後編:騎士と魔女
鐘が鳴り、彼方此方で花や紙吹雪が舞う。
建国祭を迎えたこの日、マルベリー王国は祝福の空気に包まれていた。
王族による式典は無事に終わり、貴族達は夜会の為に宮殿へと向かっていた。
フローリアは家族と共に、馬車に乗る。
これからの予定を話し合う家族を余所に、フローリアは婚約破棄の場面を想像して恐々としていた。
先程の式典の内容も、ラモン帝国の皇帝が危険そうだった事しか記憶にない。
宮殿に到着したカリチェ伯爵家の馬車は、なぜか裏門へと回された。
案内された先は、何の準備もされていない大広間。
先に来ていた他の貴族達も、何事かと話し合っている。
フローリアはエリオットの姿を探すが、王族や騎士団はこの場にいないようだった。
(まさか、先に私の婚約破棄から……)
フローリアの脳内には、大広間の扉を勢いよく開ける婚約者と、自分を捕縛する騎士団の姿が――
「フローリア嬢・カリチェ嬢!」
聞き慣れぬ男の声に、フローリアは縮み上がる。
自分の前に立つ妹の頭越しに、男女の集団が見えた。
腰に剣を下げ、紺色の制服を纏っている――エリオットと同じ、王立騎士団の人間のようだ。
彼らは、フローリアの姿を見つけると、早足で近付いて来た。
「娘に何か用ですか?」
険しい口調で、カリチェ伯爵が騎士の前に立ち塞がる。
その姿に、騎士達は姿勢を正した。
「申し訳ありません。フローリア嬢にどうしても伝えたい事が……」
伯爵夫妻は、どうしたものかと顔を見合わせる。
(騎士団の方……もしかして)
とうとうこの時が――フローリアは意を決して、前に出る。
「……どうぞ、お話しください」
自分はこれから、エリオットの前に引き渡される。
覚悟を決めていたフローリアであったが、彼らの言葉は予想だにしないものであった。
「エリオット様が……」
ふらり、と足元が揺らぐ。
思わず倒れそうになるが、母が後ろから支えた。
「どういうことですかっ」
言葉の出ないフローリアの代わりに、妹が口を開く。
エリオット・ジェンマは、本日処刑される――騎士達の説明は、周囲の者達にも衝撃を与えていた。
「……先日、ラモン帝国から要請がありました」
ラモン帝国と言えば、失墜の森に面する国々の中でも有数の大国。
好戦的な国民性を有し、幾多の兵士と兵器を備えていると評判であった。
非道の限りを尽くした父を処刑した現皇帝は、他の親族とも熾烈な争いを経て即位したらしい。
「帝国が、どうして……」
「……隊長は、皇族の血を引いています」
前皇帝から冷遇され、逃げ延びた姫君――現皇帝の叔母にあたる人物が、ジェンマ侯爵の保護を受けたらしい。
二人は結ばれて、姫君は命がけで子を産んだ。
赤子を守る為に、ジェンマ侯爵は現在の夫人と結婚したという。
「エリオット様とクレイトン様は、異母兄弟になるのですね……」
フローリアは、侯爵家の面々を思い出す。
とても仲睦まじそうな家族に、そんな事情があったとは――
「ラモン帝国で姫君は死んだものと思われていました。しかし、今になってエリオット隊長が姫君の子だと産婆が密告したようです」
金欲しさでしょうが、と騎士は侮蔑するように吐き捨てた。
「皇帝は隊長の存在を危惧したようです。争いの火種になる、と。王国内でも議論がされましたが、隊長は国の為に自ら希望されたのです」
戦いに疎いフローリアでも、軍事力で上回る帝国に盾突くことは無理だと理解できる。
「マルティナへの引継ぎを済ませた隊長は、最後までフローリア嬢の事を心配されていました。……貴方に瑕疵が付くことないように、自分が事故で死んだことにしてほしいと」
『マルティナも了承済みです』――フローリアは、以前に聞いた言葉を思い出した。
「このような時に、申し訳ありません。ですが、我々は、どうしても、貴女に真実を知っていて欲しかった……」
最後まで反対していた彼らは、今まで謹慎を命じられていたらしい。
(エリオット様が、帝国に……)
自分一人が犠牲になれば――彼らしい選択だと、思う。
フローリアも、伯爵家の娘として、王国を守る気持ちは分かる。
しかし、それでも――
(私、エリオット様に……)
フローリアは咄嗟に走り出す。
しかし、すぐに抱き留められた。
「貴女が行ってはなりません」
声を震わすジェンマ侯爵夫人の目には、光る物が見えた。
二人の周囲に、他の貴族達も集まる。
「他に手段が無い……」
「どうか、耐えてくれ」
口々に呟く彼らは、無念の表情を浮かべている。
一人の命より国の安寧を優先する――貴族として、当然の判断だろう。
(でも……それでも、私は、エリオット様に生きて欲しい……私なんかの命を差し出してもいいから……どうか、あの人の所に行かせて)
フローリアの願いが届いたかのように、風が吹いた。
その場にいた者達が、目を閉じてしまうような、強い風であった。
「まあ……」
フローリアの目の前には、箒が飛んできていた。
地面とは水平にふわふわと浮いている姿から、乗れという意思を感じた。
箒は他の者にも見えているらしく、驚きの声が漏れている。
フローリアはそっと箒を握る。
(カイメラ様、本当に……)
ドレスが捲れることも気にせず、フローリアは跨った。
「……お願い、エリオット様の所まで行きたいの」
箒は高く浮き、戸惑う人々の垣根を飛び越えた。
走るより早く、箒は飛ぶ。
行き先は、おそらく、謁見の間。
通り過ぎる人々が、目を丸くしてフローリアを見つめていた。
謁見の間には、多くの人々が集まっていた。
玉座に腰掛ける国王と、周囲を囲む騎士団。
玉座を見上げる皇帝と、後ろに並ぶ兵士達。
天窓から入り込んだフローリアの姿に、誰も気付いていないようだ。
ラモン帝国の皇帝は、式典で見た時と同様、殺伐とした印象を与える男であった。
まだ若く見えるが、額から鼻梁にかけて深々と傷が刻まれており、冷たい双眸で玉座を見つめていた。
「返答を聞かせてもらおうか」
皇帝が言葉を発すると、国王は軽く頷く。
騎士団の中からエリオットが姿を現した。
制服を着ているが、武器は無く、手を拘束されている。
エリオットは、ゆっくりと皇帝の前に歩み寄る。
その姿を、騎士団の面々は悔しさを滲ませて見送っていた。
皇帝はエリオットの顔を見ると、満足そうに頷く。
「よく似ている……謀る気はなさそうだな」
皇帝は腰に差していた剣を抜き、高く掲げた。
エリオットに抵抗の意思はないようで、その場に跪いた。
「従弟殿、申し訳ないが……これも禍根を残さぬためだ」
皇帝が剣を振り下ろす。
「駄目っ!」
フローリアは、咄嗟に飛び出していた。
箒に乗ったまま、エリオットの前に出る。
突然の横入りに、皇帝は眉間に皺を寄せるが、剣を止める様子はない。
「フローリア!」
婚約者の悲痛な叫びや、誰かの息を呑む音――全てをかき消すような雷鳴が轟いた。
想像していたような痛みや衝撃は無く、フローリアは目を開ける。
(私、一瞬で召されてしまったのかしら?)
そんな考えも過ぎったが、目の前には眉間に皺を寄せる皇帝。
彼が手にしている剣は、根元から歪に欠けていた。
よく見れば、帝国の兵達が携えていた武器は全て破壊されているようだ。
皆が自らの武器を手に困惑している。
「……随分と楽しいことやってるじゃねぇか」
聞き覚えのある声は、高い場所から。
声のした方を見上げると、天井から吊るされた照明に、誰かが座っていた。
金色の柔らかな髪から伸びる、山羊のような角。
幼子の体であるが、纏う衣装は肩や腿が露わになった煽情的な物。
さらには、裾からは蛇のような尻尾が伸びていた。
「よお、愚民ども。元気か?」
「まさか……カイメラ様!?」
姿形こそ違えど、声や語り口は、あの怪物のそれ。
「カイメラ?」
「失墜の森の……?」
周囲からも、驚きの声が上がる。
「ああそうさ。俺様こそが失墜の森の怪物、強くて怖ぁいカイメラ様だ!」
怪物を名乗る存在は、両手を広げて照明の上で回った。
「ふざけた事を……」
皇帝は、そんな怪物に向かって懐から短剣を投げる。
短剣はカイメラの元へと吸い込まれるように飛び――小さな破裂音と共に、焼き菓子に姿を変えた。
「おうおう、貢ぎ物とはいい心がけだぁ」
怪物はくずをまき散らし、ゆっくりと噛み砕く。
皇帝の眉間の皺が、ますます深くなった。
あれには手を出してはいけない――誰もが、そう感じ取ったようだ。
怪物が菓子を堪能する姿を、無言で見つめていた。
「今日は愚民共に良い事を教えてやるよ」
口元を拭うとカイメラは飛び降りる。
空中で姿を変え、猫のような姿で箒の上に着地した。
「なんだ、あれは……」
「怪物が変身したのか?」
戸惑いの声など気にせず、カイメラは声を張り上げた。
「失墜の魔女からのお達しだ。次代の魔女は、このフローリア・カリチェが継承する!」
その言葉に、皆の視線がフローリアへと移る。
「わ、私が?」
フローリアの困惑を余所に、カイメラは皇帝を睨む。
「俺様の新しいご主人様をいじめる奴らは、お仕置きしてやらないとなぁ」
カイメラはわざとらしく舌なめずり。
その姿に、帝国の兵の中には後ずさりする者もちらほらと。
「みんな俺様のおやつにしてやろうか、それともお前らの顎を……」
「……あの、カイメラ様?」
何やら恐ろしい言葉が飛び出しそうなので、フローリアは思わず声を掛けた。
「そこまでしなくても……」
「なんだ、つまらねぇな。八か九番目かの魔女は、自分を裏切った婚約者と家族に――」
「そ、それはやめましょう?」
フローリアとしては、一国を滅ぼすような行為に加担したくはない。
「私が望むのは、マルベリー王国の……そして、エリオット様の安寧だけ」
フローリアは箒から降り、皇帝と向き合う。
自分より遙かに高い背を持つ彼を見上げた。
「どうか、お引き取り下さい」
皇帝はフローリアとカイメラを見やり――少し、口元を緩めた。
「従弟殿」
婚約者に向かって、口を開く。
「叛逆を起こさぬと誓えるか?」
「はい……私が求めるものは、帝国にありません故」
その言葉に、皇帝は満足そうに頷いた。
「よかろう……ならば、この地にいる理由は無い」
まあ、他に争う理由が出来るかもしれんがな……と小さな呟きが聞こえた。
「国王陛下、失礼したな」
皇帝はそう言うと、兵士達を引き連れて出て行った。
彼らの姿が見えなくなると、国王や騎士達から安堵の声が漏れる。
「何だ、つまらねぇな」
先程までの迫力は何処へやら。
蛇の尻尾をぶらぶらさせる姿は可愛らしい。
「これで良かったのよ……ありがとう、カイメラ様」
フローリアは、思わずカイメラを抱きしめていた。
「なに、新しいご主人様の為さ。良いってことよ」
カイメラも満足そうに喉を鳴らしている。
「これで、私、心残りは無いわ」
カイメラの力を示すことで、帝国への抑止力となった。
禍根を余り残すことなく、エリオットの命を救うことが出来たのだ。
(これで、エリオット様は幸せに……)
「次代の魔女、がどういう物か分からないけど……私、あなたと共に行けばいいのね?」
これまでの魔女のように、失墜の森の奥深くへ――
フローリアは再び箒に跨る。
高く飛び上がろうとして――急に誰かに抱きしめられた。
「え……エリオット様?」
いつの間にか拘束を解かれた婚約者だった。
初めての行為に、思わず胸が高鳴ってしまう。
「フローリア……良かった。本当に良かった」
彼はいつもの端正な顔を歪め、涙を流していた。
「貴女が死ぬかと思った……」
「私、エリオット様の為ならこの命ぐらい……」
「嫌だ。貴女を犠牲にした命なんていらない。貴女は、私の生きる希望なのだから」
婚約者の今まで見たことの無い姿に、フローリアは戸惑っていた。
(どういうことなの……?)
そんな彼女に近付く、一人の騎士がいた。
「私、エリオットが帝国に処刑されると聞いた時……王国の為なら仕方ないって諦めていました」
フローリアは、初めてマルティナの笑顔を見た気がした。
「ずっと、どうして彼の隣にいるのが私じゃなくて貴女なのだろうって思っていたけど……今なら、それが分かる気がします」
彼女は一礼すると、その場を去って行った。
他の騎士達は、困ったような笑みを浮かべてエリオットを見ていた。
その後ろで、国王は周囲の者に指示を出している。
「また遊びに来てやるぜ。俺様の為に、良いブラシを用意しとけよ」
そっと、フローリアの耳元で囁く声。
いつの間にか、カイメラの姿は消えていた。
「エリオットは貴女を雛鳥のように大切にしていましたが……」
顛末を聞いた侯爵夫人は、曖昧な笑みを浮かべていた。
「それが、間違いだったのでしょうね……あの子は……私達は侮っていたのでしょう……貴女の思い込み……執念……いえ、心の強さを」
フローリアは『ジェンマの姫君』から『ジェンマの魔女』と呼ばれるようになった。
初めは注目を浴びたものの、いつしかフローリアが箒に跨って空を飛ぶ姿は、日常の光景となっていった。
結婚を控えた時、義弟から秘密の話を聞いた。
「兄さんは恥ずかしいから言わないと思うけど……フローリアさんと結婚したいって言ったのはあの人だよ」
自分が決めた事には頑として取り組むひたむきさ――彼はどうやら、学院の頃に自分を見初めていたらしい。
フローリアの初めて知る事実だった。
今まで入ったことの無いエリオットの部屋に行く機会もあった。
フローリアが贈った刺繍入りのハンカチは全て額に入れて飾られていた事に驚いた。
……ちょっと気持ち悪いな、と思ったことは、生涯の秘密にしようと思う。
それからもフローリアとエリオットは、順調に絆を深めていった。
二人に危機が訪れたのは、ラモンの皇帝が「その気概よし。妾にならぬか」と花束を抱えてきた時。
また帝国との諍いが……と皆が慌てたが、それは杞憂に終わる。
皇帝に決闘を挑んだマルティナと意気投合し、彼女は皇妃として迎えられた。
どうやら失墜の森の魔女となったらしいフローリアだが、森で暮らす事はなかった。
気が付けば、彼女の部屋でカイメラが寛いでいるだけ。
フローリアは毛並みを整えたり、一緒に出掛けたり――
そんな関係は、フローリアが結婚し、子や孫が生まれてからも続いた。
そして、マルベリー王国には、魔女に関する逸話が幾つか残るようになる。
風のように空を飛び、騎士を助けに行く勇敢な魔女。
晴れた夜には箒を天に掲げ、必死の形相で耐える風変わりな魔女。
婚約者と家族に裏切られた令嬢を箒に乗せ、安寧の地へ届ける優しき魔女。
それらの逸話の中には、必ず、山羊の角と蛇の尻尾を持つ猫のような生き物が語られていた。