3
あの猫を、触れるようになってしまった。
自分でも信じられない。
あれほど避けていた存在なのに、
今では気がつけば、そっと手を伸ばしている。
最初は指先だけだったのに、
今では背中をなでることも、
膝に乗せてじっとしていることすら、できるようになった。
心臓が跳ねるような恐怖も、
毛先に触れたときのぞわりとした違和感も――
いつの間にか、消えていた。
信じられない。
あんなに怖がっていたのに、今は――
その毛のやわらかさや、
のどを鳴らすときの微かな振動が、
妙に落ち着くことすらある。
息を吸うたびに、静かに胸が整っていくような感覚。
猫のぬくもりが、空気の温度を変えていく。
しかも、それを見ていた蒼真が――
ふと、目を細めて微笑むのだ。
「だいぶ慣れてきたね、田嶋さん。……仲良しじゃん」
その言い方が、優しくて。
皮肉もからかいもない、心からの“よかったね”がそこにあった。
思わず、自然に笑ってしまいそうになる。
こんなふうに笑うのは、いったいどれくらいぶりだろう。
その笑顔が誰にも向けられていないことに、ふと気づいて――
なおさら、それがあたたかかった。
それに、蒼真と猫の話をするのが、ちょっとした日課になっていた。
「名前、ないんですか? この子」
「うん、前に何度か考えようとしたんだけど、なんとなく付けそびれたままで」
「じゃあ、私がつけたら、変ですか?」
「変じゃないよ。田嶋さんに懐いてるし、ぴったりかも」
交わされる声はどれも低くて柔らかく、
音の端がほんのりと丸く、空気に溶けていく。
会話の端に、柔らかい空気が流れる。
目の前で毛づくろいをする猫の背中。
あたたかな手触りと、ごろごろと鳴る振動。
そのどれもが、心をほんの少しだけ、ほどいていく。
まるで、任務のことを忘れそうになるくらい――
あたたかくて、穏やかな時間だった。
けれど。
でも――忘れちゃいけない。
(あたしは、あの子を殺すために来た)
その“あの子”は、蒼真が心から大切にしている存在。
誰よりも大切にしていて、守ろうとしている少女。
今、自分に見せているこの穏やかな笑みを――
ずっとずっと昔から独り占めしていた相手。
猫を撫でながら、そっと視線を上げる。
すると、蒼真がすぐ隣で笑っていた。
出会った時とも違う。
紗夜に向けるときとも違う。
どこか、自分にしか向けられていないような――温かい笑み。
それだけで、胸がきゅっと縮こまる。
(……こんなに近づいてしまったら、どうすればいいの?)
猫のぬくもりが、手のひらに染み込んでくる。
それが、逆に罪悪感をあおる。
好きになってはいけない。
触れてはいけない。
でも――
どうしても、あたたかいものに惹かれてしまう。
◇◇
人間界に降りて、潜入生活を始めてから――すでに二週間が過ぎていた。
クリニックの仕事にも、少しずつ慣れ始めていた。
分厚い書類の扱い方、患者への応対、日々の雑務――
最初は戸惑いばかりだった動作が、次第に身体に馴染んでいく。
猫を通して、蒼真との距離も、ほんのわずかに近づいた気がしていた。
無表情だった彼が、ふと笑うようになり、
言葉の端々にやわらかさが宿るようになって――
それに胸を熱くする自分にも、気づきはじめていた。
笑うことも増えた。
胸の奥のこわばりが、ほんの少しほどけていくような日々。
まるで、ここで“生きている”ことに、ちゃんと意味があるような――
そんな錯覚さえ、していた。
――そんな錯覚を、容赦なく断ち切る出来事が起こったのは、その夜のことだった。
スタッフ用の洗面所。
静まり返った夜、誰もいないその場所で、
ベルーナはタオルを取ろうと、鏡の前に立っていた。
顔を洗い、滴る水を手で払って。
いつもと同じ動作、同じ光景――のはずだった。
その瞬間。
鏡の奥が、“ざわり”と不自然に揺れた。
水の中に何かが沈んだときのような、
静かでいて、確かな“揺らぎ”。
壁に取り付けられた蛍光灯の反射ではない。
空調の風でもない。
鏡面の奥――世界の向こう側から、何かが、こちらを見ているような気配。
目を凝らす。
呼吸が一瞬、止まる。
そして――
その隣に、“見覚えのある姿”が映った。
紫のローブを纏った女。
揺れる鏡の中に現れたその姿は、現実の空気と断絶されたまま、
まるで闇から浮かび上がった幻のように、静かにそこに立っていた。
女は、魔女界の上位にいる一人――
ベルーナにこの任務を下した、冷酷な使者だった。
その身を包む紫の布地は、魔素が織り込まれた特別な装束。
色の深さが、彼女の権威と冷たさを物語っていた。
「まだ殺せてないの? ……愚図で、のろまなベルーナ」
その声音は鏡の向こうにしか存在しない。
実際の空間には響かないのに、
なぜか胸の奥にはずしん、と重く響いた。
かつて何度も、命令と侮蔑の入り混じったその声にさらされてきた。
けれど、こうしてまた耳にすると、逃れられない冷気が背筋を這い上がってくる。
「進めてます……ただ、状況がまだ……」
言いながら、自分の声がどこか震えているのを感じた。
言い訳ではない。状況の報告のつもりだった――
なのに、その言葉は相手に届く前から否定されると分かっていた。
「言い訳はいらない」
女の瞳が、鏡の奥で鋭く光る。
紫紺のローブの奥から覗くその瞳は、
温度を持たない氷のようなまなざしだった。
「私たちが欲しいのは“結果”だけ。
あなたは“処分”のために送り込まれたの。
それすら果たせないのなら――」
そこで言葉を切って、にこりと笑った。
唇だけがわずかに持ち上がるその笑みには、慈悲のかけらもなかった。
それは“未来が存在しない者”に向ける、確信に満ちた告別の表情だった。
「次の候補に交代させるまで。
あなたよりも忠実で、容赦のない魔女は、いくらでもいるのだから」
心臓を冷たい手で掴まれたようだった。
胸の内側から、ぐっと力を込められたような圧迫感。
呼吸のリズムが崩れ、わずかな酸素すら奪われる。
――次があるとは限らない。
それは言い換えれば、
失敗すればその場で、“処分される側”に回るということ。
自分が次の瞬間には“不要”と見なされる恐怖。
その現実が、ひたり、と体温を奪っていく。
「……わかってます。必ず、やります」
ようやく絞り出したその言葉は、喉の奥で一度つかえた。
けれど口にした瞬間、それは確かな“契約”になった。
女は、満足したように微笑み――静かに、姿を消した。
まるで最初から存在していなかったかのように、
鏡の中からその気配がふっと消える。
残されたのは、ただの鏡だった。
けれど、そこに映る“自分の顔”は――
さっきまで猫を撫でて笑っていた少女ではなく、
“命令に従う魔女”の顔をしていた。
目の奥に宿った冷たさ。
口元に残った緊張の線。
そして何より、“揺らぎ”を許さない決意の色。
(……遊びに来たんじゃない。これは、任務)
鏡の中で、誰もいないはずの自分が――
自分に、そう告げていた。
◇◇
――あれから、紗夜とはまともに話せていなかった。
同じ屋根の下にいながら、言葉を交わすこともなく、
まるで別の世界に住んでいるかのような距離感。
顔を合わせたのは、数えるほど。
けれど、そのどれもが、ほんの一瞬だった。
ふとしたタイミングで、廊下ですれ違っても――
紗夜は決まって、静かに微笑むだけ。
その笑みはあまりにも整っていて、
触れようとすればすぐに崩れてしまいそうな、完璧な仮面だった。
そして、次の瞬間には必ず、診察室の奥へと姿を消す。
その背中を、ベルーナはただ見送るしかなかった。
あるいは、住居スペースの奥。
扉の向こうにあるその空間には、
まるで透明な結界でも張られているかのような閉鎖感があった。
一歩踏み込むことさえ、できなかった。
(このままじゃ、何もできない……)
胸の奥で、焦りがじりじりと広がっていく。
皮膚の内側を炙るように、熱く、鈍く、形のない焦燥が膨らんでいく。
そして耳の奥には、あの鏡越しの冷たい声が、今も残響のように響いていた。
――次があるとは限らない。
――処分されるのは、紗夜じゃなく自分かもしれない。
まるで刃のように、背中に突きつけられたまま。
見えない冷たい手が、逃げ場のない現実を突きつけ続けていた。
今日も、紗夜は姿を見せなかった。
朝から姿を見たのは、ほんの一瞬。
気配のようにすり抜けていくその存在は、
まるで“関わるな”という無言の警告のようでもあった。
午前の診察が終わり、
蒼真がソファでコーヒーを手に、束の間の休憩を取っていたとき――
思わず、その言葉が口をついて出た。
「……あの、紗夜さんって、いつもあんな感じなんですか?」
声に出した瞬間、しまった、と思った。
不自然な切り出し。
自分の声が、思っていたよりも少し尖っていた気がした。
「“あんな感じ”?」
蒼真がコーヒーカップを口元に運びながら、
顔は動かさず、目だけをこちらに向けた。
静かで、慎重な視線。
その眼差しが、言葉の意図を測ろうとしているのが分かる。
「いえ、なんというか……いつも部屋に引っ込んでばかりで、
あまり……人と話さないというか」
言葉を重ねるほど、無理に取り繕おうとして、かえって棘を帯びてしまう。
自分でも、やってしまったと思った。
取り返しのつかない感覚が、舌の奥に苦く残る。
けれど、口に出した以上、戻れなかった。
蒼真は、カップをそっとソーサーに戻した。
カチリという音が、室内の静けさに小さく響く。
ほんの少しだけ間を置いて――
いつもの柔らかい声で答えた。
「紗夜は……無理に人と関わるタイプじゃないんです。
ああ見えて、人付き合いは苦手で。
でも、無理に気を遣わせるわけにもいかないから」
その声音は、穏やかだった。
責めるでも、突き放すでもなく、
けれど一線を引いた“守る者”としての語り方だった。
(しまった……)
声には出さず、心の中でそう呟く。
ほんの少しでも、彼の気を緩ませたかった。
きっかけが欲しかっただけなのに――
逆に、踏み込んでしまったのかもしれない。
言葉が放たれた直後の沈黙。
それがすべてを物語っていた。
――けれど。
それでも、知りたかった。
彼女が、何者なのか。
本当に“殺すべき存在”なのか。
――それとも、ただの少女なのか。
聞いてはいけない。
任務としても、人としても――
けれど、気づけば心が口より先に動いていた。
千鶴は、もう一歩踏み込んでしまった。
「でも……少し、過保護じゃないですか?」
その瞬間、空気が変わった。
部屋に満ちていた柔らかな温度が、ふっと冷える。
目には見えない温度差が、皮膚を刺すようにひややかになる。
蒼真の瞳から、すっと熱が引いていく。
その変化は、言葉よりも先に千鶴の肌に届いた。
表情は変わらない。
微笑みの線はまだ残っている。
けれど――
目の奥には、一片のやさしさもなかった。
それは人に向ける眼差しではなく、
境界を越えた者を見下ろす冷静な視線だった。
「――君には、関係ないだろ」
その言葉は、まっすぐ突き刺さった。
皮膚を破る痛みではなく、
心の奥の、柔らかく守っていた部分を貫いてくるような鋭さだった。
冗談でも、やさしい否定でもない。
それは冷たく、正確で、
迷いのない“拒絶”だった。
「あ、の…」
かすれた声が、唇の間からこぼれかけたとき――
「……そういう風に、
人の心に興味本位で踏み込んでくるやつが――」
言葉が、音になって落ちた瞬間、
千鶴の心臓が、ひとつ止まったような気がした。
鼓動が一拍遅れた感覚。
耳の奥で、時間が歪む。
「――一番、嫌いなんだよ。気持ち悪い」
それは、完全な拒絶だった。
口調に激しさはなかった。
けれどその静けさが、かえって突き放す力を強くしていた。
彼の中にある何かに――
千鶴の言葉は、触れてはいけない場所にまで、踏み込んでしまったのだとわかった。
背筋が冷たくなり、
息をすることすら、ほんの一瞬ためらった。
なにか言おうと、口が開いた。
けれど――
蒼真はそれを見ようともしなかった。
視線を逸らすのではなく、
まるでそこに千鶴という存在が最初からいなかったかのように、静かに身を起こした。
そして、静かに立ち上がった。
カップを片付け、無言で診察室へ向かう。まるで千鶴という存在が、最初からこの場にいなかったかのように。
カチリ――扉が閉まり、鍵がかかる音だけが、背中に突き刺さった。
しんと静まり返った空間に、ひとりだけが取り残される。耳の奥がじんじんと響いていた。蒼真の声はもうそこにはないのに、あの冷たい言葉だけが、繰り返し何度も思い出される。
『嫌い』『気持ち悪い』
魔女の世界では、何度も言われてきた言葉だった。太っていることも、魔女らしからぬ醜い容姿なことも、感情が顔に出るところも、全部“気持ち悪い”と笑われた。
それでも、あのときより――今のほうが、ずっと、痛かった。
魔女としてではなく、一人の女として、一人の“自分”として、人間に、拒絶された。
たったひと言が、こんなにも悲しいなんて、思ってもみなかった。
唇を噛んだ。泣くものか、と思った。なのに――気づけば、視界が滲んでいた。
ごまかすように背を向け、カウンターの影に腰を下ろす。足元のタイルの冷たさが、じわりと太ももを伝ってくる。
静かに、静かに。声は出さず、目も閉じたまま、涙だけが頬を伝っていく。
すすり泣くことも、嗚咽もなかった。ただ、堪えようとすればするほど、肩だけが小さく震えていた。
誰にも、こんなところ見せたくなかった。
――その少し離れた場所。廊下の曲がり角、診察室とは反対側の陰に、一人の少女が、そっと立っていた。
細い指が、ドアの縁を掴んでいる。白磁のような肌がわずかに浮かび、長い睫毛の奥、じっとこちらを見つめる瞳は、何も言わず、何も動かず――ただ、そこにあった。
呼吸の気配さえ感じさせない静けさ。まるで、その存在だけが時を止めていた。
それが、紗夜だったと気づいた者は、誰ひとりいなかった。