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 数日が経った。


 住み込みの助手としての仕事は、思っていたよりも単調だった。

 受付で患者の名前を記入し、案内をして、書類の整理をして。

 掃除、洗濯、備品の補充。たまに電話を取るくらい。

 診察や治療の場面には関わらないし、患者の個人情報にも深く触れないようにされている。


 蒼真は徹底していた。

 こちらに余計なことは言わず、やるべき仕事だけをきちんと振ってくる。

 まるで、“必要最低限の信頼”しか寄せていないような距離感だった。


 紗夜は、というと――

 日中はほとんど姿を見せない。

 たまにクリニックに来ることはあるが、基本的には住居側で過ごしているらしい。


 住居とクリニックは、建物としてはつながっているけれど、

 扉で明確に区切られていた。

 軽く覗くようなこともできない。

 それをしようとすれば、“侵入者”として疑われる雰囲気が漂っている。


(この空気、最初から分かってたつもりだったけど……)


 千鶴――いや、ベルーナは小さくため息をついた。


 そして一番の問題は――

 紗夜が、まるで“普通の女の子”にしか見えないことだった。


 日がな一日ぼんやりと過ごし、控えめに会話し、

 ときどきお兄ちゃんを探してふらりと顔を出してくる。

 その姿に、殺すべき“異質な存在”の影は見えなかった。


(殺す……って、どうやって?)


 近づこうにも、あの子は常に“王子様の庇護下”にいる。

 クリニックにいるときでさえ、蒼真の視線はさりげなく妹の動向を追っている。

 “守っている”というより、“彼女のすべてを見ている”ような感覚。


 何よりも、ふたりは同じ部屋で寝ているようだった。

 偶然耳にしたのは、紗夜の口からこぼれた言葉だった。

「……昨日、お兄ちゃん寝る前に読んでくれた本、すごく綺麗な話だったんだよ」

 どこまでが比喩で、どこまでが現実なのか分からない。

 でも、ベルーナには直感的に分かった。

 あのふたりの間には、踏み込めない空間がある。


 ――そこに、魔女が入り込む隙なんて、どこにもなかった。


◇◇


「この書類、ファイル整理しておいてください」


 蒼真は、今日も変わらず淡々としていた。


 言葉遣いは丁寧。

 けれど、目は一度も合わない。

 視線は書類か空間の一点に留まり、こちらを正面から見ることは決してなかった。


 指示は最小限。

 雑談もなければ、ねぎらいの言葉もない。

 まるで、“いてもいなくても変わらない存在”と接するように、

 蒼真は千鶴に向き合っていた。


 その態度に、千鶴――ベルーナは、もう慣れていた。

 最初は戸惑い、困惑し、傷つきかけたこともあった。

 でも今では、感情を押し込める術も覚えた。


 慣れてはいた――

 けれど、たまにちくりとくるのは、きっと気のせいじゃない。


 無言でファイルを受け取った、そのときだった。


 クリニックの奥の扉が、かすかに開いた。


「お兄ちゃん……」


 紗夜の声だった。


 かすかにかすれた声。

 寝起きなのか、それとも体調が悪いのか――その声色だけで、儚さが伝わってくる。


 蒼真はすぐに反応した。


 それまで硬かった目元が、ふっと和らぐ。

 目の表情が変わった。温度が宿った。

 まるで光が差し込んだように、その横顔がやわらかく変化する。


「紗夜。どうしたの?寝起きかな?」


 穏やかな声。

 優しさがにじむ、けれどそれは決して演技ではなかった。

 本当に彼の中から自然にあふれたもの――そう思わせる声音だった。


 彼はすぐに立ち上がる。

 その手には、無意識に触れるような優しさがあった。


 肩に手を添えて、そっと覗き込むように顔を合わせる。

 まるで、壊れ物に触れるように。

 息をするたびに壊れてしまいそうな存在を、抱きとめるように。


「……うん。少し頭が痛いかも」

「じゃあ、少し横になろう。部屋に戻ろうか」


 紗夜がふにゃ、と微笑んで頷くと、

 蒼真は彼女の背に手を添えたまま、

 そのまま静かに、扉の奥へと消えていった。


 残された空間。

 淡い香りと沈黙だけが残る中で、千鶴はひとり、静かに息をついた。


(……あたしのときと、全然違うじゃん……)


 思わず、心の中で呟いた。


 当然だ。

 兄妹なんだから。

 血が繋がってる。

 大事にしてる。

 そういう、当たり前の関係性。


 でも――


 あの柔らかさを、誰かから向けられる日が自分に来るなんて……

 想像もつかなかった。


 わかってる。

 最初から、その場所には立てないって知ってた。

 それでも――

 その距離感が、どうしようもなく胸に残っていた。


 目に見えない境界線。

 踏み越えてはいけない、優しさの居場所。


◇◇


 その日の午後は、診察の合間に少しだけ時間が空いた。

 ちょうどファイル整理が一段落し、

 蒼真はコーヒーを片手にソファに腰を下ろしていた。

 白衣の袖を少しだけまくり、背もたれに軽く体重を預ける姿は、やっぱりどこか隙がなくて、絵になった。


(……今なら、聞けるかも)


 殺すべきかどうか。

 それを判断するには、もっと彼女の情報がいる。

 “魔女界にとっての危険因子”というだけで、本当に手を下していい相手なのか。

 殺さないといけない、そうしないと自分はあの世界で生きていけないかもしれない。

 それはわかっていたが、ベルーナはどうしても命令だけで殺すことができなかった。


 殺すべき相手なのか、それを見極めるには――この兄の話を、まず聞くしかない。


 千鶴は、資料の整理を続けるふりをしながら、

 なるべく自然な声色で口を開いた。


「……あの、少し聞いてもいいですか?」


 蒼真が視線を向けてきた。

 やはり、温度の低い目だ。

 けれど今日は、それがほんの少しだけ“柔らかく”見えたのは、気のせいだろうか。


「どうぞ」

「紗夜さんって、あまり外に出られないんですか?」


 その一言に、蒼真のまなざしがわずかに変わった。

 口調も、少しだけ柔らかくなった気がした。


「……そうですね。外の空気に触れると、体調を崩しやすくて。

 もともとあまり強い子じゃないんです」


 千鶴は頷きながら、さらに問いを重ねる。


「小さい頃から、ですか?」

「はい。親がいなくなってからは、特に……」


 言葉が一瞬、濁った。

 けれどすぐに、蒼真はその表情を整える。


「……僕しかいませんから。

 あの子にとって、僕が“世界の全部”みたいなものなんです」


 笑っていた。

 けれどその笑みには、少しだけ影が差していた。

 (本気なんだ、この人)

 守っているとか、気を遣っているとか、そういう表面的なものじゃない。

 この人の中で、あの子は“命”に近いものなんだ。


 それを知った瞬間、

 千鶴の胸の奥が、少しだけ熱を持った。


◇◇


 それから数日、同じ屋根の下で仕事を続けていると、少しずつ空気が変わっていった。


 日々の業務は淡々と流れ、

 診療の準備、資料の整理、患者の対応――

 変わらないルーティンのはずなのに、

 ほんのわずかな空気の質感が、確かに変化していた。


 蒼真の態度は、最初ほど機械的ではなくなっていた。


 動作のひとつひとつに宿る硬さが、少しだけ解けている。

 目の奥にあった無表情の膜が、ほんのわずかに薄くなったような気がした。


 冷たさはそのままだけれど、

 まるでガラス越しに射し込む陽の光のように、

 ときおり、その冷たさの奥に柔らかさが揺らぐ瞬間があった。


 千鶴が紗夜の話をするときだけ、

 少しだけ――ほんの少しだけ、口調がやわらかくなる。


「そういえば、紗夜さんって花が好きなんですね。部屋の窓辺に……」

「うん。あの子、外には出られないからさ。

 せめて部屋の中には季節を感じられるものを、って思ってて」


 その声は、最初の数日間には決して使われなかった、くだけた応答だった。


 妹に話すときのような、自然で、あたたかな語り口。

 意識していないときにだけこぼれる、やわらかな声の調子。

 言葉そのものよりも、その“話し方”が、何よりも心に残った。


 (……この声、ずるい)


 耳に入った瞬間、胸の奥にぽっ、と火が灯るような感覚。

 暖かいのに、痛い。

 まるで雪の中に差し込んだ陽射しみたいで――

 それが自分のものではないことに気づくと、どうしようもなく空しくなる。


 そして、それが“あたし”に向けられていないことが、妙に寂しかった。


◇◇


 その日の午後、千鶴はクリニックの外に出て、

 建物の裏手に回って掃除をしていた。


 木造風の壁が影を落とす裏側は、表とは打って変わって人の気配がなく、

 風の音と、ほうきのかすかな擦過音だけが響いていた。


 外壁沿いは、思った以上に埃や落ち葉がたまっていた。

 雨に濡れて乾いたあと、土と混ざったような匂いが立ちこめ、

 かすかに靴底にぬめりが残る。

 人目が届かない分、空気もよどんでいて、昼間なのに薄暗い。


 背の高い草が、ゆらり、と風に揺れるたび、

 かさかさという細い音が耳元をかすめ、

 小さな影が足元を横切るたびに、心臓が跳ねる。


(何よこれ……誰かと一緒にやるもんじゃないの?)


 ほうきを握る手に力を込めながら、

 ぶつぶつと文句をこぼす。

 けれど足を止めることはせず、黙々と掃き進めていた――そのときだった。


 ――ザッ、と草むらが揺れた。


「……っ!?」


 瞬間、千鶴はびくりと身を固くした。

 喉の奥で息が詰まる。

 視線が思わず動き、手が止まる。


 その直後、小さな影が、ぴょこん、とブロック塀の上に跳ね上がる。


 全身が灰色がかった毛で覆われた、細身の猫だった。

 体はほっそりとしていて、目だけがやけに大きい。

 塀の上でぴたりと動きを止めると、

 その瞳が、まっすぐに、千鶴を射抜く。


 目が合った。


 動かない。

 逃げもしない。

 ただ、じっと、まっすぐに、こちらを見ていた。


(……や、やだ……)


 乾いた風が首元をかすめる。

 その直後、汗が、首筋を伝う。


 肌に触れた汗は、ぬるく、嫌に存在感があった。

 それは熱さでも、疲労でもなく――明らかに“警戒”の汗だった。


 猫。

 ――魔女にとって、象徴のような存在。


 艶やかな毛並み、澄んだ瞳、気まぐれで神秘的なふるまい。

 多くの魔女がその存在を傍に置き、相棒のように語る。

 けれど、千鶴はどうしても、あれが苦手だった。


 小さい頃から、猫に懐かれたことがなかった。

 他の魔女の足元には自然と寄ってくるのに、自分のそばには決して近づかない。

 毛を逆立てて逃げていく背中を、何度見送ったか分からない。


 「猫に嫌われる魔女なんて聞いたことない」

 そう言って笑われた記憶が、今でもはっきりと胸の奥に残っている。


 見た目も、性格も、そして猫にさえも受け入れられない自分。

 その劣等感が、どうしても消えなかった。


 (……こんなことでビビってたら笑われるって、わかってるけど……)


 何度も言い聞かせた。

 これはただの猫。牙もない、ただの動物。

 けれど――こわいものはこわい。


 猫は動かない。

 塀の上にぴたりと座ったまま、

 まるで何かを見透かすように、じっとこちらを見ている。


 その瞳は感情を持たず、ただそこに在るだけ。

 だからこそ怖い。

 心の奥の何かを、静かに見抜かれてしまう気がする。


 ブロック塀の上から、降りてくる気配もない。

 それなのに、逃げるわけでもなく、ただそこに“在る”ことが、圧力になっていた。


 「……そっち、行って……ほら、あっち、行きなってば……っ」


 小さく震える声が、空気を震わせた。

 意識しないうちに喉が詰まり、語尾がかすれる。


 声が震えた。

 足もすくんで、動けない。


 泣くな、と自分に言い聞かせても――

 瞼の奥が、じんわりと熱くなってくる。


 涙なんて似合わないと、ずっと思ってきた。

 誰かの前で見せるようなものじゃないと、自分に言い聞かせてきた。


 いつもなら、一人でなんとかやり過ごしてきた。

 誰にも見せず、誰にも頼らず。

 “魔女らしく”ない弱さは、いつだって、ひとりで飲み込んできた。


 でも今、この猫は――

 全然、どいてくれない。


 何分も経っているのに、塀の上から一歩も動かず、

 ただ静かに、こちらを見下ろしてくる。

 その無言の視線が、まるで心の奥を押し潰してくるようだった。


 泣くな。絶対泣くな。

 魔女が猫にビビってどうすんの。


 何度も、何度も、心の中で自分に命じる。

 言葉にすればするほど、かえって脆さが浮き彫りになっていく。

 頭ではわかってるのに――心が勝手に、ぐらぐらと揺れる。


 涙が、じんわりと目の奥に滲んでくる。

 瞬きをすれば、こぼれそうな感覚がある。

 何もしていないのに、身体だけが緊張し続けて震えていた。


 そのときだった。


「どうしたの、そんな端っこで――……ああ」


 声の方を振り向くと、蒼真が立っていた。


 光の向こうから現れたその姿は、どこか現実感がなく、

 無防備な心を見透かされたような気がして、

 ベルーナの体が反射的に一瞬こわばる。


 すっと近づいてきて、猫のいる塀を見上げる。


 その動きには一切の迷いがなく、

 まるで何度もここに来たことがあるような自然さだった。


「また君か、最近ここに居着いちゃったんだね」


 そう言って、蒼真は何のためらいもなく、猫を抱き上げた。


 驚くほど、自然に。

 猫の身体が軽々と彼の腕に収まり、何の抵抗も見せなかった。

 その腕の動きは、まるで赤ん坊でも扱うように――やさしく、丁寧に。


 指先に迷いがなく、手のひらに痛みがない。

 そこには“慣れている”ということ以上に、心からの余裕があった。


「よしよし、こっち行こうね」


 猫はまるで最初からそうすることが決まっていたかのように、抵抗することもなく、彼の腕にすっぽりと収まっていた。


 その様子を、千鶴は目を丸くしたまま、ぽかんと見つめてしまう。


(……え、あの猫、こんなにおとなしいの?)


 ついさっきまで、あんなに威圧感を放っていた存在が、

 今は子猫のようにおとなしく、彼の胸の中でまどろんでいる。


 その柔らかさも、扱い方も――

 どこまでも、“王子様”だった。


 猫の毛をそっと撫でる手。

 力の入らない、やわらかな声。

 どこにも無理がなくて、見ているだけで胸の奥が熱を持つような温度。


 蒼真はふとこちらを見て、少しだけ微笑んだ。


「触ってみる? 大丈夫。噛んだりしないよ、この子」


 その笑みは押しつけがましくなく、距離を詰めようともしない、

 ただ“そこにいること”を許してくれるような穏やかさだった。


「……あ、あたし、猫……苦手で……」


 千鶴は思わず、視線を逸らしながら答えた。

 言葉がつっかえ、喉に残る。


「苦手?」


 蒼真が首を傾ける。

 問いかけは軽やかだったが、責める調子ではない。


「小さい頃、ひっかかれて。それで……ま、体大きいくせに、って、よくからかわれてた」


 “魔女”と言いかけて、慌てて言い直す。


 喉の奥で言葉がつまずいた瞬間、

 心臓が一度きゅっと縮む。

 なんで今、こんなことを言ってしまったんだろう。

 誰にも言ったことないような、自分の“弱さ”を――

 こんな形で、こんなふうに。


 自分でも、何でこんなこと言ったんだろうと思った。

 誰かに、そんな弱さを見せるつもりなんて、なかったのに。


 でも――


 蒼真は笑いもせず、ただ穏やかに言った。


「……そっか。でも、この子は大丈夫だよ」


 蒼真の声は、陽だまりのようにやわらかかった。

 そう言いながら、彼は猫をそっと、こちらに差し出した。


 その手には押しつけがましさはなく、

 まるで壊れやすい宝物を託すような、慎重なやさしさがあった。


 千鶴の手が、ほんの少しだけ震える。


 手のひらにじんわりと汗がにじみ、

 鼓動が耳の奥でどくん、と鳴る。


(だ、大丈夫……っ、たぶん、だいじょ――)


 自分に言い聞かせながら、恐る恐る、

 猫の背中に指を置いた。


 あたたかかった。

 驚くほど、あたたかくて――

 そして、柔らかかった。


 毛並みはしっとりと整っていて、指先にふんわりとまとわりつく。

 その静けさが、息をのむほどやさしくて。


「……わ」


 思わず、声がこぼれた。

 猫が目を細める。

 そして、ゴロゴロと、小さな音を喉の奥で鳴らした。


 胸の奥が、くすぐったいようにじんわりとあたたかくなる。

 それは恐怖の記憶を、そっと上書きしていくような音だった。


「ね、大丈夫でしょ?」


 蒼真の声が、耳元にやわらかく響く。

 音量は小さいのに、なぜか胸に残る不思議な響き方をする声だった。


 千鶴が思わずうつむいたとき、

 彼がふっと笑って――


 何気ない声で言った。


「……見かけによらず、かわいいところもあるんだね」


 一瞬、何を言われたのか分からなかった。


 音としては聞こえていた。

 けれど、それが自分に向けられた言葉だと認識するまでに、

 数秒の間が必要だった。


 千鶴はぽかんと蒼真の顔を見つめたまま、

 反射のように、思わず口が動いていた。


「……猫の……こと、ですか?」


 自分の声なのに、まるで誰か別の人が喋っているように上ずっていた。


 軽く、でも深く、心の奥をくすぐられたような気持ち。

 戸惑い、動揺、それにほんの少しの――期待。


 返事を期待していたわけじゃない。

 けれど、何も言わずにはいられなかった。


 沈黙のままでは、胸の奥が張り裂けてしまいそうだった。


 蒼真は、ほんの少しだけ肩をすくめて――

 柔らかく、答える。


「田嶋さんだよ」


 その一言に、胸の奥がきゅうっとなった。


 まっすぐでも、特別な口調でもない。

 ただ名前を呼ばれただけなのに、

 まるで心のどこか深くに触れられたような感覚。


 けれど、言葉の余韻に浸る暇もなく――

 彼はすぐに、ひとつ息をついて、ふと手を伸ばした。


「……ほら、涙目」


 言うが早いか、

 蒼真の指先が、そっと千鶴の頬に触れた。


 触れるというより、“置く”ように。

 力はまったく入っていないのに、

 その指先には、はっきりと存在感があった。


 指の腹で、控えめに、でも確かに――

 こぼれかけた涙の跡を、

 まるで何か大切なものを扱うかのように、やさしくなぞる。


 その仕草があまりにも自然で、

 そして――“やさしすぎて”。


 千鶴は、一気に顔が熱を帯びていくのを感じた。


 頬に触れた指先は、思っていたよりもあたたかくて、

 体温より少し高いその熱が、じんわりと皮膚に溶けていく。


 そこに触れられた場所から、体の奥が火照っていく。


 じわり、と、胸の奥に広がる熱。

 理屈ではない感覚が、言葉よりも早く身体を支配する。


 心臓が跳ねるように高鳴って、

 ほんの少し息を吸うだけで、

 胸がくすぐったくてたまらなかった。


(……だめだ、これ、なんか、変な感じ)


 そんなふうに思っていた矢先だった。


「……ごめん。紗夜にするみたいに接しちゃった」


 その名前が出た瞬間――

 小さな雷のような衝撃が、胸の奥を鋭く貫いた。


 紗夜。


 あの子の名前。

 今日、優しく笑ってくれた少女。

 ――そして、殺さなければならない“対象”。


 耳に届いた音は柔らかかったはずなのに、

 その名前だけが鋭利な刃になって、

 ほんの少し浮かびかけていた、あたたかい気持ちを一瞬ですべて凍らせていった。


(……そうだ。私は、あの子を……)


 その実感が、冷たい手で後頭部を掴むようにして、現実へと引き戻した。


 これは夢じゃない。

 これは童話じゃない。


 あたしは、お姫様になれるような存在じゃない。

 やさしい王子様に微笑まれて、救われる物語の登場人物じゃない。


 この家に来た理由――

 それは、優しい手を握られるためでも、

 誰かに「かわいい」って言ってもらうためでもなかった。


(任務だよ、これ。……忘れるな)


 胸の中に、凍るような言葉がゆっくりと沈んでいく。

 その重みが、確かに“自分”を取り戻させた。

 蒼真の指が、自分の頬に触れていた余韻だけが、

 まだ、消えてくれなかった。

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