、そこには紗夜が立っていた。
昼間と同じ、柔らかい服。淡いクリーム色のワンピースに、風でふわりと揺れるスカートの裾。長い睫毛と、ほわんとした髪。目を見開いているわけでもないのに、暗がりの中で彼女の姿はやけに印象的だった。まるで月明かりそのもののように、静かに、そこに“いた”。
「……紗夜、さん……?」
「久しぶり。ちゃんと話すの、三週間ぶりだよね?」
その声には、とげも角もない。ただ、記憶のようにすっと沁みる。そう言って、紗夜は千鶴の隣にしゃがみ込む。膝を折る仕草さえ丁寧で、衣擦れの音ひとつがやけに静かに響いた。
ルナに手を伸ばして、優しく撫でる。その指の動き一つとっても、自然に“絵”になってしまう。細くて白い指。整った横顔。どこを切り取っても、完璧だった。
“この子を殺さなきゃいけない”――その言葉が、喉の奥に重くのしかかる。思考ではなく、本能的な重さ。胃のあたりがじわりと重く沈み、息が浅くなる。
「おにいちゃんと、最近仲悪い?」
無邪気な笑みだった。けれど、その笑みに込められたものが読めない。何も知らないように見せながら、すべて見透かしているようにも思える。どこまで知っていて、何を感じているのか――わからない。それが余計に怖かった。
千鶴は言葉を失った。喉が詰まり、声が出なかった。魔女としての任務が、頭のどこかで囁いてくる。
(今、この手で。今なら、やれる)
だって、目の前にいる。人目もない。魔法だって、確実に通る距離。手を伸ばせば、それだけで終わる。音もなく、苦しみもなく。すべては静かに処理できる。
でも。
蒼真の顔が、脳裏に浮かんだ。ついさっき、自分を踏みにじったあの人の顔。優しさも、残酷さも、無関心も、すべてを持ったあの瞳。その姿が、どうしても消えなかった。
(“あの人の大事な妹”を、あたしが今ここで……?)
指が、動かなかった。力が入らない。魔法の回路に火をともすはずの意志が、どこかで寸断されていた。理屈じゃなく、何かが――“拒んでいた”。
笑っている紗夜の横顔を見つめながら、千鶴はただ、指先をルナの毛に滑らせ続けた。静かで、やわらかくて、温かい感触。それだけが現実だった。
紗夜は、ルナの頭を撫でながら、何気ない調子で言った。
「……お兄ちゃんのこと、好きなの?」
その瞬間、千鶴の心臓が、びくんと跳ねた。胸の奥で何かが小さく破裂して、肺に詰まっていた空気が一気に薄くなる。反射的に顔を上げる。
けれど紗夜は、ただ柔らかく微笑んでいた。ほんの少しだけ首をかしげて。
その笑みには悪意も裏も見えない――なのに、どこか“深すぎる静けさ”があった。まるで湖の底に沈んでいる何かを、そのまま隠し持ったまま揺れもしない鏡面。
「べ、別に……そんなこと、ない……」
すぐに否定しようとした言葉が、口の中でつっかえた。
(“ない”って……言い切れる? 本当に?)
昨日の距離。今日の言葉。そして、今も胸の奥に残る痛み。
あの言葉が突き刺さったのは、ただ傷つけられたからじゃない。
それを言った人の言葉だったから。
蒼真という“たった一人”の言葉が。
それはただの任務じゃない。ただの好奇心でもない。
それが“恋”なのかどうかは、まだ自分でもわからない。
でも――“違う”とも、もう言い切れなかった。
千鶴が黙り込むと、紗夜はゆっくりと立ち上がった。夜風がすそを揺らし、淡く髪をなびかせる。
その動作さえ静かで、まるで何も問わなかったかのような自然さだった。
「そっか。……うん、なんとなく、そうかなって思っただけ」
それだけ言って、紗夜は歩き出す。
ルナが名残惜しそうに、小さく鳴いた。その音に、紗夜は微笑みを落としたまま、千鶴の方を振り返らない。
その背中が、夜の闇に溶けていく。
けれど――完全に見えなくなる、ほんの少し前。
彼女はふと、足を止めた。風が止まり、世界が一瞬、息を潜める。
そして、夜気に溶けるような声で、こう呟いた。
「――邪魔しないでね、ベルーナ」
その名前を口にした声音は、どこまでも優しかった。
まるで子守唄でもささやくように、柔らかく、あたたかく、やさしい響きだった。
けれど、言葉の意味を理解した瞬間――
心臓が、冷水に沈められたみたいに、一気に冷えた。
『ベルーナ』
紗夜が、確かにそう言った。
この世界で、その名を知るはずのないはずの少女が。
千鶴としても、魔女としても――口に出したことのない“本当の名前”を。
(――なんで)
(……どうして、その名前を――)
頭の奥が、音もなく真っ白になる。
考えるより先に、恐怖が、冷たい毒のように静かに体内をめぐっていく。
まるで、どこかで命を握られていたことに今さら気づいたかのように。
紗夜は振り返らない。
ただ、背を向けたまま、柔らかく笑っている――そんな気配がする。
言葉は優しい。声もやさしい。けれど、背中から滲み出るそれは、間違いなく“圧”だった。
やさしくて、怖い。
何もしていないのに、心の奥まで見透かされたような感覚。
まるで、こちらが“人間である”と信じていたものを、向こうが“魔女である”と知っていた……それだけの“当然のこと”として。
紗夜はそのまま、ゆっくりと歩き去っていった。
夜の闇に溶けるように、音もなく。空気さえ、彼女の影を伝えきれずにいた。
千鶴は、ルナの毛を撫でることもできず、背に置いたまま、まだ震える自分の手をじっと見下ろしていた。
(あの子は……いったい、なに?)
◇◇
その夜、千鶴はほとんど眠れなかった。
「――邪魔しないでね、ベルーナ」
あの声が、何度も何度も頭の中に反響する。
眠りに落ちかけても、そのささやきが追いかけてくる。
耳の奥に、あのときと同じ冷たい風が吹き込むような錯覚すらあった。
どうして、魔女名を知っているのか。
どうして、笑って言えるのか。
どうして、あの目で、あの言葉を口にしたのか。
千鶴は、ベッドの上で身体を丸めた。布団の中に隠れても、背筋の冷えは消えなかった。
魔界からの監視。任務の監督。どんな小さな“ミス”であっても、それは即座に失態として扱われる。
魔女の世界では、「知られたこと」はすなわち、「終わり」を意味する。
(報告……できない。こんなの、知られたら――)
その瞬間、何をされるか、想像もつかなかった。
報告すること自体が、処分の引き金になる気がした。
魔女としての命が、無音で消される気配すら、どこかに漂っていた。
たったひとつ、確かなことがあるとすれば――
この世界で、自分は完全に、ひとりぼっちだということだった。