がんばれサイコパスくん 2話
ベッドに仰向けになって天井の模様をなぞってみる。不思議な軌跡が幾つもの怪物を描く。模様で空想キャラクター作製選手権があったら、サイコパスくんは紛れもなく一位になれる素質がある、と信じている。
「やあ、貸した漫画を返してもらいにきてるよ」
枕元に立ってこちらを見下ろしているのは、先日転校してきたばかりなのにやたらと諸事情に詳しい、例えばサイコパスくんがスイミングを習っていることを知っている変態呼ばわりするに相応しいエンパシーさん。
「ねえ質問」
「うむ」
「その壱、漫画借りてなくね。その弐、いつからこの部屋にいるの。その参、即刻ここから出ていってよ」
「もはや三番目は質問にすらなっていないよね」
跳ね起きた拍子にベッドから崩れ落ちた。
「わあ、痛そ」
「痛いよ。普通はベッドから起きたくらいしゃ怪我しないからね」
「よっぽど気が動転しているのね」
「誰のせいやろな」
にこにこしているエンパシーさんは紙袋に本棚から漫画を抜き取っている。
「ねえ、待って?それ、オレのやんな」
「ん」
「いや、ん、じゃーなくてさ。オレの漫画だぞ、全部」
「そうだけど」
「ん?」
どうやらエンパシーさんは漫画を貸した見返りに、今度はサイコパスくんから漫画を借りたいらしい。
「でもね、前提として、まずオレ借りてないし。素直に頼んだら貸してあげるし、もう、エンパシーさんって凄いね」
「他人に物を借りたら、お礼をするのは然るべきよ」
「ダメだ話が通じねえ」
部屋にエンパシーさんを残して、お茶を飲みに一階へ。居間でくつろぐ母はお腹をかいてテレビを見ながら煎餅を貪りつつ本を読んでいる。
「あんたの友達来てっから」
「言うの遅くね」
「うるへ」
「うるさくなくね?」
母の手元で煎餅の醤油まみれになっている本にサイコパスくんの視線は釘付けになる。
「それなに」
「漫画よ」
「買ったの?」
「借りたわ」
急いで二階に戻る。ベッドでジャンプしているエンパシーさんを床に降ろす。
「借りてたみたいですね」
「でしょ?」
「オレじゃないけど」
「血は繋がってるよね」
「その理論では、二親等までは御礼する義務が生じてしまうんではないかしらん」
「少なくともサイコパスくんだけでいいよわたしは」
台所の抽斗にこっそり隠しておいたコンソメポテチを噛むエンパシーさんがぺろりと指をしゃぶる。
「もうそれで勘弁してよ」
「たかが百円やん。しかもサイコパスくんの両親が稼いだ金くね?そして足りん」
「そう。オレが稼いだわけじゃない。が、胃袋と同時に心も充ちたであろう」
「大海のような心が?」
「うん」
「コンソメごときで?」
「うんうん」
「足りんよー」
「うーむ」
「ヨシ。じゃー体で払って貰おうか」
同じくらいの背丈の女の子に押し倒される感覚のサイコパスくんが記念すべき初体験はベッドへの墜落となれり。
弾む、弾むぞ、スプリング。二人分の重みで軋む。
「やだあ、顔赤らめちゃってえ」
咄嗟につむっていたまぶたを開けると、にんまりしたエンパシーさんがボブの毛先を指でくるくるしている。期待したようなことは微塵もされていなかった。文字通り指一本触れられていない。
「エッチなんだね、君は」
「ああ。オレはエッチな男だ」
白けたとばかりに肩を竦めるエンパシーさんに早くどいてほしいサイコパスくんはじっとしたまま黙りこくる。
「んーっ?馬乗りになってほしげな表情をしているぞおー」
「その正反対ですわ」
「いつも教科書借りてるでしょ」
何の話だ?
「拝借とは体のいい言葉で、サイコパスくんの鞄見ていい?ってかさっき開けたけど」
「勝手に触んなよ」
「ほれ、これなーんだ」
国語の教科書が出てきた。
「そのまんまじゃん」
「ここ、ここだよ」
記名欄には「田中」とある。
「あー」
「田中くんは大変だよね。毎日国語の被らないクラスに頭下げに行くんだから」
「おー」
次に英語の教科書が出てきた。ボロボロに濡れそぼってる。記名欄には「田中」とある。
「それ知らん」
「知らんくないだろーよ」
「まじで分からん」
サイコパスくんの返答に頭を抱えてエンパシーさんはため息をつく。
「じゃあこれは?」
社会の資料集が出てきた。千切れているものの、資料集っぽい柄で判別がつく。
「それこそ知らんすね」
「知らんすくねーやろーが」
「さっきから一体なんなんだお前ってやつぁ!」
口調を荒らげられてサイコパスくんはカチーンときた。
こほん、と咳払いしてエンパシーさんはサイコパスくんが一階から持ってきたお茶の湯飲みを逆さにする。
「あっつー」
「わあ、熱そ」
「おい警察呼ぶぞ」
「うふふ。救急車の方がいいかんじ?」
ケタケタと笑い転げるエンパシーさんへの怒りのボルテージが上がっていく。
「ぶっ潰すぞ、こら」
「そんな風に襟首掴んでも怖くないお」
「クソッ」
レースのブラウスを力いっぱい握る指先が震える。
「社会の資料集は佐々木くんが所持していたんだもんね、サイコパスくんが知らないわけさ」
「佐々木?」
「すっとぼけやがった英語の教科書は雨の日に傘ささないからブヨブヨになるのさ、気をつけたまえよ」
「佐々木がどうしたってんだ」
「佐々木くんの前が野口さん。で、その前が栗橋さん。んでもって鈴木くんを経由したから東海林さんでー」
「あー」
肩の力が抜けて、サイコパスくんはブラウスから手を離す。
「ようやく合点が承知か、おぬし」
「東海林さんに渡したのはオレってことだろ」
「間にまだ二人いるくね?」
「覚えてないわ」
そこでエンパシーさんがスッと立つ。腰に手を当てて仁王立ちだ。
「他人にしたことは100%憶えてない!」
蛇に睨まれた蛙よろしく低頭するサイコパスくんに、さらに畳み掛けてくる。
「他人にされたことは1000%忘れない!」
どさくさに紛れてエンパシーさんの足の裏がサイコパスくんの後頭部に乗っている気がする。
「だからさ、許してもらえないとしてもよ、感謝伝えようぜ」
顔を上げると、頭を押さえ付けていたのはエンパシーさんの柔らかそうだけど少し硬めのてのひらだった。
サイコパスくんがうなずくより早くエンパシーさんに手を引かれて玄関を出る。ありったけの漫画とお菓子を詰め込んだ鞄を持たされて。
汗だくになりながら、田中くんの家に到着したころには辺りは赤く染まっていた。丸い夕陽が西の空に輝いていた。
「あれ?サイコパスくん、こんな時間にどうしたの。それにエンパシーさんまで」
「ん」
「ん、じゃねーだろっ」
エンパシーさんに小突かれる。
「今までごめん」
鞄を差し出す。
「え、何これ。うわ、少年ジョンポの新刊じゃないか、凄い、しかも見逃した単行本まである」
「サイコパスくんがどうしても貸したいんだってさ無償で」
「ありがとう、あ、そうだ上がってく?」
「いや、母が晩飯作ってるんで帰るよ」
そそくさとその場をあとにする。
山際から紺色のグラデーションが生まれている。
「あのさ」
「これで日直が順繰りに回るといーなー」
「そうだけど、あの」
「なあんだよ、ベッドの続きがしたい?」
両手を後ろにしてくるりと身を翻すエンパシーさんから安っぽいけどめっちゃいい石鹸の匂いがする。
「それもいいけど、異性に興味ないんだろ?んなことより田中くんが見逃した単行本、そもそもオレ買ってないんだよね」
「誰かがベッドの下のブタの形した貯金箱を割って手に入れたお金で購入しておいた可能性があるかもね」
唇を尖らせてエンパシーさんは口笛を下手な吹いている。
「多分ブタはオレのだよね。その誰かは敢えて言及せずに想像に留めておくよ」
の台詞を受けてエンパシーさんは表情をがらりと変え、悪戯っ子の眼差しをする、その上目遣いが最高にズルい。
しばらく歩いたところでサイコパスくんは立ち止まる。雲間に月が見え隠れしている。ひとつ先の交差点までエンパシーさんの背中が遠ざかっていく。ややあってこちらを二度見して大袈裟にのけぞる。
「うおおーい、何ぼさっとしてんの」
サイコパスくんをおいてけぼりにした格好のエンパシーさんが慌てて駆け戻ってくる。息を整えているらしく、ついでに周囲の様子を伺っている。
「ありゃ、ここはスイミングスクールの近くだわな。むむ、そして自販機の正面だわさ。んでサイコパスくんが手にしているのはまさかピスタか?ピスタ様なのか」
アーモンドをローストしたっぽい雰囲気の蠱惑の瞳を輝かせている。エンパシーさんは今にも涎を垂らしそうな具合に興奮している。
「必ず礼をしなきゃならないんだろ」
サイコパスくんからエンパシーさんへ、緑色のパッケージのピスタチオアイスが手渡される。
「あっれー。何の貸しだっけえ?」
にやにやしながらエンパシーさんが引っ付いてくる。ピスタチオの溶けた部分がズボンに垂れた。
サイコパスくんはそれを無視して手元のスマホを弄る。
通知は田中くんからだ。クラスメートと交わす生涯初めてのメッセージを脳内で構築するので手一杯なサイコパスくん。ふと関係のない文章がまぶたの裏を過る。
他人にしたことは100%憶えてない!
ふむふむ、優しさにも当てはまるのか。しかしそれにしても忘却があまりにもせっかち過ぎやしないかと、サイコパスくんは訝った末にはにかんだ。ズボンのピスタチオはすっかり馴染んだようで、甘い香りが夜気に混じって消えていく。