決してあってはならないこと
この作品は「未来からの調査員」の続編になっています。もし、「未来からの調査員」をまだご覧になっていなければ、お手数ですが先に「未来からの調査員」をお読みいただいた後で、当小説を読んでいただけると嬉しいです。と申しますのは、この小説の登場人物の一人のルーク青年の正体を知らないと、この小説の意味が読者の皆様にしっかりと伝わらないかもしれないからです。勝手なお願いですが、悪しからずご了承ください。
『随分と、お困りのようですねえ。丸山文佳さん……』
不意に何者かが耳元で囁いた。とっさに振り返ったが、それらしき人物はどこにも見当たらない。
誰? いったい何のいたずら?
やがてカードが配られる。とにかく私はゲームに集中しなければならない。
私は女子大生。ただ今、卒業旅行中である。かねてからの憧れであるラスベガスのカジノにやってきた。そこで初老の紳士とドローポーカーを一対一で対戦している。気軽な遊びのつもりであったが、少々の勝ちが続くと、つい調子に乗ってしまい、限度額を超えた勝負をしていた。気が付けば、持ち金はほとんど底をついていた。
このゲームの私の手配は、クラブのJ、クラブの8、ハートの4とスペードの4、そしてスペードの3であった。お世辞にも良い手とはいえない。私は4のワンペアを残して他の三枚のカードを交換した。代わりに配られた三枚のカードは、クラブの9、ダイヤのQ、そして最後にダイヤの4が……。やった、4のスリーカードが完成だ! なんとか首の皮が繋がったとほっとした矢先に、背後からさっきの男性の声が聞こえてきた。
『この勝負はドロップなさい。僕はあなたの味方ですからね……』
「誰なの!」私は椅子から立ち上がって声を張り上げて振り返った。後ろで観戦していた中年の婦人がびっくりしてあとずさりした。
「ごめんなさい。ちょっと神経質になってしまいました。何でもありませんから」と私は英語で謝った。さっきと同じく、それらしき男性の姿は見当たらない。
いったいどういうこと? スリーカードで降りるなんて考えられないわ……。
でも、本音を言うと、今の私は誰でもかまわないから頼る人が欲しかった。この不安と絶望から救済して欲しかったのだ。不本意ながらも私はその言葉に従った。「このゲームはドロップします……」
穏やかな表情のジェームズ・マリシャス氏が一瞬眉をひそめた。オープンした彼の手役は、ハートのフラッシュだった。勝負していたらもちろん負けていた。間一髪で助かったのだ。私はもう一度、後ろの観客を見回した。いったい誰なのだろう。私とマリシャス氏の双方の手役を見透かしたかのような的確な判断。果たして声の主は本当に味方なのだろうか。かれこれ考えていると、また声が……。
『こんばんは、お嬢さん。先ほどあなたがゲームに夢中になっている間に、あなたの可愛らしいイアリングに、高性能の小型受信機をこっそり装着させてもらいました。最新式ですから、この声があなた以外の人に漏れてしまうことはありません。いいですか、僕はあなたの味方です。どうか、次のゲームは僕の言う通りに動いてください。必ず、あなたを勝たせてあげますからね。僕の言うことが理解できたら、合図として前にあるカクテルを一口飲んでください』
私はマルガリータのグラスを手に取り、軽く一口飲んだ。
次のゲームが始まった。一枚ずつゆっくりとカードをめくってみる。スペードのA、クラブのKとここまでは良かったが、後のカードはダイヤの9と6、そしてハートの3だ。何も役ができそうにない。私がAとKを残して三枚を交換しようとすると、
『ダイヤの9だけを残して、それ以外の四枚を交換しなさい……』
とまたあの声がした。
四枚の交換だったら通常はAを残すのがセオリーだ。もし運良く再配布された四枚のカードにAが含まれていればAのワンペアができる。Aのワンペアならば最強のワンペアなので勝つ可能性も十分にあるが、同じワンペアでも数字が9となると首尾よく完成しても勝てそうな役とは思えない。そうは考えたが、結局私は声の指示に従った。すると驚いたことに、返ってきた四枚の中にはスペード9とクラブの9の二枚が含まれていたのだ!
「レイズ50ドル」私は様子を見るために掛け金を少しだけ吊り上げた。
「請けて、さらにレイズ200ドル」マリシャス氏が上乗せをしてきた。
やった、相手が勝負に乗ってきた。まあ、それも考えてみれば当然のことで、四枚も交換した私の手役が大きくなることは極めて難しいからだ。さあ、ここで勝負だ。私は手持ちの金額の限界を申し出た。「さらにレイズ300ドル!」
どうか、笑わないで欲しいのだが、所詮私は単なる女子大生に過ぎない。私にとって、550ドルは一回の勝負では法外な掛け金なのだ。マリシャス氏は少し驚いた表情になったが、さすがにここで勝負を降りることない。
「そこでコールします。カードを見せてください。お嬢さん」マリシャス氏はそう言うと自分の手札を開いた。彼の手役はJと6のツーペアであった。私が手役のスリーカードを公開すると、場内にどよめきが起こった。とにもかくにも、こうして私はこのひと勝負で場代を合わせて570ドルを取り返して、とりあえず最悪の状況は脱したのだった。
『用足しに行くといって、いったんテーブルから離れなさい。僕はルノアールの額縁が飾ってある階段で待っていますから……』
再度、あの声がした。
「すみません。10分ほど休憩させてください」
「お嬢さん。これでゲームを止めるのではないでしょうね。勝ち逃げはいけませんよ」
おだやかな笑顔とは裏腹に、とがめるような口調でマリシャス氏はくぎを刺した。
「ご心配なく。ご承知の通り、私はまだ全然負けておりますから!」とっさに、私は皮肉で言い返した。
部屋の外に出ると、ルノアールの額縁のある階段はすぐに見つかった。階段の途中に長身の若者が立っていた。うっすらと青白い血の気が失せたような顔、細くまっすぐな眉と整った目鼻立ち、口元は引き締まっていて意志の強さが表れており、全体としては知性を感じさせるハンサムな青年だ。ただ、黒髪のヘアスタイルは妙にとげとげしく逆立って品がなかったが、彼にしてみればそれが個性の主張なのであろう。
「あなたなの、さっきから私に話しかける人は」
「はじめまして、丸山さん。僕はルークと申します」
「日本語をしゃべっているけど、あなた日本人?」
「はい、生粋の日本人です。あなたは、日本人なのに英語が達者ですね。僕には流暢すぎてときどき何を話されているのか聴き取れないこともありますよ」
「あなた、なんで私が日本人であることが分かったのかしら?」
ルークは少し目を丸くした。「へー、こいつは一本取られましたね。あなたは美しいだけではなく、大変聡明なお方だ。おっしゃる通りです。あなたが日本人であることを僕が知ることはできないですよね。前もってあなたの調査をしていなければね」
「ということは、あなたは私のことを調べていたというのね。あなたいったい何者?」
「その説明はまたの機会に……。大事なことはあなたがまだ1000ドルほど負けているということです。先ほどの起死回生の勝利にもかかわらずね」
その通りである。どうして、ここまでゲームにのめり込んでしまったのだろう。最初は私が勝っていた。小額の掛け金で少しずつ勝ち続けて、一番良いときには500ドルほど儲けていたのだ。しかし、それも束の間、すっかり有頂天になった私は掛け金を増やしてしまった。とたんに三回続けて負けたのだ。二回の負けで儲けたお金は使い果たし、三回目は悔しくて、さらに200ドルの無謀な勝負をしてしまった。その後は要所要所で敗れて、借金は少しずつではあるが着実に膨れ上がった。
「先ほどのあなたの指示はいずれも的確だったわ。まるで、すべてのカードをあなたは見透かしているみたいだった。どうしてそんなことができたの?」
「手品の種あかしですか? そいつは勘弁してください。まあ、僕には予知能力が備わっているとでも思ってください。もっとも、いつもひらめくわけではないのですが」
そうなのだ。たしかに彼はカードの一切合財を正確に予知していた。本当に予知能力があるのなら、この青年を信頼することでもしかしたら私は助かるかもしれない。
「しかし、あなたもお人好しですね。あの、マリシャス氏が何者かご存知なのですか」
「えっ?」
「あの温厚そうな初老の紳士ジェームズ・マリシャス氏。おもての顔は観光旅行者ですが、その素顔は人身売買のブローカーです。あなたをポーカーに誘った目的は唯ひとつ。それは、あなた自身ですよ」
知らなかった。優しそうなおじいさんだと思っていたのに……。
「まあ、僕におまかせください。あの手の輩は少々懲らしめてやるべきですからね。さてと、まずはゲームの約束事を確認しておきたいのですが」
「それじゃあ、説明するわ。ゲームの前に出し合うアンティ(場代)は前のゲームの敗者が決めます。お互いにアンティを出し合ったらカードが配られて、一回だけカードの交換ができます。交換するカードは手持ちの五枚から何枚でも可能で、もちろん交換なしもありよ。交換した後はベッティング・インターバルとなります。最後のゲームの敗者から、まずレイズかドロップのいずれかを宣言するの。ドロップ(放棄)を宣言したら、相手はそのままアンティを受け取ってそのゲームの勝者となります。もし、レイズ(上乗せ)を宣言すれば、上乗せした金額をテーブルに出します。レイズが宣言されたときには、相手はコール・レイズ・ドロップのいずれかの宣言ができるけど、ここでドロップを宣言すれば敗者となり掛け金が取られます。レイズを宣言すれば、それ以降は同じことの繰り返しです。コール(金額を上げずに手役をお互いに見せ合って勝負する宣言)を宣言すれば、前のプレーヤーのレイズ額をコールした人はテーブルに出して、それからお互いのカードを公開します。高い役の人が勝者となり、テーブル上のすべてのお金を手に入れます。いったんコールが宣言されれば、さらなるレイズを相手は宣言することができません。だから、掛け金の上限は決めていないけど、掛け金が法外な金額になることはまずないわ。掛け金が高くなるためには、お互いにレイズを連続して宣言しなければならないけど、どちらかのプレーヤーがコールを宣言すれば、それ以上掛け金が吊り上ることはないからよ」
「ふふふ、青天井ルールですか……」ルークはなにやら怪しげな含み笑いをしたのだが、私にはその意味がまったく分からなかった。
「大体分かりました。それでは、あなたはそろそろゲームにお戻りなさい。あとは通信機で連絡いたします。僕はこれから、ちょっと調べごとが……。あっ、いや、その、予知のためにひとりで瞑想をしてまいりますので」
「了解です。落ち着いて瞑想してきてね。ところで連絡があるまでは、私はどう戦えばいいの?」
「そうですね、掛け金を無闇に上げずにできるだけ勝負を長引かせてください。真の勝負は一回だけです。その一回でやっこさんを地獄に叩き落とします!」
「本当に私は勝つことができるの?」
「トラスト・ミー(僕を信じて)!」ルークはそう告げると、私のひたいに軽くキスをしてから立ち去った。
娘が戻ってきたので、マリシャス氏は安堵した。まだ、あどけなさの残る日本人の少女だ。すらっときれいなスタイルをしていて、人を疑うような仕草が全くない。おそらく、男女間の経験もほとんどないのであろう。端整でさっぱりとした目鼻立ちとは対照的に、唇だけは艶めかしく大人の雰囲気が十分にかもし出されている。これだけ年を隔てた自分でさえも、彼女を眺めていると胸が高鳴る想いがする。まれに見る上玉だ。何とか借金を背負わせて、その肩代わりとばかりに一晩拘束すれば、あとはいくらでも自由にできるだろう。先ほどの勝負は実に惜しかった。ほとんど追い詰めていたのだが、まさか四枚を交換してスリーカードができてしまうとは……、運の強い小娘である。
ルークの忠告を受けてから改めて対面すると、たしかにマリシャス氏は危険な人物であった。なるほど、さっきから私のことをまるで品定めをするかのようにじろじろと観察している。どうして、今まで気が付かなかったのだろう。私はここから逃げ出したくなったが、怖くてそれすらもできない。もう、ルークを頼るしかなかった。ここで敗北を喫すること、とにかくそれだけは決してあってはならないことだ!
秘密の通信機を通してルークの声がした。
『いいですか。しばらくするとあなたの後ろでグラスの割れる音がすることでしょう。そしたら、次のゲームが勝負のゲームです。そのゲームでこれから指示するように行動してください。まずは……』
私はルークに了解の合図を送った。それから、40分ほどゲームは何事もなく淡々と続いた。やはり、時とともに私は少しずつではあるが、お金をむしり取られていた。
突然、グラスが割れる音がした。観客の一人と給仕が接触したらしい。ということは、今度のゲームが勝負なのだ! 私はマリシャス氏に申し出た。
「あの、ひとつ提案があります。いつまでもゲームを続けてはいられません。このゲームをラストにしましょう。でも、これまで私は相当負けが込んでいるから、最後にアンティ(場代)を大きく賭けたいのですが……」
「アンティをいくらにしたいのですか。お嬢さん」
「1000ドル! でも手持ちには1000ドルもの大金はありません。だから小切手を切りますがよろしいですね」
マリシャス氏はほくそえんだ。まさに思い通りに事が進展しているのだ。それにしても、最後のなけなしの勝負が1000ドルとは……。つくづく世間知らずの少女である。
「あはは、ご冗談を。申し訳ありませんが、あなたの身なりから判断させていただくと、あなたが切る小切手など信用できませんね。でも、心配ご無用。あなたが承諾すれば、私は1000ドルを現金ですぐにお貸しいたしますよ。今日中に返金していただければ、利子は要りません。しかし、貸したお金が、もし約束の刻限までに返済できないときには、あなたにはそれなりの責任を取っていただきます。この借用書にサインをしてくださればそれで万事が解決です」
マリシャス氏はふところから借用書を取り出して、1000ドルと金額を書き込んだ。そのような借用書を持ち歩いていること自体が、そもそも尋常ではない。おだやかな紳士の仮面はすでにはがれて、彼は本性をむき出しにしている。私は借用書に目を通した。借金を三時間以内に返済すれば利子は一切かからないという内容であった。もっとも、この時刻では金融サービスが停止しているから、この三時間の猶予はまるで無意味である。しかも、三時間を超えて返済がなされなければ、その後には何やら難しい単語で文章がつづられている。私には正確に解読できないものだった。私は借用書にサインをした。きっと、ルークが助けてくれるはずだから、そう信じて……。
最後のゲームが始まった。カードが配られる。開けてみると、ダイヤのA、スペードQとダイヤのQ、ダイヤの10とクラブの6であった。セオリーならQのワンペアを残したフルハウス狙いで、数が小さい10と6の二枚を交換するか、あるいはA、10、6の三枚を交換するかであろう。ストレートやフラッシュも狙えるが、そのためには二枚を交換しなければならない。しかし、二枚を交換して二枚とも思惑どおりのカードが巡ってくることは可能性が低い。さあ、どうしたらいいの、ルーク?
通信機を通してルークの声が聴こえてくる。しかし、その指示は意外なものであった。
『Qと6の二枚を交換しなさい。ただし、QはダイヤのQを交換してください。いいですか、大事なことですから、ここは絶対に間違えないで下さい。スペードのQは手元に残して、ダイヤのQを捨てるのですよ!』
えっ、なぜ? 予知能力でストレートが完成することが分かっているのなら、A、10と、一枚のQを残すことは納得できるが、ならば捨てるQはスペードであるべきだ。ダイヤのQを残せば10からAまでのストレートが狙える上に、ダイヤのフラッシュも、さらにはストレートフラッシュも狙うことができる。ここでダイヤを捨ててスペードのQを手の内に残すことに、利があるとはとうてい思えない。しかし、ルークがわざわざ間違えないようにとまで念を押したのだ。ここは彼を信じるしかないだろう。私はダイヤのAとスペードのQ、ダイヤの10を手元に残して、他のカード二枚を交換した。こうなれば、私がこのゲームで勝つためにはストレートの完成しかない。つまり、交換して返ってくる二枚のカードは、きっとKとJの二枚になってくれているはずだ!
配られた二枚のカードのうちから一枚を私は恐る恐るめくってみた。果たしてそのカードは……、ダイヤのKであった。やった! すると、もう一枚のカードは間違いなくJであるはずだ。私は心の奥底でほっと安堵のため息をついた。今度は確信を持って、もう一枚を開いた。しかし、何ということだろう。そのカードはJではなくて、ハートのAであった――。
一瞬何が起こったのか理解できずに、我を失って呆然とした。考えても、考えても分からない。ハートのAが来ることが予知できたのなら、なぜ手配のQのワンペアを崩したのか。Qを捨てなければ、最終的にはQとAのツーペアが完成していたことになる。明らかにルークのミスだ。さらには、なぜ捨てるカードをダイヤのQにしろと、なんであれだけ強調したのか。スペードでもダイヤでも、結果は同じではないか。いやいや、そんなことはどうでもいい。それよりも、これからどうするの? この大きな勝負で、もうすでにアンティ(場代)には借金の1000ドルを出している。負けた場合には借用書に書かれたことを実行しなければならないという条件付きで……。はっ、まさか、ルークはマリシャス氏と結託していたのかしら。お人好しの私はまんまと彼らに嵌められたのだろうか。とにかく、もう、おしまいだ……。
このとき、マリシャス氏は眼前の娘の様子をじっと観察していた。彼女の捨て札は二枚だった。そして、彼女は返された二枚のカードを一枚ずつ開いて確認したが、一枚目をめくったときには瞳が丸く輝き、はっきりと悦の感情が表情から読み取れた。つまり、お望みのカードがやってきたということだ。しかし、二枚目のカードをめくったときの落ち込む姿は、それはひどいものだった。とても演技とは思えない。明らかに二枚目は、望みのカードではなかったのだ。
捨て札が二枚。この場合にまず想定されるのが、スリーカードが最初の配布時からできていることだ。そして、交換した一枚目をめくったときに見せた彼女の喜びの表情は、手役がさらに大きくなったことを意味しており、つまり彼女の手役がフォーカードになったことになる。しかし、その可能性ははっきりと否定できる。なぜならば、フォーカードができたのに、二枚目のカードを見てあれほどの落胆することはあり得ないからだ。
次に考えられるのはワンペアと一枚のハイカードを残した場合だ。たとえば、6のワンペアだけを残すのは心もとないので、Kも一枚残すなどの場合である。仮に、交換の一枚目で彼女の手役が発展したならば、それはスリーカードかもしくはハイカードを含むツーペアが完成したことになる。しかし、この場合もやはり二枚目の彼女の大きな落胆を説明することができない。それなりの手役ができれば、最後のカードを見て落ち込む必要はないからである。つまり、この可能性も否定される。
残された可能性は、彼女の狙いが二枚を交換しての大物狙い、つまりフラッシュかストレートを目指した可能性だ。これならば、彼女の一連のリアクションを完全に説明することができる。一枚目の返しのカードは思惑どおりだったのだが、二枚目がその狙いに反するカードであったのだ。ストレートやフラッシュ狙いで思惑が外れて、最後の一枚が意図しないカードであったときには、その手役がツーペア以上の役であることは絶対にあり得ないから、すなわち、彼女の手役は良くてもせいぜいワンペアであることに決定する。ならば、この手役での私の負けはなくなった、ということか……。マリシャス氏は自らの手持ちカードの内容を確認すると、ひそかにほくそえんだ。
しかし、何しろ肝心の大勝負である。ここで、この娘を取り逃がしてしまうことだけは、決してあってはならないことだ。カード勝負に持ち込んでも間違いなく勝てるわけだが、万が一ということもある。より確実に勝てる切り札をいよいよ出すことにするか……。
私の思考は混乱を来たしていた。その耳元で、ルークの声がした。
『まずは、あなたが宣言する番ですよね。300ドルをレイズしなさい。後はまかせて……』
この期に及んで、後はまかせてなんてよくも言えたものね。しかも、300ドルですって。それって私の残金の全部じゃないの。
「レイズ(上乗せ)300ドル」私は宣言した。もう、どうとでもなれだ。ここで大きくお金をレイズすれば、ひょっとすると相手は警戒して勝負を降りてくれるかもしれない。それが、ルークの狙いなのだろう。でも、果たしてマリシャス氏が300ドルごときで降りてくれるだろうか。場代で1000ドルが賭けられた大勝負だ。それなりの手ができていれば当然コールをしてくる。もし、コールされれば、私の手役ではまず勝ち目がない。どうか、お願いです。ドロップしてください……。私は心の中でひたすら神さまに祈り続けた。
ところが、マリシャス氏の宣言は全く意外なものだった……。
「レイズ5000ドル!」
5000ドルですって? 私は飛び上がった。これってただのゲームでしょ? だいたいそんな大金を、学生の私が持っているわけないじゃないの。
「お嬢さん。繰り返しますが、今、この場に現金をご用意できなければ、あなたの負けが確定します。そのときは、場代の1000ドルとあなたの賭けた300ドルは私のものになりますよ」
「ちょっと待ってよ! そんなの、卑怯です。私がそんな大金を持っていないことをあなたはご存知じゃないですか」私は必死にわめきたてた。
「ふふふっ、お嬢さん。これはルールの範囲内での選択であって、卑怯といわれる筋合いはありませんね」
その通りだ。私がおろかであった。マリシャス氏はその気になれば、法外な金額を積むことで、いつでも私に勝つことができたのだ。私に返済不能な借金を負わせるよう誘導して、最後にその切り札を出す。私は完全に彼の手の中で踊らされていたのだ。
とそのときである……。
とげとげしく逆立った黒髪の青年がボストンバックを小脇に抱えて、テーブルの前にしゃしゃり出てきた。
「すみません、確認しておきますがマリシャスさん、あなたはさっき小切手が無効だとおっしゃいましたよね。掛け金は現金のみしか認めないと、それは間違いありませんね」
「あなたはいったい誰ですか。確かに私は先ほどその様に申しましたよ。彼女の切る小切手など、失礼ながら、とても信頼はできませんからねえ」
ルークがニヤリと笑った。
「言い換えれば、あなたの切る小切手も信用できないから無効ということで、よろしいですね」
そして、ルークは高らかに宣言した。
「皆さん、こちらのレディは僕のフィアンセです! ですから、彼女のお金はこれから僕が立て替えさせていただきます」
突然何を切り出すの? 私はびっくりして耳まで赤くなってしまった。ルークはボストンバッグから百ドル紙幣の札束を二つ取り出して、テーブルの上に放り投げた。
「あなたの5000ドルを受けて、さらにレイズ(上乗せ)15000ドル!」
ええっ、いったいどうなってしまったの? 今、テーブルの上には想像もできない高額の金額が積まれている。たかがポーカーのゲームなのに……。
今度はマリシャス氏が硬直する番だった。絶対の勝利から一転して最大の危機が訪れたのだ。突然現れた青年は大きなボストンバッグを持っている。まず考えられないことだが、もしもあのかばんの中身がすべて現金で埋まっているとすると、金で押し切られて自分は負けてしまう。このゲームではすでに6000ドル以上の金額を賭けている。負ければ大損害の一言では済まされない!……
しかし、やつはひとつミスを犯した。レイズする金額を15000ドルにケチったことだ。この私が15000ドルを現金で即座に用意できないと踏んだのであろう。貧乏人めが……。幸いなことに、私は今、かろうじて15000ドルの現金を手持ちで持っている。ここで、15000ドルの現金を出せば、次は私の番で、私はコールの宣言ができるのだ。コールをすれば、後はカードの勝負となる。それなら自分が負けることはあり得ない。どうやら最後の土壇場で青さが出てしまったようだな。
「よし、上乗せの15000ドルを受けよう。そして、コールだ!」
マリシャス氏は不気味な笑みを表情に浮かべて、懐から15000ドルの札束を取り出してテーブルの上に置いた。総額21300ドルの勝負! テーブルの上には全部で41600ドルの現金と私の借用書が無造作に散らばっている。コールが宣言されたのでカードの勝負となるが、なにしろ私の手役はただのワンペアである。しかし、もう引き返すことはできない。カードをオープンするだけだ。負けたら、私は1000ドルの借金を背負い、さらには借用書に書かれた約束を果たさなければならない。ルークも法外な大金をみすみすマリシャス氏に奪われてしまうことになる。
マリシャス氏は自分のカードをテーブルにさらすと、落ち着きはらって言った。
「私の手はAのワンペアです。さあ、お嬢さんあなたのカードを開いてください」
おお、何ということだ!
「私の役もAのワンペアです……」私は小声で答えた。
マリシャス氏は少々驚いた様子を見せたが、すぐに冷静な声で、
「おやおや、そうですか。でも私にはネクストカードとしてKがありますからね。私の勝ちですな」
そこにルークがしゃしゃり出た。
「お待ちください。彼女のネクストカードもKですよ。それに、彼女はその次のカードとしてQを所有していますが、あなたの次に大きい数字はJですよね。残念ですねえ。どうやら、この大一番の勝負は彼女の勝ちですね」
私の5枚の数字はA,A,K,Q,10であるが、マリシャス氏の5枚はA,A,K,J,5であった。つまり、役は2人とも同じAのワンペアなのだが、残りのハイカードの差で私の手役のほうが高いのだ!
「馬鹿な……。Aのワンペアに加えてKをネクストカードに持っていれば、相手の手役がワンペアである限り断じて負けることなど……。そっ、そんなことが……」詐欺師は頭を抱え込んでうずくまった。
「それでは、お金はいただきますよ。マリシャスさん、彼女が借りた1000ドルと、さらにそのお礼として1000ドルの利子をお返しいたします」
ルークはマリシャス氏の前に、百ドル札二十枚を投げ捨てた。さらに、ルークはディーラーに300ドルのチップを手渡した。
「さてと、長居は無用だ。お嬢さん行きましょう」
そう言って、ルークは私の手を取ると、急ぎ足で部屋から駆け出した。
「本当に驚いたわ。あなた、未来を予知できるのなら、どうして私にあんな指示を出したのか、きちんと説明してもらうからね。私を混乱させた罪は重いわよ!」
「何のことですか。僕が何かおかしな指示でもしましたかね」ルークはきょとんとした。
「最終的には勝ったからいいものの、なぜ、始めのA、Q、Q、10、6の手札から、6はまあいいとして、Qを捨てるように指示したのよ? Qを残していればAとQのツーペアが完成していたわ。もっと余裕で勝てたじゃない。あんなに際どい勝負に持ち込まなくても……」
ルークは微笑みながらいった。「なんだ、そのことですか。もう、話しながらお分かりなのではないですか。あなたには、いろいろ癖があって……、正直ポーカーには向いていませんね。今後は遊びでも、まかり間違ってこんなに大金を賭けることのないようにしてくださいね」
「もちろん、今日の件に関しては、大いに反省はしているわよ。でも、私の癖って、例えば何よ?」
ルークはくすくすと笑いながら答えた。「あなたは良いカードが来たときには、無意識にそのカードを見て目を丸くしてからそのあとで相手の顔をちらっと眺めます。でも、悪いカードが来たときには、じっとそのカードを見据えて凍り付いてしまう。つまり、配られたカードをあなたが眺めている時間の間隔で、相手にはあなたの手の良し悪しが分かってしまうのです」
私は顔が赤くなった。それならばそのことを指摘してくれればいいのに……。
「また、大事な勝負どこでは、あなたは配られたカードを一枚ずつめくって中身を確認しますよね。それらの癖はうまく利用させていただきましたよ」
「どうゆうこと?」
「あなたの分かりやすいリアクションを利用すれば、逆に詐欺師マリシャスを欺けるからですよ。最後のゲームであなたはストレート狙い。交換した二枚のうち、一枚目はストレートに必要なカードでした。それをめくったときに、あなたは無意識に良いカードを得たという反応を出すから、マリシャス氏もそれに気づきます。ところが、次にめくった二枚目はストレートにならないカードでした。あなたは僕を信じてストレートができるとばかり思い込んでいましたから、天国から地獄へまっさかさまに落ちてしまったかのような衝撃を受けて、激しい落胆の表情を出してしまう。当然、マリシャス氏もそれを察知します。
ここで、落ち着いて考えてみましょう。手元に三枚を残して交換した二枚の返しのカードで、一枚目は大いに喜び、二枚目で激しく落胆する、という状況からいったいどんな手役が浮かび上がるのでしょうか? 一枚目で喜んだということは手役が一歩前進したことを意味します。このときに、もしツーペア以上の役、スリーカードやフォアカードなど、が完成していれば、二枚目の大きな落胆の表情をあなたが出すことはあり得ない。つまり、二枚目で落胆したあなたの手は必然的に、ストレートかフラッシュ崩れの、ブタ(役なし)、あるいは良くてもせいぜいワンペア、であることになります。一方、そのときのマリシャス氏の手役は、Aのワンペアであり、なおかつネクストカードにKを所有しています。
普段ならば、用心深い彼はワンペアの手役では大勝負には乗ってこないでしょう。ところが、今回はあなたのリアクションによりあなたの手役はワンペア以下であることが保障されています。となれば、当然彼は勝負をしてきます。しかも、氏には絶対に負けるはずのない切り札もありました。あなたが支払い不能な金額をレイズすれば無条件で勝ちなのですから。しかし、その気の緩みが、用心深かったマリシャス氏のミスを誘発することとなり、付け入る隙となったわけですよ」
「マリシャスさんのミスって何?」
「ひとつは彼のワンペアが必ずしも最強のワンペアではなかったのに、勝負に乗ってしまったこと。もうひとつは20000ドルもの大金を、わざわざ賭けてくれたことですね」
「大体分かったわ。でも、ちょっと待ってよ。だったら、なぜスペードのQを残してダイヤのQを捨てることを、ことさら強調したの? 結局はどちらでも同じでしょ。それなら、ダイヤのQを留めてフラッシュの可能性を残しておいても、何も問題はなかったじゃない」
ルークはにっこり笑った。「ふふふ。実はそこが肝心のところなのですけどね。今回の作戦で一番の鍵は、あなたのゼスチャーなのです。最後の一枚をめくったときに、あなたが間髪をいれずに落胆することが、勝利のために不可欠であったのです。もしストレートとフラッシュの両方が狙えるように手札を残していると、最後の一枚をめくってから、あなたがどちらの手役も完成していないことを確認するまでに、ほんのわずかの間ができてしまうおそれがありました。その間のためにマリシャス氏の気持ちが揺らぐことがあっては、すべてがご破算になってしまいます。ストレートだけに集中していれば、カードがJでないことを確認した瞬間に、あなたは大きく落胆する。それこそが、あなたの手がワンペア以下であるという確信をマリシャス氏に抱かせる罠となるのです」
「あなたって本当に意地悪な人ね」本心から私はそう言った。
「大事なことは個々のバトルに勝つことではなく、ひとつの大勝負に勝つことです。でも、相手は用心深い人物ですから、絶対に勝てるという確信を抱かせないと大勝負に乗ってきません。そこが、一番難しいことでした」
自分よりも年下かもしれない青年の綿密な思慮深さに、私は心底感服させられた。
「ねえ、ルーク、あなたってお金持ちなのね」
「ああ、このお金ですね。これは実は無断でお借りしたものでして、今から返してきます。しばらく、ここで待っていてください」
ルークは少しだけ席をはずしたが、すぐに戻ってきた。
「もう返してきたの。いったい、どこからそんな大金を借りたの?」
「そいつは、申し上げられません。でも、マリシャス氏から勝ち取ったお金はリアルですから、儲けは半々でいいですね」
「えっ、あたしは窮地を助けてもらっただけで十分感謝しているの。そのお金は全部あなたのものよ」
「そうは行きませんよ。今日の勝利は二人の共同戦術によるものです。あなたの名演技なくして、この大金は手に入らなかったでしょう」ルークはそう告げると、私に10000ドルの札束を手渡した。
「とにかく、夢を見ているみたいだわ。ねえ、ルーク、あなたはまるでタイムマシンに乗って、未来からやってきた人のようね。あらかじめ、ゲームの成り行きを見てから、私に的確な指示を出していたとしか思えない……。ひょっとしたら、本当にあなたは私の将来のフィアンセなのじゃないの? あなたって私のタイプだもの……」
私はちょっとからかってみたつもりだったが、ルークの狼狽は予想以上だった。彼は顔を真っ赤に引き攣らせて否定した。
「いや、それはとても光栄なことですけども、残念ながら……。その、すみません」
「ふーん、そうじゃないのなら……。ひょっとしたら、あなたは私の子孫かしら。そうだ、きっとそれよ! だから、私を助けてくれたのね……」
顔を赤らめたルークはかわいかったけど、私はこれ以上からかうのはやめておいた。
「まあ、とにかくこれであなたは無事に日本に帰ることができます。国に帰ればきっと素敵な出会いがあなたを待ち受けていますよ」
こうして、私たちは別れたのだった。
ルークは二十三世紀に帰還する時間移動装置の中で物思いにふけていた。丸山文佳……。とても魅力的な女性であった。自らの使命がなければ、彼女と共に生活をしてもいいとさえ考えてしまった。今日は本当に疲れた一日であったがそれなりの収穫があった。ゲームが進行している間に、カードの確認や資金の調達のために、時間と空間を何度も往復しなければならなかった。たとえ使命のためとはいえ、今日の自分の行動によって、過去の時代は多少の変化を受けてしまっただろう。しかし、それは単に一人の女を助け、一人の詐欺師をどん底に叩き落したに過ぎない。まあ、許される範囲の変化であろう。しかしながら、別れ際に彼女が何気なく唱えた言葉……。女の勘の鋭さにはつくづく驚嘆させられる。
未来の国際組織MOTTのエリート調査員ルーク・ワレキューレ氏。今回の彼の使命は、丸山文佳――つまり将来の只野四郎の夫人となる只野文佳が、チンピラの妾となってしまうことを阻止することであった。もし、彼女が日本に帰れなくなり、その結果として只野四郎との出会いが実現しなければ、その後の重要な調査が根本から破綻してしまうのだ。ルーク・ワレキューレ氏にとって、それだけは決してあってはならないことであった――。 (完)