2
数日が経った。
住み込みの助手としての仕事は、思っていたよりも単調だった。
受付で患者の名前を記入し、案内をして、書類の整理をして。
掃除、洗濯、備品の補充。たまに電話を取るくらい。
診察や治療の場面には関わらないし、患者の個人情報にも深く触れないようにされている。
蒼真は徹底していた。
こちらに余計なことは言わず、やるべき仕事だけをきちんと振ってくる。
まるで、“必要最低限の信頼”しか寄せていないような距離感だった。
紗夜は、というと――
日中はほとんど姿を見せない。
たまにクリニックに来ることはあるが、基本的には住居側で過ごしているらしい。
住居とクリニックは、建物としてはつながっているけれど、
扉で明確に区切られていた。
軽く覗くようなこともできない。
それをしようとすれば、“侵入者”として疑われる雰囲気が漂っている。
(この空気、最初から分かってたつもりだったけど……)
千鶴――いや、ベルーナは小さくため息をついた。
そして一番の問題は――
紗夜が、まるで“普通の女の子”にしか見えないことだった。
日がな一日ぼんやりと過ごし、控えめに会話し、
ときどきお兄ちゃんを探してふらりと顔を出してくる。
その姿に、殺すべき“異質な存在”の影は見えなかった。
(殺す……って、どうやって?)
近づこうにも、あの子は常に“王子様の庇護下”にいる。
クリニックにいるときでさえ、蒼真の視線はさりげなく妹の動向を追っている。
“守っている”というより、“彼女のすべてを見ている”ような感覚。
何よりも、ふたりは同じ部屋で寝ているようだった。
偶然耳にしたのは、紗夜の口からこぼれた言葉だった。
「……昨日、お兄ちゃん寝る前に読んでくれた本、すごく綺麗な話だったんだよ」
どこまでが比喩で、どこまでが現実なのか分からない。
でも、ベルーナには直感的に分かった。
あのふたりの間には、踏み込めない空間がある。
――そこに、魔女が入り込む隙なんて、どこにもなかった。
◇◇
「この書類、ファイル整理しておいてください」
蒼真は、今日も変わらず淡々としていた。
言葉遣いは丁寧。
けれど、目は一度も合わない。
視線は書類か空間の一点に留まり、こちらを正面から見ることは決してなかった。
指示は最小限。
雑談もなければ、ねぎらいの言葉もない。
まるで、“いてもいなくても変わらない存在”と接するように、
蒼真は千鶴に向き合っていた。
その態度に、千鶴――ベルーナは、もう慣れていた。
最初は戸惑い、困惑し、傷つきかけたこともあった。
でも今では、感情を押し込める術も覚えた。
慣れてはいた――
けれど、たまにちくりとくるのは、きっと気のせいじゃない。
無言でファイルを受け取った、そのときだった。
クリニックの奥の扉が、かすかに開いた。
「お兄ちゃん……」
紗夜の声だった。
かすかにかすれた声。
寝起きなのか、それとも体調が悪いのか――その声色だけで、儚さが伝わってくる。
蒼真はすぐに反応した。
それまで硬かった目元が、ふっと和らぐ。
目の表情が変わった。温度が宿った。
まるで光が差し込んだように、その横顔がやわらかく変化する。
「紗夜。どうしたの?寝起きかな?」
穏やかな声。
優しさがにじむ、けれどそれは決して演技ではなかった。
本当に彼の中から自然にあふれたもの――そう思わせる声音だった。
彼はすぐに立ち上がる。
その手には、無意識に触れるような優しさがあった。
肩に手を添えて、そっと覗き込むように顔を合わせる。
まるで、壊れ物に触れるように。
息をするたびに壊れてしまいそうな存在を、抱きとめるように。
「……うん。少し頭が痛いかも」
「じゃあ、少し横になろう。部屋に戻ろうか」
紗夜がふにゃ、と微笑んで頷くと、
蒼真は彼女の背に手を添えたまま、
そのまま静かに、扉の奥へと消えていった。
残された空間。
淡い香りと沈黙だけが残る中で、千鶴はひとり、静かに息をついた。
(……あたしのときと、全然違うじゃん……)
思わず、心の中で呟いた。
当然だ。
兄妹なんだから。
血が繋がってる。
大事にしてる。
そういう、当たり前の関係性。
でも――
あの柔らかさを、誰かから向けられる日が自分に来るなんて……
想像もつかなかった。
わかってる。
最初から、その場所には立てないって知ってた。
それでも――
その距離感が、どうしようもなく胸に残っていた。
目に見えない境界線。
踏み越えてはいけない、優しさの居場所。
◇◇
その日の午後は、診察の合間に少しだけ時間が空いた。
ちょうどファイル整理が一段落し、
蒼真はコーヒーを片手にソファに腰を下ろしていた。
白衣の袖を少しだけまくり、背もたれに軽く体重を預ける姿は、やっぱりどこか隙がなくて、絵になった。
(……今なら、聞けるかも)
殺すべきかどうか。
それを判断するには、もっと彼女の情報がいる。
“魔女界にとっての危険因子”というだけで、本当に手を下していい相手なのか。
殺さないといけない、そうしないと自分はあの世界で生きていけないかもしれない。
それはわかっていたが、ベルーナはどうしても命令だけで殺すことができなかった。
殺すべき相手なのか、それを見極めるには――この兄の話を、まず聞くしかない。
千鶴は、資料の整理を続けるふりをしながら、
なるべく自然な声色で口を開いた。
「……あの、少し聞いてもいいですか?」
蒼真が視線を向けてきた。
やはり、温度の低い目だ。
けれど今日は、それがほんの少しだけ“柔らかく”見えたのは、気のせいだろうか。
「どうぞ」
「紗夜さんって、あまり外に出られないんですか?」
その一言に、蒼真のまなざしがわずかに変わった。
口調も、少しだけ柔らかくなった気がした。
「……そうですね。外の空気に触れると、体調を崩しやすくて。
もともとあまり強い子じゃないんです」
千鶴は頷きながら、さらに問いを重ねる。
「小さい頃から、ですか?」
「はい。親がいなくなってからは、特に……」
言葉が一瞬、濁った。
けれどすぐに、蒼真はその表情を整える。
「……僕しかいませんから。
あの子にとって、僕が“世界の全部”みたいなものなんです」
笑っていた。
けれどその笑みには、少しだけ影が差していた。
(本気なんだ、この人)
守っているとか、気を遣っているとか、そういう表面的なものじゃない。
この人の中で、あの子は“命”に近いものなんだ。
それを知った瞬間、
千鶴の胸の奥が、少しだけ熱を持った。
◇◇
それから数日、同じ屋根の下で仕事を続けていると、少しずつ空気が変わっていった。
日々の業務は淡々と流れ、
診療の準備、資料の整理、患者の対応――
変わらないルーティンのはずなのに、
ほんのわずかな空気の質感が、確かに変化していた。
蒼真の態度は、最初ほど機械的ではなくなっていた。
動作のひとつひとつに宿る硬さが、少しだけ解けている。
目の奥にあった無表情の膜が、ほんのわずかに薄くなったような気がした。
冷たさはそのままだけれど、
まるでガラス越しに射し込む陽の光のように、
ときおり、その冷たさの奥に柔らかさが揺らぐ瞬間があった。
千鶴が紗夜の話をするときだけ、
少しだけ――ほんの少しだけ、口調がやわらかくなる。
「そういえば、紗夜さんって花が好きなんですね。部屋の窓辺に……」
「うん。あの子、外には出られないからさ。
せめて部屋の中には季節を感じられるものを、って思ってて」
その声は、最初の数日間には決して使われなかった、くだけた応答だった。
妹に話すときのような、自然で、あたたかな語り口。
意識していないときにだけこぼれる、やわらかな声の調子。
言葉そのものよりも、その“話し方”が、何よりも心に残った。
(……この声、ずるい)
耳に入った瞬間、胸の奥にぽっ、と火が灯るような感覚。
暖かいのに、痛い。
まるで雪の中に差し込んだ陽射しみたいで――
それが自分のものではないことに気づくと、どうしようもなく空しくなる。
そして、それが“あたし”に向けられていないことが、妙に寂しかった。
◇◇
その日の午後、千鶴はクリニックの外に出て、
建物の裏手に回って掃除をしていた。
木造風の壁が影を落とす裏側は、表とは打って変わって人の気配がなく、
風の音と、ほうきのかすかな擦過音だけが響いていた。
外壁沿いは、思った以上に埃や落ち葉がたまっていた。
雨に濡れて乾いたあと、土と混ざったような匂いが立ちこめ、
かすかに靴底にぬめりが残る。
人目が届かない分、空気もよどんでいて、昼間なのに薄暗い。
背の高い草が、ゆらり、と風に揺れるたび、
かさかさという細い音が耳元をかすめ、
小さな影が足元を横切るたびに、心臓が跳ねる。
(何よこれ……誰かと一緒にやるもんじゃないの?)
ほうきを握る手に力を込めながら、
ぶつぶつと文句をこぼす。
けれど足を止めることはせず、黙々と掃き進めていた――そのときだった。
――ザッ、と草むらが揺れた。
「……っ!?」
瞬間、千鶴はびくりと身を固くした。
喉の奥で息が詰まる。
視線が思わず動き、手が止まる。
その直後、小さな影が、ぴょこん、とブロック塀の上に跳ね上がる。
全身が灰色がかった毛で覆われた、細身の猫だった。
体はほっそりとしていて、目だけがやけに大きい。
塀の上でぴたりと動きを止めると、
その瞳が、まっすぐに、千鶴を射抜く。
目が合った。
動かない。
逃げもしない。
ただ、じっと、まっすぐに、こちらを見ていた。
(……や、やだ……)
乾いた風が首元をかすめる。
その直後、汗が、首筋を伝う。
肌に触れた汗は、ぬるく、嫌に存在感があった。
それは熱さでも、疲労でもなく――明らかに“警戒”の汗だった。
猫。
――魔女にとって、象徴のような存在。
艶やかな毛並み、澄んだ瞳、気まぐれで神秘的なふるまい。
多くの魔女がその存在を傍に置き、相棒のように語る。
けれど、千鶴はどうしても、あれが苦手だった。
小さい頃から、猫に懐かれたことがなかった。
他の魔女の足元には自然と寄ってくるのに、自分のそばには決して近づかない。
毛を逆立てて逃げていく背中を、何度見送ったか分からない。
「猫に嫌われる魔女なんて聞いたことない」
そう言って笑われた記憶が、今でもはっきりと胸の奥に残っている。
見た目も、性格も、そして猫にさえも受け入れられない自分。
その劣等感が、どうしても消えなかった。
(……こんなことでビビってたら笑われるって、わかってるけど……)
何度も言い聞かせた。
これはただの猫。牙もない、ただの動物。
けれど――こわいものはこわい。
猫は動かない。
塀の上にぴたりと座ったまま、
まるで何かを見透かすように、じっとこちらを見ている。
その瞳は感情を持たず、ただそこに在るだけ。
だからこそ怖い。
心の奥の何かを、静かに見抜かれてしまう気がする。
ブロック塀の上から、降りてくる気配もない。
それなのに、逃げるわけでもなく、ただそこに“在る”ことが、圧力になっていた。
「……そっち、行って……ほら、あっち、行きなってば……っ」
小さく震える声が、空気を震わせた。
意識しないうちに喉が詰まり、語尾がかすれる。
声が震えた。
足もすくんで、動けない。
泣くな、と自分に言い聞かせても――
瞼の奥が、じんわりと熱くなってくる。
涙なんて似合わないと、ずっと思ってきた。
誰かの前で見せるようなものじゃないと、自分に言い聞かせてきた。
いつもなら、一人でなんとかやり過ごしてきた。
誰にも見せず、誰にも頼らず。
“魔女らしく”ない弱さは、いつだって、ひとりで飲み込んできた。
でも今、この猫は――
全然、どいてくれない。
何分も経っているのに、塀の上から一歩も動かず、
ただ静かに、こちらを見下ろしてくる。
その無言の視線が、まるで心の奥を押し潰してくるようだった。
泣くな。絶対泣くな。
魔女が猫にビビってどうすんの。
何度も、何度も、心の中で自分に命じる。
言葉にすればするほど、かえって脆さが浮き彫りになっていく。
頭ではわかってるのに――心が勝手に、ぐらぐらと揺れる。
涙が、じんわりと目の奥に滲んでくる。
瞬きをすれば、こぼれそうな感覚がある。
何もしていないのに、身体だけが緊張し続けて震えていた。
そのときだった。
「どうしたの、そんな端っこで――……ああ」
声の方を振り向くと、蒼真が立っていた。
光の向こうから現れたその姿は、どこか現実感がなく、
無防備な心を見透かされたような気がして、
ベルーナの体が反射的に一瞬こわばる。
すっと近づいてきて、猫のいる塀を見上げる。
その動きには一切の迷いがなく、
まるで何度もここに来たことがあるような自然さだった。
「また君か、最近ここに居着いちゃったんだね」
そう言って、蒼真は何のためらいもなく、猫を抱き上げた。
驚くほど、自然に。
猫の身体が軽々と彼の腕に収まり、何の抵抗も見せなかった。
その腕の動きは、まるで赤ん坊でも扱うように――やさしく、丁寧に。
指先に迷いがなく、手のひらに痛みがない。
そこには“慣れている”ということ以上に、心からの余裕があった。
「よしよし、こっち行こうね」
猫はまるで最初からそうすることが決まっていたかのように、抵抗することもなく、彼の腕にすっぽりと収まっていた。
その様子を、千鶴は目を丸くしたまま、ぽかんと見つめてしまう。
(……え、あの猫、こんなにおとなしいの?)
ついさっきまで、あんなに威圧感を放っていた存在が、
今は子猫のようにおとなしく、彼の胸の中でまどろんでいる。
その柔らかさも、扱い方も――
どこまでも、“王子様”だった。
猫の毛をそっと撫でる手。
力の入らない、やわらかな声。
どこにも無理がなくて、見ているだけで胸の奥が熱を持つような温度。
蒼真はふとこちらを見て、少しだけ微笑んだ。
「触ってみる? 大丈夫。噛んだりしないよ、この子」
その笑みは押しつけがましくなく、距離を詰めようともしない、
ただ“そこにいること”を許してくれるような穏やかさだった。
「……あ、あたし、猫……苦手で……」
千鶴は思わず、視線を逸らしながら答えた。
言葉がつっかえ、喉に残る。
「苦手?」
蒼真が首を傾ける。
問いかけは軽やかだったが、責める調子ではない。
「小さい頃、ひっかかれて。それで……ま、体大きいくせに、って、よくからかわれてた」
“魔女”と言いかけて、慌てて言い直す。
喉の奥で言葉がつまずいた瞬間、
心臓が一度きゅっと縮む。
なんで今、こんなことを言ってしまったんだろう。
誰にも言ったことないような、自分の“弱さ”を――
こんな形で、こんなふうに。
自分でも、何でこんなこと言ったんだろうと思った。
誰かに、そんな弱さを見せるつもりなんて、なかったのに。
でも――
蒼真は笑いもせず、ただ穏やかに言った。
「……そっか。でも、この子は大丈夫だよ」
蒼真の声は、陽だまりのようにやわらかかった。
そう言いながら、彼は猫をそっと、こちらに差し出した。
その手には押しつけがましさはなく、
まるで壊れやすい宝物を託すような、慎重なやさしさがあった。
千鶴の手が、ほんの少しだけ震える。
手のひらにじんわりと汗がにじみ、
鼓動が耳の奥でどくん、と鳴る。
(だ、大丈夫……っ、たぶん、だいじょ――)
自分に言い聞かせながら、恐る恐る、
猫の背中に指を置いた。
あたたかかった。
驚くほど、あたたかくて――
そして、柔らかかった。
毛並みはしっとりと整っていて、指先にふんわりとまとわりつく。
その静けさが、息をのむほどやさしくて。
「……わ」
思わず、声がこぼれた。
猫が目を細める。
そして、ゴロゴロと、小さな音を喉の奥で鳴らした。
胸の奥が、くすぐったいようにじんわりとあたたかくなる。
それは恐怖の記憶を、そっと上書きしていくような音だった。
「ね、大丈夫でしょ?」
蒼真の声が、耳元にやわらかく響く。
音量は小さいのに、なぜか胸に残る不思議な響き方をする声だった。
千鶴が思わずうつむいたとき、
彼がふっと笑って――
何気ない声で言った。
「……見かけによらず、かわいいところもあるんだね」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。
音としては聞こえていた。
けれど、それが自分に向けられた言葉だと認識するまでに、
数秒の間が必要だった。
千鶴はぽかんと蒼真の顔を見つめたまま、
反射のように、思わず口が動いていた。
「……猫の……こと、ですか?」
自分の声なのに、まるで誰か別の人が喋っているように上ずっていた。
軽く、でも深く、心の奥をくすぐられたような気持ち。
戸惑い、動揺、それにほんの少しの――期待。
返事を期待していたわけじゃない。
けれど、何も言わずにはいられなかった。
沈黙のままでは、胸の奥が張り裂けてしまいそうだった。
蒼真は、ほんの少しだけ肩をすくめて――
柔らかく、答える。
「田嶋さんだよ」
その一言に、胸の奥がきゅうっとなった。
まっすぐでも、特別な口調でもない。
ただ名前を呼ばれただけなのに、
まるで心のどこか深くに触れられたような感覚。
けれど、言葉の余韻に浸る暇もなく――
彼はすぐに、ひとつ息をついて、ふと手を伸ばした。
「……ほら、涙目」
言うが早いか、
蒼真の指先が、そっと千鶴の頬に触れた。
触れるというより、“置く”ように。
力はまったく入っていないのに、
その指先には、はっきりと存在感があった。
指の腹で、控えめに、でも確かに――
こぼれかけた涙の跡を、
まるで何か大切なものを扱うかのように、やさしくなぞる。
その仕草があまりにも自然で、
そして――“やさしすぎて”。
千鶴は、一気に顔が熱を帯びていくのを感じた。
頬に触れた指先は、思っていたよりもあたたかくて、
体温より少し高いその熱が、じんわりと皮膚に溶けていく。
そこに触れられた場所から、体の奥が火照っていく。
じわり、と、胸の奥に広がる熱。
理屈ではない感覚が、言葉よりも早く身体を支配する。
心臓が跳ねるように高鳴って、
ほんの少し息を吸うだけで、
胸がくすぐったくてたまらなかった。
(……だめだ、これ、なんか、変な感じ)
そんなふうに思っていた矢先だった。
「……ごめん。紗夜にするみたいに接しちゃった」
その名前が出た瞬間――
小さな雷のような衝撃が、胸の奥を鋭く貫いた。
紗夜。
あの子の名前。
今日、優しく笑ってくれた少女。
――そして、殺さなければならない“対象”。
耳に届いた音は柔らかかったはずなのに、
その名前だけが鋭利な刃になって、
ほんの少し浮かびかけていた、あたたかい気持ちを一瞬ですべて凍らせていった。
(……そうだ。私は、あの子を……)
その実感が、冷たい手で後頭部を掴むようにして、現実へと引き戻した。
これは夢じゃない。
これは童話じゃない。
あたしは、お姫様になれるような存在じゃない。
やさしい王子様に微笑まれて、救われる物語の登場人物じゃない。
この家に来た理由――
それは、優しい手を握られるためでも、
誰かに「かわいい」って言ってもらうためでもなかった。
(任務だよ、これ。……忘れるな)
胸の中に、凍るような言葉がゆっくりと沈んでいく。
その重みが、確かに“自分”を取り戻させた。
蒼真の指が、自分の頬に触れていた余韻だけが、
まだ、消えてくれなかった。