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――その建物は、童話の中の“お菓子の家”だった。


 人間界の空気には、まだ慣れない。

 肺に触れる空気は、魔素の混じらない純粋な酸素で、それがかえって不安を掻き立てる。清潔すぎて、どこか薄っぺらく、頼りない――そんな印象すら抱いてしまう。


 何度か降りたことはあっても、こうして“しばらく住む”前提で足を踏み入れるのは、今回が初めてだ。

 これまでは、必要最低限の仕事だけを済ませて、とんぼ返り。それが当たり前だった。

 余計な風景も、感情も、持ち帰らずに済むように。


 だけど今回は、住み込み。

 人間のふりをして、普通に暮らして、普通に働いて、そして……殺す。


 その矛盾だらけの任務を胸に抱えながら、ベルーナは、荷物の入ったカバンをぎゅっと握ったまま、指定された建物を見上げた。

 革の持ち手が手のひらに食い込み、汗ばんだ感触がじんわりと指先に残る。


 クリニック――そう呼ばれていたはずのその建物は、

 どう見ても“お菓子の家”にしか見えなかった。


 色とりどりの煉瓦壁は、ゼリービーンズを散りばめたように賑やかで、

 窓枠には飴細工を模したような白い縁取りが施されていた。

 そこから覗くガラスは、光を受けてきらきらと揺れ、どこか懐かしいおもちゃ箱のような印象を与える。


 丸みを帯びた屋根は、アイシングクッキーみたいに甘ったるくて、

 視線を上げるほどに、砂糖の香りが漂ってきそうな錯覚すら覚えた。

 玄関前にちょこんと並ぶ植木鉢には、濃淡さまざまな花が咲き誇り、風に揺れて、ささやくようにベルーナを迎えている。


 童話の中のワンシーンみたいだった。


 色も形も可愛らしく整えられた外観は、絵本からそのまま抜け出してきたようで、どこか現実味に欠けて見えた。

 童話の中の、二人の子供が迷い込んだ“あの家”――

 甘い匂いがしそうな、けれどどこか不気味で、何かを隠しているような空気が、建物全体を包んでいる。


 飴のような光沢を放つ壁面、角を丸く削られたドア、彩度の高い花々が揺れる玄関先――

 それらが発する色彩と形状は、確かに“可愛い”と呼ばれるものだった。

 でも、ベルーナの胸に広がるのは、妙な緊張とざらついた違和感だった。


 あたしは昔、童話が好きだった。

 寝る前に一人で声に出して読んだり、古びたページを何度もめくったり。

 そこには、王子様がいて、お姫様がいて、

 そして、悪い魔女が出てきて、

 最後にはやっつけられて、話は終わる。


 ……やっつけられる側が、自分だって気づいたときから、読まなくなった。


 ページを開くたびに、そこにいた“悪い魔女”が、自分と重なって見えてきたから。

 そのときの胸の重さと、言葉にならない寂しさは、今も心の片隅に棘のように残っている。


「こんな可愛い家、あたしが入っていいわけないじゃん……」


 口をついて出た声は、どこか呆れたような響きを帯びていた。

 けれどその奥で、胸の奥がきゅっと苦しくなった。


 自分は、この世界に似合わない。

 この場所にある“可愛さ”や“やさしさ”は、自分のような魔女には手の届かないものだ。


 可愛いものは、見るだけ。

 触れたら壊してしまいそうで、壊したら責められる。

 魔女は、物語の外側で笑われるだけの存在。

 最後には排除される役――それが自分。


 それでも――入らなきゃいけない。

 命令がある。

 役目がある。


 それを果たさないと、今度こそ。


 喉の奥に張りついた不安を、深く吸い込んだ空気で押し下げる。

 肺がきしむほど吸い込んで、鼻先にかすかな花の香りが届いた。

 ほんの一瞬、その甘い香りが、ベルーナの足を迷わせた。


 ――でも、止まってはいけない。


 ベルーナはもう一度、ゆっくりと深呼吸して、

 扉に向かって、足を踏み出した。


◇◇


 ベルーナはインターホンの前に立って、小さく息を吐いた。


 呼吸はすでに浅くなっていて、吐き出す息が思いのほか冷たく、唇の内側をかすめた。

 頬に当たる風が、人間界特有の乾いた匂いを運んでくる。アスファルトと花の混ざったような香りが、どこか人工的で、不思議と落ち着かない。


 人間界の機械には、もう多少の慣れがある。

 何度か降りた任務の中で、それなりに学んできた。

 これくらいの仕組みなら分かるし、押せば反応があることも知っていた。


 それでも――

 何かを“始める”ときの緊張は、いつだって同じだった。


 、ドアの向こうに広がる世界ごと、自分の指先で呼び出してしまうかのような怖さがあった。

 そしてそれが、自分の手で動かせてしまうことにも、どこか現実感が伴わなかった。


「……よし、押すよ……」


 小さく、誰にともなく呟く。

 その声には決意と不安が入り混じっていて、自分の耳にさえ頼りなく響いた。


 そっと、指先を伸ばしてボタンを押す。


 ぴんぽーん。

 軽やかすぎる音に、心臓が一度、跳ねた。

 それは、想像よりもずっと無防備で、あまりにも無邪気な音だった。


 こんなにも軽々しく、扉の向こうと“つながって”しまうのか――

 その現実に、ベルーナの手がわずかに震えた。


 すぐに、応答の声が返ってくる。


 『はい、どちら様ですか?』


 その声に、ベルーナの思考が一瞬だけ止まった。


 静かな声。澄んでいて、やわらかいけれど、どこか距離を感じさせる音の調子。

 、丁寧に研がれた薄い硝子のようだった。脆くはないのに、うっかり触れれば割れてしまいそうな、繊細さと静けさ。


 音として耳に届いたはずなのに、意味を理解するまでに、ほんのわずかな時間がかかった。

 思考の歯車が、一瞬空転したかのようだった。


 ――ああ、これが、これが彼の声なんだ。


 胸の内に言葉が落ちるまでの、わずかな数秒。

 その一瞬が、やけに長く、濃く、胸の奥を満たしていく。


 やわらかくて、静かで、まっすぐに響く。

 雑味がない。濁りもない。

 静かな水面に、一滴だけ落ちた雫のように、広がっていく音。


 人間の男の声は、今まで何度か聞いたことがある。

 店先のやり取り、すれ違いざまの怒声、雑踏の中のざらついた笑い――

 けれど、それらのどれとも違った。


 この声には、耳から入って心に届くまでの間に、ほんのわずかな温度があった。

 喉の奥に残る余韻が、ほんの一瞬、胸の中をふわりと撫でていった。


「……なに、これ……」


 ぽつりと漏れたその声には、呆れも皮肉もなかった。

 むしろ、無意識のまま口をついて出た、正直すぎる反応だった。


 自分でも分からない感覚。

 風に包まれたみたいな、一瞬のやさしさ。

 それに、ほんの少しだけ――戸惑った。


 けれど。


 その空気は、あっという間に霧散する。


 ――この声の主が、あの子の“兄”だ。

 これから潜入して、近づいて、

 そしてその妹を、殺さなければならない。


 その事実が、突き刺すように現実へ引き戻した。


 ベルーナは、ふっと表情を引き締めた。

 表面に浮かびかけた揺らぎを、凍った仮面の下に隠すように。


 命令は、明確だった。


 情など必要ない。

 揺れてはいけない。

 ここは、童話ではない。


 ベルーナの人間界での名義は――田嶋千鶴(たじまちづる)


 その名を持って、彼女はこの世界に紛れ込む。

 クリニックの住み込み助手として、人間社会の中に“自然に”入り込み、

 目立たず、怪しまれず、気配を消して日常に溶け込むこと。

 それが、任務の第一条件だった。


 対象の名は、“紗夜(さよ)”。


 直接的な魔力の使用は禁止。

 あくまで人間として、自然に処理すること。

 不自然な力の行使は、即座に監視網に感知され、

 その瞬間に“実行者”から“回収対象”へと立場が反転する。


 ――疑われた時点で、すべては終了。


 失敗すれば、帰る場所はなくなる。

 いや、“帰る”という概念そのものが、永遠に失われる。

 それでも、それを果たせば、ほんの僅かな可能性として――戻れるかもしれない。


 命の綱は、いつだって紙より細い。


「――田嶋千鶴です。今日から、お世話になります」


 ベルーナは、ほんの少しだけ作った声で応答した。


 柔らかく、礼儀正しく、でも印象に残らないように。

 自己紹介というよりも、“記号”を口にするような感覚だった。

 名前を語っているのに、それは自分自身のことではない。

 けれど、この“名前”で呼ばれ、この“声”で生きていかなければならない。


 気の抜けた、魔素の一滴も感じられないこの世界で、

 自分の声がやけに生々しく感じられた。


 音の輪郭がくっきりと耳に返り、空気の中に違和感のように漂う。

 この世界の“現実”に、声だけが浮いているようで――

 ベルーナは、不意に、喉の奥がきゅっと詰まるのを感じた。


 その違和感すらも、隠さなければならない。

 この世界では、すべてが“自然”でなければいけないから。


◇◇


 扉が、音もなく開いた。


 軋みも、軋音もない。

 空気そのものがそっと避けたように、極端な静けさの中で扉が横に滑った。

 その沈黙を切り裂くように、男が姿を現した。


 ――それが、有栖川蒼真ありすがわそうまだった。


 一瞬、呼吸が止まりそうになった。

 肺の奥にたまっていた空気が、吸うことも吐くこともできずに凍りつく。


 髪は淡い茶色。

 柔らかく、光を受けてさらりと揺れるその様は、陽だまりの中の絹糸だった。

 風もないのに、髪が静かに揺れて見えたのは、ただ彼の立ち姿そのものが絵画のように完成されていたからかもしれない。


 長すぎず、短すぎず、洗練されたシルエット。

 その髪が、身にまとった白衣の清潔さと見事に調和していた。

 無駄なものが何一つなく、削ぎ落とされたような美しさ。


 顔立ちは、彫刻のように整っていた。

 鋭さと柔らかさが共存するその顔には、人為の匂いがまったくなかった。

 細く通った鼻筋、端正な顎のライン、わずかに下唇が厚い整った口元――

 そのすべてが「美しさ」という語を借りても足りないほど、無機質で完璧だった。


 だが――

 何より、目。


 薄い茶の瞳が、静かにこちらを見ていた。


 その視線に、ベルーナの身体がほんのわずか、反応した。

 湖面に小石を投げ込んだように、胸の奥に波紋が広がる。


 笑っていた。

 たしかに、笑っていた。

 唇の端は穏やかに上がっていて、その表情だけを見れば、優しい人間のように見えただろう。


 けれど――

 その瞳の奥には、微塵も“あたたかさ”がなかった。


 ガラス越しに火のないランプを見るような、淡く、遠く、冷えきった光。

 感情が閉ざされたような、深い湖の底のような光がそこにあった。

 誰も踏み入れたことのない水底。

 静かで、美しくて――でも、どこまでも冷たくて、孤独だった。


(うそ……こんな人、ほんとにいるの?)


 思考がふわりと宙に浮いたようになり、ベルーナは思わず、自分の体勢を立て直した。

 胸のあたりが、よくわからない理由でそわそわと落ち着かない。

 こういうとき、魔素があれば、少しは身体を落ち着けることもできたはずなのに――この世界では、それもできない。


 今日のために選んだ、5センチヒールのブーツ。

 足首を覆う革は少し硬く、踵の芯がコツコツと石畳に響くたびに、少しだけ背筋を伸ばす気持ちになれる。

 それでも――彼の方が、少し高かった。


 180センチ近くはある。

 見上げる角度はほんのわずかでしかないのに、視界いっぱいにその存在が広がる。


 それなのに、立ち姿に威圧感がない。

 姿勢も、視線も、所作の一つ一つが静かで、どこまでも柔らかい。

 息を潜めた花のように、自己主張せずとも自然に惹かれてしまう何かがあった。


 ――

 絵本から抜け出してきた、“王子様”みたいだった。


 「……はじめまして。有栖川です。ああ……紹介、聞いていますよ」


 声が、やわらかく胸に届いた。

 響きに角がない。耳に触れても痛くない。微睡むときの子守唄のように、静かで穏やかで、整っていた。


 言葉も、声も、やさしい。


 けれど、そのやさしさは――

 、陽だまりのベンチに誰にでも平等に注ぐ太陽のようだった。


 温かいけれど、特別ではない。

 触れられそうで、決して触れられない。

 “誰にでも向けられる距離感”――

 そう思えた。


(あたしなんかに、向いてるわけないよね)


 胸の奥が、かすかにきしんだ。

 そんな感情、持つ資格もないのに。

 それでも、たしかに今――少しだけ、揺れてしまった。


 ベルーナは、ぎこちなく頭を下げる。


 動きは機械のように硬く、肩の力がうまく抜けない。

 深く下げすぎたかと不安になり、途中でわずかに角度を直す――そんな細かな動作のすべてに、緊張が滲んでいた。


 今日の服は、何時間も悩んで選んだ。

 鏡の前で何度も立ち位置を変えて、角度を変えて、ようやく決めた一式。

 黒のロングスカートに、グレーのカーディガン。

 落ち着いた色味で、体のラインをごまかせるように。

 派手すぎず、地味すぎず、控えめな“普通の女の子”に見えるように――精一杯、努力したはずだった。


 けれど、足元まで視線が下りた瞬間。


 彼の目が、ほんのわずかだけ動いたのを――ベルーナは見逃さなかった。


 瞬きの隙間ほどの短さ。

 誰も気づかないようなわずかな視線の揺れ。

 けれどそれは、鋭く胸に刺さった。


(……あ、やっぱ、でかいとか思った?)


 心臓が、どくん、と跳ねた。

 脳裏に浮かんだのは、何度も耳にした心ない言葉たち。

 “女の子っぽくない”

 “ちょっと太ってるよね”

 “魔女とは思えない顔だよね”


 嫌な予感に、胸の奥がざわついた。

 手のひらがじっとりと汗ばんでくるのを感じる。

 この場から逃げ出したくなるような、じわりとした羞恥と焦り。


 けれど――何も言われなかった。


 ただ静かに、一瞬の沈黙が流れただけ。


 風の音も、虫の声もない。

 扉と地面と空気だけが存在するような、音のない数秒。


「……入って、ください。長旅、お疲れさま」


 その一言が、波紋のように張り詰めた空気をほどいていった。

 柔らかく、けれどやはり遠い。

 その声に怒りも侮蔑も感じなかったけれど、同時に、ぬくもりがあったかと問われれば、わからなかった。


 扉の奥へと身を引く、蒼真。

 白衣の裾がふわりと揺れ、光の中で輪郭が溶けていく。


 ベルーナは、ゆっくりとひとつ、深呼吸をした。

 胸に詰まったものを吐き出すように。

 そして、緊張を指先に押し込むようにカバンの持ち手を強く握り直し――

 足を、一歩、踏み入れた。


 ここからが、物語の本当の始まり。


◇◇


 扉の奥に踏み込んだ瞬間、空気が変わった。


 ひやりとした外の空気とは異なり、内側には柔らかく均された温度が満ちていた。

 結界をくぐったような、不思議な隔たり。

 同じ“人間界”のはずなのに、そこには何か異質な静けさが漂っていた。


 そこは、別世界だった。


 白を基調にした内装は、ただの清潔感に留まらず、どこか“夢の中の医院”を思わせた。

 壁紙には淡い灰緑の蔦模様が繊細に描かれていて、時間を止めるかのように視線を引きつける。

 窓辺にかかるカーテンには、小さな刺繍がびっしりと施され、陽光を透かすたびにそれが微細な影を壁に落としていた。

 足元には、踏むたびに音を吸い込むような絨毯がふわりと敷かれており、歩くたびに心まで静かになっていく気がした。


 空気は澄んでいて、薬品のにおいすらほとんど感じない。

 代わりに、かすかに漂うのは乾いた木と紅茶のような、落ち着いた香り。

 どこか懐かしく、けれど見知らぬ感覚――

 “おとぎ話の中にある診療所”、そう形容したくなるような場所だった。


「こちらが受付と待合室です。朝はここで患者さんの対応をお願いします」


 隣に立つ蒼真が、淡々とした口調で説明を加える。


 言葉は簡潔で無駄がない。それでいて、どこか耳に残る。

 気品というより、抑制された優しさがその言葉の中に息づいていた。


 その横顔を、ベルーナは知らないうちにじっと見ていた。


 目は伏せがちで、睫毛の影が頬に柔らかく落ちている。

 淡い光が髪に反射して、金糸のようにきらめいて見えた。

 美しい、というより――完成されている、そんな印象。

 この空間の一部として“描かれている”ような、違和感のない存在感。


(……この人、ほんとに人間……?)


 そんな言葉が喉の奥でかすかに形をなしかけて、ベルーナはあわてて視線を逸らした。


(……ほんとに、“王子様”みたいだ……)


 思わず、そんな言葉が胸の奥で零れそうになる。

 無意識に口元が緩みかけて、慌てて引き結んだ。


 子供の頃、ひとりで読んだ絵本の中の登場人物たち――

 困っている人にそっと手を差し伸べる、優しくて、凛々しい王子様。

 騎士ではない、戦士でもない。

 強くあろうとしながらも、微笑みを忘れない“救う人”。


 今、その印象が、目の前の男――有栖川蒼真と、重なった。


 柔らかな光の中に立つその姿は、どこか現実離れしていて、

 この空間すべてが彼のためにあるようにすら思えてしまう。


 けれど。


 ベルーナは、はっとして視線を逸らした。


(――だめだ、なにぼーっとしてんの)


 心の奥で、冷静な誰かが叱るように呟いた。

 脳裏に冷たい霧が流れ込み、熱を帯びかけていた心が瞬時に冷えていく。


 目の前にいるのは――有栖川蒼真。


 見た目はやわらかく、物腰も丁寧で、話し方も優しい。

 だが、その優しさに寄りかかっていい理由なんて、どこにもない。


 これは任務だ。


 殺すために来た。

 今から、自分はこの人の“妹”を――紗夜という名の少女を――

 この家の中で暮らしながら、近づいて、そして、殺すために。


 これは任務。


 夢じゃない。

 童話の中じゃない。


 ベルーナは、自分にそう、何度も何度も言い聞かせる。

 口の中が乾き、喉の奥に冷たいものがこびりつくような感覚。

 それでも、胸の奥にはまだ、ほんのわずかな迷いが残っていた。


 なのに。


 「……すごく、きれいな場所ですね。、別の国みたい」


 思わず、そんな言葉が口をついて出た。

 それは用意していた台詞でも、計算された反応でもない。

 ただ、目の前に広がる世界があまりに美しくて、自然とこぼれてしまった。


 言葉を発した直後、ベルーナは小さく唇を噛んだ。

 ――不用意だった。

 けれどその言葉は、すでに空気に溶けて、蒼真の耳に届いてしまった。


 蒼真が、ゆっくりとこちらを振り向いた。


 その動作ひとつすら、余計な音を立てなかった。

 光の加減で、彼の髪がふわりと揺れる。

 やわらかく流れるようなその動きは、風に触れた絹のようだった。


 淡い茶色――

 染めたわけではない、生まれつき色素の薄い髪。

 目の色と同じく、やわらかく光を透かしていて、空気の中に溶け込むような透明感があった。

 その一筋一筋が、儚さという言葉を具現化していた。


 「そう言ってもらえると嬉しいです。少しでも、患者さんが安心できるようにと思って」


 穏やかな声。

 音量も抑えられ、言葉の端々まで優しさで包まれている。

 笑みもまた、やわらかい――絵に描いたような理想の対応。


 だけど――


 その瞳の奥に、ベルーナは気づいた。


 どこか遠くを見ているような静けさ。

 目の前の人間と対話しながら、同時にどこか遠くの景色に心を置いているような。

 それは閉じた扉のようでもあり、底の見えない深い湖のようでもあった。


 きっとこの人は、誰の心にも土足では踏み込まない。

 優しさという名のバリアを持って、人を包み込むことはあっても――

 誰にも自分の本当の気持ちを見せない。

 差し出される手は温かいのに、その奥には近づけない。


(……やっぱ、王子様なんて、現実にはいないんだよ)


 ふと、心の中で呟いた。


 童話じゃない。

 これは、現実。


 自分は魔女で、潜入者で、暗殺者。


 ここに“誰かに優しくされに来た”わけじゃない。

 誰かに見つけてもらうためでも、守ってもらうためでもない。

 任務を果たすために、ここにいる。


 なのに。


 ほんの一瞬――

 その声、その言葉、その空間に包まれて、

 あたたかいものに触れたような錯覚に、

 胸の奥がひどく痛んだ。


 触れてはいけないものに、触れてしまった。

 その後悔にも似た痛みが、静かに、けれど確かに、ベルーナの心にしみ込んでいった。


◇◇


 案内は、静かに続いた。


 足音が吸い込まれていくような、絨毯の廊下。

 響くのは、蒼真の低く落ち着いた声と、ベルーナの心臓の音だけ。

 空気が、どこまでも澄んでいる。

 それがかえって、言葉ひとつひとつを際立たせた。


 受付カウンター、資料棚、備品の位置。

 蒼真は一つひとつを丁寧に説明してくれる。

 声の抑揚に乱れはなく、話し方にも無駄がない。

 だが、その整いすぎた説明が、感情を排除した機械の音声のようで――それがまた、怖かった。


「患者さんの対応は、基本的にここでお願いします。診察はすべて僕が行います」


 言いながら、蒼真は白衣のポケットに手を入れたまま、ちら、とベルーナの顔を見た。


 その視線は、冷たくはなかった。

 むしろ、どこまでも静かで、淡々としていた。

 そして、次の言葉を、ごく自然に口にした。


「……まあ、君が受付に立っていて“安心するかどうか”は、正直分かりませんが」


 それは、予想もしなかった言葉だった。


 皮肉でも、悪意でもない。

 侮辱でも、嘲笑でもない。

 ただ、事実を述べただけというような、空気の温度が存在しない声音。


 乾いた一言が、何の前触れもなく胸の奥に突き刺さる。

 ベルーナの中で、何かがぴしりとひび割れた。


(……そういうの、慣れてるけどさ……)


 内心でそう呟く。


 魔女界では、もっと酷い言葉を何度も聞いてきた。

 「見た目が恐い」

 「魔女らしくない」

 「不快感がある」

 そのすべてが、冷たく、鋭く、容赦なかった。


 何度も聞いて、何度も飲み込んできた。

 喉の奥に引っかかるたびに、自分の中の何かを、少しずつ、削ってきた。


 だから今さら、こんなことで傷つくほど弱くはない――

 そう思いたかったのに。


「……それは光栄ですね。

 人に注目されるほどのオーラがあるってことですし」


 少しだけ口角を上げて、ベルーナはそう返した。


 笑ってみせたつもりだった。

 軽く、皮肉めいて。けれど、相手を責めないように――そんな微妙なバランスを保ちながら。

 だがその笑みが、どれほどぎこちなかったか、自分でもよく分からなかった。


 声が強がっていないか。

 妙に明るくなっていなかったか。

 胸の奥に溜まった硬いものを隠すようにして出したその言葉は、、よくできた仮面のようだった。


 蒼真は、驚いたようには見えなかった。


 その整った顔に、わずかな眉の動きすら浮かばない。

 、感情というものを一枚奥にしまっているような、静かな眼差し。


 「なるほど」


 ただ、それだけを呟いて、また次の説明に移る。


 言葉には反応があった。

 けれどそこに“気持ち”はなかった。

 その淡々とした返しは、会話の流れをなぞるためだけの音にすぎなかった。


 感情を見せないその姿が、逆に――


 ひどく、冷たく感じられた。


 壁のようだった。

 透き通っているのに、触れられない。

 、こちらの体温だけが宙に漂って、行き場を失っているようだった。


 「部屋はこちらです。スタッフ用の備え付けで、最低限のものはそろっています」


 蒼真はそう言って、廊下の奥の扉を開いた。


 そこは、病院の裏側にあたる小さな部屋だった。

 ベッドと机、簡素な棚。

 生活に必要な最低限の家具が並んでいるだけの、飾り気のない空間。


 窓がひとつあるけれど、カーテンは古びていて、光はぼんやりとしか差し込まない。

 空気もよく整っていたけれど、それでも“誰かのぬくもり”のようなものは、どこにも感じられなかった。


(ま、あたしにはちょうどいいでしょ)


 魔女としての任務。

 寝て、起きて、働いて、殺すだけ。

 そんな目的しかないこの生活に、過剰な快適さは必要ない。


 けれど、胸のどこかが微かにざわついていた。


 このクリニックには、蒼真ともうひとり――

 “妹”がいる。


 名前は紗夜。

 今は診療は受けていないけれど、ときどきここに顔を出す。

 家は、すぐ上。生活は完全に同居に近い。


(……本当にただの人間?)


 任務内容は、「人間を装って、自然に殺すこと」。

 それなのに、蒼真の態度にも、この建物の空気にも、何かがおかしい気がした。


(紗夜……どんな子なんだろ)


 無意識に、その名前を口の中で転がしていた。

 まだ会ってもいないのに、喉の奥がすこしだけ重くなる。


 ここが、今日からの“居場所”。

 でもそれは、誰にも許されたものじゃなくて――ただ、与えられた任務のための檻だった。


 「基本的な生活ルールは簡単です」


 背後から届いた声に、ベルーナは小さく頷いた。


 「朝は八時には開院します。それまでに受付を整えて、掃除、来客対応。書類整理や電話も、手が空いていればお願いします。

 夜は状況に応じてですが、だいたい七時までには終わります。住み込みなので、時間外に頼むこともあるかもしれません」


 穏やかな口調だった。

 けれど、どこか“感情”というものを切り離したような、機械的な丁寧さ。


(あたしが失敗したとき、すぐに切り捨てられるように、ってとこかな)


 ひねくれた考えが、無意識に浮かぶ。

 だけど、実際そうなのかもしれなかった。


「……わかりました。できる限り、やります」


 素直な言い方はできなかった。

 ちょっとだけ語尾を強くして、せめて“舐められないように”見せかけた。


 蒼真は何も言わずに頷いた。


 部屋に静寂が落ちる。

 どこか遠くで時計の針が、カチ、カチ、と小さな音を刻んでいる。


(紗夜……)


 この家に住んでいる“妹”。

 名前しか知らない。年齢も、顔も、性格も。

 けれど、殺す対象。

 人間であるとされている。

 でも、魔女界の上層は「その可能性を疑っている」と、口には出さずに匂わせていた。

(ただの人間を……? 本当に?)

 感情のないはずの任務。

 けれど、今まで感じたことのない違和感が、胸の奥にじわじわと広がっていた。



 そのときだった。


 コン、という控えめなノックの音が、静寂を破った。


 蒼真が少しだけ振り返り、「ああ」とだけ呟いた。

「妹です。紹介しておきますね」


 その言葉を聞いた瞬間、ベルーナの中の空気が、すっと冷たくなった。


(――来た)


 任務の対象。

 この場所の“鍵”。


 名前しか知らないその存在が、今――扉の向こうに、立っている。


 扉が、ゆっくりと開いた。


 次の瞬間、空気が変わったのがわかった。


 、部屋の中の色彩すら一段階淡くなるような、そんな感覚。

 そして、そこに立っていたのは――


 女の子だった。


 年の頃は、ベルーナとそう変わらない。

 けれど、その存在感はまったく別物だった。


 髪は胸のあたりまであるセミロング。

 巻いていないのに、ふんわりとした柔らかい波がかかっていて、

 光を受けて透けるような淡い色合いが、そのまま彼女の空気を包み込んでいる。


 肌は透けるように白く、光が反射して戻ってくるようだった。

 目は大きく、色素の薄い瞳がこちらを見ている。

 睫毛は長く、瞬きすらも絵になる。

 鼻筋は通っていて、唇は柔らかそうで、少しだけ困ったような微笑みを浮かべていた。


 まさに、“お姫様”だった。


 何も着飾っていない。

 ワンピースはシンプルで、髪飾りもない。

 けれど、その立ち姿そのものが“整いすぎていて”、視線を逸らせなかった。

 (ああ、こういうの……本に出てきた)

 昔、何度も読んだ絵本の中にいた。

 魔女に囚われて、それでも怯まず、

 最後には王子に助けられて微笑む、お姫様。


 自分が――どんなに努力しても、なれなかった存在。

 手を伸ばしても届かなかった、美しさの象徴。


 (……これが、紗夜)


 殺すべき相手。

 けれど、目の前の少女には、そんな気配が一滴もなかった。


 それなのに――

 ベルーナの中の何かが、確かに揺れた。


 少女は、ぱちりと瞬きをしてから、そっと微笑んだ。


「……こんにちは。今日から、来てくれたんだよね?」


 声も、透き通っていた。

 高すぎず、低すぎず。やわらかくて、少しだけ眠たげな甘さがある。

 それでいて、耳に残る。忘れられなくなる。

 紗夜は、何の警戒心もなくベルーナを見ていた。

 まっすぐに、“春の日差し”みたいなまなざしで。


「あなたが来てくれて、嬉しい。……お兄ちゃん、何日も準備してたんだよ」


 そう言って、小さく笑った。


 その瞬間――

 ベルーナの視界の端で、蒼真の顔がやわらいだ。


 先ほどまでと違う表情。

 誰にでも丁寧で、誰にも心を許さない――そう思っていたはずの蒼真が。

 今、目の前の少女に向けるそのまなざしは、

 あたたかくて、やわらかくて、

 、世界に彼女しかいないみたいだった。


 (……こんな顔、できるんだ)


 さっき、自分に向けられた無機質な“対応”とは違う。

 そこには本当の感情があって、思いやりがあって――愛があった。

 ベルーナは思わず、目を伏せた。


(あたしが、誰かにあんな顔を向けられることなんて……一生、ないんだろうな)


 もちろん分かってる。

 これは“兄妹”だから。

 血の繋がりがあって、長く一緒にいて、信頼し合ってて――


 でも、それでも。


 その中に、踏み込めない壁を感じた。

 ふたりの空気に、自分は永遠に入れない。

 近づけば、すぐに弾かれる。


 (でも――それを壊すのが、あたしの仕事)


 こんなにも仲睦まじいふたりの間に割り込んで。

 彼女を“消して”。

 この優しさごと、全部奪って。


 そのために、ここにいる。


(……はは。完全に、童話の魔女じゃん、あたし)


 お姫様と王子様の間に現れて、

 にこにこと笑いながら毒を塗った林檎を差し出す、

 憎まれ役の、魔女。


 その物語に、名前すら与えられなかった悪役。


 ――あたしは、その役なんだ。



「ごめんね、まだ名前も聞いてなかったよね」


 紗夜はそう言って、ベルーナの前にそっと立った。

 距離は、手を伸ばせば届くくらい。

 でも彼女の笑顔は、まったく躊躇がなかった。


「私は、有栖川紗夜。……って、名乗るほどのものじゃないけど」


 はにかんだように笑う。

 無防備で、優しくて、あたたかい。

 何かを隠そうともしないそのまなざしに、ベルーナは一瞬だけ言葉を失った。


 (……そういう顔、しないで)


 あたしは、あなたを殺しに来たんだよ。


 そう心で呟いても、声にはできなかった。

 喉が詰まるような感覚を押し込んで、無理やり言葉を紡ぐ。


「えっと……千鶴です。田嶋千鶴。……しばらく、お世話になります」


 かろうじて、笑えたと思う。

 それでもどこか硬い声だった。


「千鶴さん……うん、素敵な名前。あ、呼び方って“さん”でいい?」

「……好きにして」

「じゃあ、千鶴さんだね。ふふっ、よろしくね」


 手を差し出してきた。

 細くて白くて、人形の手みたいだった。


 ベルーナは一瞬、戸惑って――それでも、そっと握り返す。

 そのぬくもりに、思わず胸が詰まった。

 (こんな子を、あたしは……)

 その優しさが本物か偽物か、まだ分からない。

 でも、あまりにも自然で、

 あまりにも“お姫様”すぎて――


 握った手をすぐに離すことが、できなかった。


◇◇


 夜になって、部屋にひとりになった途端、

 張り詰めていたものが、ふっとゆるんだ。


 ドアを閉める音すら、誰かに聞かれるのが怖いかのように小さくなり、

 その瞬間から、部屋の空気がほんの少し柔らかくなる。

 それでも、安心とは違う――どこか虚ろで、頼りない空間。


 ベッドに腰を下ろし、着替えもせず、

 重たい体を抱えるようにして丸まる。


 服のしわが肌に食い込む感触。

 ブーツを脱いだ足がじんじんと痺れていて、それすらも意識から逃したくなる。

 天井の隅にある照明は、魔素のない世界のくせに妙に眩しくて、

 何度かまばたきを繰り返してから、ベルーナは小さく呟いた。


「……やばいな」


 声が喉をこすれて出る。

 自分でも分かってる。


 今日は、ほんの“顔合わせ”にすぎない。


 数分間、自己紹介を交わして、

 笑いかけられて、手を握られて――

 それだけ。


 なのに。


 あの笑顔が、頭の中から消えない。


 無垢で、疑いもなくて、

 “魔女”なんて知らない世界の子みたいで。


(ほんとに……この子、殺さなきゃいけないの?)


 浮かんでしまったその考えを、

 すぐに、打ち消す。


 そうじゃない。


 これは命令だ。任務だ。

 魔女界からの、最後の機会。

 疑う余地なんて、与えられてない。


 でも――

 それでも。


 今日、出会ったあの子に、

 “殺される理由”があるようには、どうしても思えなかった。


 あの微笑み。

 まっすぐで、疑いを知らない目。

 人を信じることに、何のためらいもない表情。

 言葉の端に、誰かを傷つける刃なんて、一つもなかった。


 そんな彼女に向けて、蒼真が見せた顔。

 今日一日、千鶴として隣にいても一度も見せてくれなかった、本物のやさしさ。


 眉の力が抜けて、頬がゆるんで。

 瞳の奥に、あたたかい光が灯るように。


 彼は、あの子にだけ、“ちゃんと”笑っていた。


 どうしても、昔読んだ“童話”を思い浮かべてしまう。


 お姫様と王子様。

 まわりに光が差し込んで、

 誰もがその幸福を疑わない、完璧な結末に続くはずの二人。


 けれど――自分はその間に、入り込まなければならない。


 笑いかけてくれたお姫様を、

 あたたかな目で見守っていた王子様の隣から――

 無理やり引きはがして、物語を壊す。


(あたし、完全に“童話の魔女”じゃん)


 王子様を巧みにだまし、

 お姫様に毒を盛って、

 そのあとも誰にも知られず、孤独に生きていく。


 誰からも理解されない。

 救われない。

 名前すら与えられない、ただの“悪役”。


 ――それが、あたしの役なんだ。


 そう思った瞬間、

 胸の奥に、冷たい針が静かに降りてきた。

 誰にも見えない傷口が、じんわりと広がっていくように。



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