表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
11/11

10

 目の前から、突然――何の前触れもなく、音もなく、彼女は消えた。


 触れていたはずのぬくもりが、空気に溶けていくようにして失われた。

 そこにいた。確かに、たった今まで抱きしめていたはずの人が、跡形もなく掻き消えた。


 蒼真はその場に立ち尽くしたまま、思考が固まったように動けなかった。

 理解が追いつかない。いや、頭のどこかでは理解しているのだ。

 魔女――彼女は、そうだった。

 常識の枠にない存在で、異なる世界に属している。

 そうわかっていても、これはあまりに突然で、理屈より先に、心が先に崩れた。


 蒼真の呼吸が浅くなる。視界がにじみ、音が遠ざかる。

 あの時と同じだ、と胸が軋んだ。

 両親を喪ったあの日。あの日と、まったく同じだった。

 手を伸ばしても届かず、何も守れず、何もできなかった。


 いやだ、いやだ、いやだ。

 また奪われるのか。今度は、ようやく触れられたこの気持ちまでも。


 喉の奥から、絞るような声が漏れる。


 「……千鶴……」


 肩が震え、足が力を失いかけた瞬間だった。


 空気が、かすかに揺れた。


 空間が淡く歪み、白い光がそこに収束する。

 ほんの一瞬の、時間の綻び。その中心に、ふわりと人影が立つ。


 「……た、だいま……」


 かすれた声が耳に届いた。


 千鶴だった。


 涙をこらえるような、どこか不安げな笑顔で――彼女が、そこにいた。


 その瞬間、蒼真の中で何かが爆ぜた。

 理性も、論理も、礼節も、すべてがどうでもよくなった。

 心だけが、むき出しのまま叫んでいた。


 彼は一歩、二歩、千鶴に駆け寄ると、その身体を強く、乱暴なほどに抱きしめた。


 「……もう……消えるな……!」


 絞り出すような、かすれた声が彼の喉から零れ落ちた。


 「二度と……俺の前からいなくなんなよ……!

 冗談でも、任務でも、魔法でも……何があっても、どこにも行かないでくれ……っ!」


 抱きしめる腕に力がこもる。

 どんなに強く抱いても、また消えてしまうのではないかという恐怖に、心が押し潰されそうだった。

 まるで、彼の中の不安と執着がすべてその腕に込められているようだった。


 千鶴は、蒼真の腕の中で小さく震えながらも、そっとその背に手を回した。

 苦しいくらいの抱擁。それでも、あたたかかった。

 嬉しくて、涙がまた、頬をつたった。


 抱きしめたままの蒼真の身体が、かすかに震えていた。

 その鼓動が、千鶴の胸に伝わってくる。

 怒りでも、悲しみでもない――これは、恐怖だ。

 目の前の彼もまた、ずっと怯えていた。

 誰かを信じることも、心を預けることもできないままに。


 だからこそ、いま――

 このぬくもりを手放したくないと、必死に縋っているのが分かった。


 千鶴がようやく言葉を紡ごうとしたそのとき――


 蒼真が、囁くような声で言った。


 「……どうして、そんな顔をするんですか」


 ゆっくりと、彼は千鶴の肩に額を預けた。

 その声は、静かなのに、どこか壊れそうに苦しげで――それでいて、妙に熱を帯びていた。


 「帰ってきてくれたのに……なんで、泣いてるんですか。

 俺のほうこそ、泣きたいくらいなのに」


 腕の力が、さらに強くなる。

 痛いくらいに、でも千鶴は抗わなかった。


 「ねえ、千鶴さん……」


 その名を、今度はとても優しく呼ばれた。

 それだけで、心臓が跳ねる。


 「あなたは、何度言われたらわかるんですか。

 あなたが笑ってるとき、俺は、どれだけ心を奪われたと思ってるんですか」


 耳元に落とされたその声は、あまりにも真っ直ぐで、重くて、優しくて――怖いくらいだった。


 「あなたが無理して強がって、虚勢張ってるのも全部知ってます。

 本当は、泣き虫で、怖がりで、甘えたくて、でも誰にも頼れなかった。

 それでもちゃんと、俺を見てくれた……俺に手を伸ばしてくれた……」


 千鶴は、胸の奥がいっぱいになって、もう何も言えなかった。


 「だから――もう他の誰の言葉も聞かないでください。

 他の誰にも触れないで。俺だけ見て、俺だけに頼って。

 ずっと……俺のそばにいてください」


 蒼真の声が震えた。

 それは命令じゃなく、懇願のような、祈りのような――そんな言葉だった。


 「あなたを好きになるのに、理由なんかいらない。

 でも、あなたを“失う”理由があるなら、それはこの世界が間違ってるんです」

 「だからもう、どこにも行かないで……千鶴さん」


 千鶴の指が、ゆっくりと蒼真の髪に触れた。

 震えた指先は少しだけたどたどしかったけれど、その手には確かな温度があった。彼女は何も言わず、ただゆっくりとその髪を撫でる。数百年という長い時間、誰かを撫でたくても撫でられず、撫でられることもなく過ごしてきた手。戦うためだけに使われ、否定され、傷つけられてきたその手が、今こうして、誰かを愛おしむように触れている。


 「……先生」


 そっと名前を呼ぶ声は、少し掠れていた。それでも、そこには迷いの欠片もなかった。涙で濡れた瞳をまっすぐに向けながら、千鶴は彼の腕の中で静かに言葉を紡ぐ。


 「あたしはもう、どこにも行きません。先生のそばにいます。魔女でも、太ってても、泣き虫でも、意地悪でも、全部――あたしなんです。それでもいいなら……ずっと、そばにいさせてください」


 その言葉は静かだったけれど、これまで彼女が心の底に押し込めてきた感情すべてをひとつずつ引きずり出し、確かに形にしたものだった。拒絶されることも、嘲笑されることも何度もあった。それでも、ただひとり、彼にだけは自分の“全部”を見せたいと思えた。それがどれだけ怖くて、でもどれだけ幸せなことかを、ようやく彼女は知ったのだ。


 蒼真の肩が、小さく揺れた。彼は言葉もなく、ただまっすぐに千鶴を見ていた。何かを確かめるように、何かを押し殺すように――そして、そっと千鶴の頬に手を伸ばした。その目には、強い意志と、深い感情が揺れていた。


 「……千鶴さん」


 名前を呼ぶ声は、あたたかく、深く、どこかひどく切なげだった。そして彼は、ごく静かに、けれど決して曖昧ではない言葉を口にする。


 「……愛してます」


 その一言が落ちた瞬間、千鶴の胸の奥にあった、名前のない不安がふっと溶けていった。何百年も、どこにも居場所がなかった。誰にも“可愛い”とも“必要だ”とも言ってもらえなかった。魔女は愛されないものだと、そう思い込んでいた。


 だけど今、確かにこの人の腕の中にいて、“好き”ではなく“愛してる”とまで言われた。


 もう、どこにも行かない。もう、魔女としての力なんかより、ここにいることのほうが、ずっと――


 千鶴は蒼真の頬に手を添えて、そっと目を閉じた。そしてゆっくりと、自分から唇を重ねる。さっきまでと違って、言葉を交わすためでも、慰め合うためでもない。ただ心の奥から湧き上がる気持ちが、静かに唇を導いた。


 キスの中には、告白も、約束も、過去の痛みも、未来の希望もすべて詰まっていた。


 童話の中では、魔女はいつだって邪悪な存在だった。お姫様の敵で、王子様に倒される役目だった。でも、この物語では違う。魔女は孤独なまま終わらない。誰かを傷つけるためじゃなく、誰かを愛して、愛されるために生きていい。そんな結末だって、あっていいはずだ。


 魔法も戦いもない、ただ隣にいるだけの幸せ。それを、魔女は初めて手に入れた。


 ほんの少し、筋書きの違う童話。


 けれど、その結末は――

 世界でいちばん、あたたかくて幸せだった。



最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。

読んでくださった皆さんの時間が、少しでも楽しいものになっていれば幸いです。

感想やご意見などいただけると、とても励みになります。

また、どこかの物語でお会いできたら嬉しいです。

ありがとうございました。


2025/05/04

トリスタ

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ