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 あの猫を、触れるようになってしまった。


 自分でも信じられない。

 あれほど避けていた存在なのに、

 今では気がつけば、そっと手を伸ばしている。


 最初は指先だけだったのに、

 今では背中をなでることも、

 膝に乗せてじっとしていることすら、できるようになった。


 心臓が跳ねるような恐怖も、

 毛先に触れたときのぞわりとした違和感も――

 いつの間にか、消えていた。


 信じられない。


 あんなに怖がっていたのに、今は――

 その毛のやわらかさや、

 のどを鳴らすときの微かな振動が、

 妙に落ち着くことすらある。


 息を吸うたびに、静かに胸が整っていくような感覚。

 猫のぬくもりが、空気の温度を変えていく。


 しかも、それを見ていた蒼真が――

 ふと、目を細めて微笑むのだ。


「だいぶ慣れてきたね、田嶋さん。……仲良しじゃん」


 その言い方が、優しくて。

 皮肉もからかいもない、心からの“よかったね”がそこにあった。


 思わず、自然に笑ってしまいそうになる。


 こんなふうに笑うのは、いったいどれくらいぶりだろう。

 その笑顔が誰にも向けられていないことに、ふと気づいて――

 なおさら、それがあたたかかった。


 それに、蒼真と猫の話をするのが、ちょっとした日課になっていた。


「名前、ないんですか? この子」

「うん、前に何度か考えようとしたんだけど、なんとなく付けそびれたままで」

「じゃあ、私がつけたら、変ですか?」

「変じゃないよ。田嶋さんに懐いてるし、ぴったりかも」


 交わされる声はどれも低くて柔らかく、

 音の端がほんのりと丸く、空気に溶けていく。


 会話の端に、柔らかい空気が流れる。


 目の前で毛づくろいをする猫の背中。

 あたたかな手触りと、ごろごろと鳴る振動。

 そのどれもが、心をほんの少しだけ、ほどいていく。


 まるで、任務のことを忘れそうになるくらい――

 あたたかくて、穏やかな時間だった。


 けれど。


 でも――忘れちゃいけない。


(あたしは、あの子を殺すために来た)


 その“あの子”は、蒼真が心から大切にしている存在。

 誰よりも大切にしていて、守ろうとしている少女。

 今、自分に見せているこの穏やかな笑みを――

 ずっとずっと昔から独り占めしていた相手。


 猫を撫でながら、そっと視線を上げる。


 すると、蒼真がすぐ隣で笑っていた。


 出会った時とも違う。

 紗夜に向けるときとも違う。

 どこか、自分にしか向けられていないような――温かい笑み。


 それだけで、胸がきゅっと縮こまる。


(……こんなに近づいてしまったら、どうすればいいの?)


 猫のぬくもりが、手のひらに染み込んでくる。

 それが、逆に罪悪感をあおる。


 好きになってはいけない。

 触れてはいけない。


 でも――


 どうしても、あたたかいものに惹かれてしまう。


◇◇


 人間界に降りて、潜入生活を始めてから――すでに二週間が過ぎていた。


 クリニックの仕事にも、少しずつ慣れ始めていた。

 分厚い書類の扱い方、患者への応対、日々の雑務――

 最初は戸惑いばかりだった動作が、次第に身体に馴染んでいく。


 猫を通して、蒼真との距離も、ほんのわずかに近づいた気がしていた。


 無表情だった彼が、ふと笑うようになり、

 言葉の端々にやわらかさが宿るようになって――

 それに胸を熱くする自分にも、気づきはじめていた。


 笑うことも増えた。


 胸の奥のこわばりが、ほんの少しほどけていくような日々。

 まるで、ここで“生きている”ことに、ちゃんと意味があるような――

 そんな錯覚さえ、していた。


 ――そんな錯覚を、容赦なく断ち切る出来事が起こったのは、その夜のことだった。


 スタッフ用の洗面所。

 静まり返った夜、誰もいないその場所で、

 ベルーナはタオルを取ろうと、鏡の前に立っていた。


 顔を洗い、滴る水を手で払って。

 いつもと同じ動作、同じ光景――のはずだった。


 その瞬間。


 鏡の奥が、“ざわり”と不自然に揺れた。


 水の中に何かが沈んだときのような、

 静かでいて、確かな“揺らぎ”。


 壁に取り付けられた蛍光灯の反射ではない。

 空調の風でもない。

 鏡面の奥――世界の向こう側から、何かが、こちらを見ているような気配。


 目を凝らす。

 呼吸が一瞬、止まる。


 そして――


 その隣に、“見覚えのある姿”が映った。


 紫のローブを纏った女。


 揺れる鏡の中に現れたその姿は、現実の空気と断絶されたまま、

 まるで闇から浮かび上がった幻のように、静かにそこに立っていた。


 女は、魔女界の上位にいる一人――

 ベルーナにこの任務を下した、冷酷な使者だった。


 その身を包む紫の布地は、魔素が織り込まれた特別な装束。

 色の深さが、彼女の権威と冷たさを物語っていた。


「まだ殺せてないの? ……愚図で、のろまなベルーナ」


 その声音は鏡の向こうにしか存在しない。

 実際の空間には響かないのに、

 なぜか胸の奥にはずしん、と重く響いた。


 かつて何度も、命令と侮蔑の入り混じったその声にさらされてきた。

 けれど、こうしてまた耳にすると、逃れられない冷気が背筋を這い上がってくる。


「進めてます……ただ、状況がまだ……」


 言いながら、自分の声がどこか震えているのを感じた。

 言い訳ではない。状況の報告のつもりだった――

 なのに、その言葉は相手に届く前から否定されると分かっていた。


「言い訳はいらない」


 女の瞳が、鏡の奥で鋭く光る。

 紫紺のローブの奥から覗くその瞳は、

 温度を持たない氷のようなまなざしだった。


「私たちが欲しいのは“結果”だけ。

 あなたは“処分”のために送り込まれたの。

 それすら果たせないのなら――」


 そこで言葉を切って、にこりと笑った。


 唇だけがわずかに持ち上がるその笑みには、慈悲のかけらもなかった。

 それは“未来が存在しない者”に向ける、確信に満ちた告別の表情だった。


「次の候補に交代させるまで。

 あなたよりも忠実で、容赦のない魔女は、いくらでもいるのだから」


 心臓を冷たい手で掴まれたようだった。


 胸の内側から、ぐっと力を込められたような圧迫感。

 呼吸のリズムが崩れ、わずかな酸素すら奪われる。


 ――次があるとは限らない。


 それは言い換えれば、

 失敗すればその場で、“処分される側”に回るということ。


 自分が次の瞬間には“不要”と見なされる恐怖。

 その現実が、ひたり、と体温を奪っていく。


「……わかってます。必ず、やります」


 ようやく絞り出したその言葉は、喉の奥で一度つかえた。

 けれど口にした瞬間、それは確かな“契約”になった。


 女は、満足したように微笑み――静かに、姿を消した。


 まるで最初から存在していなかったかのように、

 鏡の中からその気配がふっと消える。


 残されたのは、ただの鏡だった。


 けれど、そこに映る“自分の顔”は――


 さっきまで猫を撫でて笑っていた少女ではなく、

 “命令に従う魔女”の顔をしていた。


 目の奥に宿った冷たさ。

 口元に残った緊張の線。

 そして何より、“揺らぎ”を許さない決意の色。


(……遊びに来たんじゃない。これは、任務)


 鏡の中で、誰もいないはずの自分が――

 自分に、そう告げていた。


◇◇


 ――あれから、紗夜とはまともに話せていなかった。


 同じ屋根の下にいながら、言葉を交わすこともなく、

 まるで別の世界に住んでいるかのような距離感。


 顔を合わせたのは、数えるほど。


 けれど、そのどれもが、ほんの一瞬だった。


 ふとしたタイミングで、廊下ですれ違っても――

 紗夜は決まって、静かに微笑むだけ。

 その笑みはあまりにも整っていて、

 触れようとすればすぐに崩れてしまいそうな、完璧な仮面だった。


 そして、次の瞬間には必ず、診察室の奥へと姿を消す。

 その背中を、ベルーナはただ見送るしかなかった。


 あるいは、住居スペースの奥。


 扉の向こうにあるその空間には、

 まるで透明な結界でも張られているかのような閉鎖感があった。


 一歩踏み込むことさえ、できなかった。


(このままじゃ、何もできない……)


 胸の奥で、焦りがじりじりと広がっていく。


 皮膚の内側を炙るように、熱く、鈍く、形のない焦燥が膨らんでいく。

 そして耳の奥には、あの鏡越しの冷たい声が、今も残響のように響いていた。


 ――次があるとは限らない。

 ――処分されるのは、紗夜じゃなく自分かもしれない。


 まるで刃のように、背中に突きつけられたまま。

 見えない冷たい手が、逃げ場のない現実を突きつけ続けていた。


 今日も、紗夜は姿を見せなかった。


 朝から姿を見たのは、ほんの一瞬。

 気配のようにすり抜けていくその存在は、

 まるで“関わるな”という無言の警告のようでもあった。


 午前の診察が終わり、

 蒼真がソファでコーヒーを手に、束の間の休憩を取っていたとき――


 思わず、その言葉が口をついて出た。


「……あの、紗夜さんって、いつもあんな感じなんですか?」


 声に出した瞬間、しまった、と思った。

 不自然な切り出し。

 自分の声が、思っていたよりも少し尖っていた気がした。


「“あんな感じ”?」


 蒼真がコーヒーカップを口元に運びながら、

 顔は動かさず、目だけをこちらに向けた。


 静かで、慎重な視線。

 その眼差しが、言葉の意図を測ろうとしているのが分かる。


「いえ、なんというか……いつも部屋に引っ込んでばかりで、

 あまり……人と話さないというか」


 言葉を重ねるほど、無理に取り繕おうとして、かえって棘を帯びてしまう。

 自分でも、やってしまったと思った。

 取り返しのつかない感覚が、舌の奥に苦く残る。


 けれど、口に出した以上、戻れなかった。


 蒼真は、カップをそっとソーサーに戻した。

 カチリという音が、室内の静けさに小さく響く。

 ほんの少しだけ間を置いて――

 いつもの柔らかい声で答えた。


「紗夜は……無理に人と関わるタイプじゃないんです。

 ああ見えて、人付き合いは苦手で。

 でも、無理に気を遣わせるわけにもいかないから」


 その声音は、穏やかだった。

 責めるでも、突き放すでもなく、

 けれど一線を引いた“守る者”としての語り方だった。


(しまった……)


 声には出さず、心の中でそう呟く。


 ほんの少しでも、彼の気を緩ませたかった。

 きっかけが欲しかっただけなのに――

 逆に、踏み込んでしまったのかもしれない。


 言葉が放たれた直後の沈黙。

 それがすべてを物語っていた。


 ――けれど。


 それでも、知りたかった。


 彼女が、何者なのか。

 本当に“殺すべき存在”なのか。

 ――それとも、ただの少女なのか。


 聞いてはいけない。

 任務としても、人としても――

 けれど、気づけば心が口より先に動いていた。


 千鶴は、もう一歩踏み込んでしまった。


「でも……少し、過保護じゃないですか?」


 その瞬間、空気が変わった。


 部屋に満ちていた柔らかな温度が、ふっと冷える。

 目には見えない温度差が、皮膚を刺すようにひややかになる。


 蒼真の瞳から、すっと熱が引いていく。


 その変化は、言葉よりも先に千鶴の肌に届いた。

 表情は変わらない。

 微笑みの線はまだ残っている。


 けれど――


 目の奥には、一片のやさしさもなかった。


 それは人に向ける眼差しではなく、

 境界を越えた者を見下ろす冷静な視線だった。


「――君には、関係ないだろ」


 その言葉は、まっすぐ突き刺さった。


 皮膚を破る痛みではなく、

 心の奥の、柔らかく守っていた部分を貫いてくるような鋭さだった。


 冗談でも、やさしい否定でもない。


 それは冷たく、正確で、

 迷いのない“拒絶”だった。


「あ、の…」


 かすれた声が、唇の間からこぼれかけたとき――


「……そういう風に、

 人の心に興味本位で踏み込んでくるやつが――」


 言葉が、音になって落ちた瞬間、

 千鶴の心臓が、ひとつ止まったような気がした。


 鼓動が一拍遅れた感覚。

 耳の奥で、時間が歪む。


「――一番、嫌いなんだよ。気持ち悪い」


 それは、完全な拒絶だった。


 口調に激しさはなかった。

 けれどその静けさが、かえって突き放す力を強くしていた。


 彼の中にある何かに――

 千鶴の言葉は、触れてはいけない場所にまで、踏み込んでしまったのだとわかった。


 背筋が冷たくなり、

 息をすることすら、ほんの一瞬ためらった。


 なにか言おうと、口が開いた。


 けれど――


 蒼真はそれを見ようともしなかった。


 視線を逸らすのではなく、

 まるでそこに千鶴という存在が最初からいなかったかのように、静かに身を起こした。


 そして、静かに立ち上がった。


 カップを片付け、無言で診察室へ向かう。まるで千鶴という存在が、最初からこの場にいなかったかのように。


 カチリ――扉が閉まり、鍵がかかる音だけが、背中に突き刺さった。


 しんと静まり返った空間に、ひとりだけが取り残される。耳の奥がじんじんと響いていた。蒼真の声はもうそこにはないのに、あの冷たい言葉だけが、繰り返し何度も思い出される。


『嫌い』『気持ち悪い』


 魔女の世界では、何度も言われてきた言葉だった。太っていることも、魔女らしからぬ醜い容姿なことも、感情が顔に出るところも、全部“気持ち悪い”と笑われた。


 それでも、あのときより――今のほうが、ずっと、痛かった。


 魔女としてではなく、一人の女として、一人の“自分”として、人間に、拒絶された。


 たったひと言が、こんなにも悲しいなんて、思ってもみなかった。


 唇を噛んだ。泣くものか、と思った。なのに――気づけば、視界が滲んでいた。


 ごまかすように背を向け、カウンターの影に腰を下ろす。足元のタイルの冷たさが、じわりと太ももを伝ってくる。


 静かに、静かに。声は出さず、目も閉じたまま、涙だけが頬を伝っていく。


 すすり泣くことも、嗚咽もなかった。ただ、堪えようとすればするほど、肩だけが小さく震えていた。


 誰にも、こんなところ見せたくなかった。





 ――その少し離れた場所。廊下の曲がり角、診察室とは反対側の陰に、一人の少女が、そっと立っていた。


 細い指が、ドアの縁を掴んでいる。白磁のような肌がわずかに浮かび、長い睫毛の奥、じっとこちらを見つめる瞳は、何も言わず、何も動かず――ただ、そこにあった。


 呼吸の気配さえ感じさせない静けさ。まるで、その存在だけが時を止めていた。


 それが、紗夜だったと気づいた者は、誰ひとりいなかった。


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