前編:騎士と姫君
剣戟を振るう音が、青空の下で響く。
手に重い衝撃を感じた瞬間、自分の剣は空を舞っていた。
その勢いに耐え切れず、フローリア・カリチェは地面に尻餅をついた。
「そこまで」
傍で見守っていた侯爵夫人が手を叩く。
今日の稽古が終わった事を示す合図であった。
フローリアの剣を弾き飛ばした女性騎士は、軽く一礼すると、足早に去って行った。
フローリアは、マルベリー王国に住む伯爵令嬢であった。
金糸の髪と碧い瞳を持つ彼女は『深窓の令嬢』『姫君のような美しさ』と称される。
しかし、ただ褒めそやすだけの言葉ではない――と彼女が一番理解していた。
遙か昔、恐ろしい怪物とそれを封印した魔女の伝説が残る『失墜の森』に面するマルベリー王国では、“心身の強さ”を尊ぶ風潮があった。
武器を持つ者も、持たぬ者も、己を高める事を義務付けられる。
そんな国の中で、フローリアはとても平凡な令嬢であった。
学院の成績はそこそこで、運動神経は今一つ。
弟妹のように武芸の才に恵まれず、従姉のように“完璧な令嬢”と呼ばれる程の振る舞いは出来ず。
どこかで発揮できる程の能力もない自分は、社交や家政の手伝いを任せるのに丁度良かった――ジェンマ侯爵家から縁談を打診された時に、フローリアはそう得心した。
学院を卒業してからは、王都の邸宅から侯爵家に通う日々を過ごしている。
エリオット・ジェンマが婚約者となった時、フローリアはとても驚いた。
彼は学院時代から優秀で、今は王立騎士団の一小隊を率いる程の実力者。
黒髪黒目の麗しい容姿で、多くの令嬢から密かに慕われていた。
フローリアも学院に在籍している時に何度か彼を見かける事はあったが、直接話す機会は無かった。
婚約者として初めて顔を合わせた日には、緊張や申し訳なさで殆ど会話が出来なかった。
何一つ優れた部分が無くとも、エリオットはフローリアを貶すことなく、婚約者として尊重してくれる。
フローリアは彼の柔らかな笑顔や紳士的な振る舞いに、次第に惹かれていくようになっていた。
少しでも彼に相応しい女性になりたいと決意したフローリアは、ジェンマ侯爵夫人から剣術を教わる事にした。
かつて王妃の護衛を務めていたという夫人は、一線を退いてもなお腕は衰えていないと有名だった。
エリオットの従妹で小隊の部下でもあるマルティナを練習相手に、フローリアは日々奮闘している――が、上達する気配は無かった。
「……そういえば、エリオットが居ませんね」
フローリアを助け起こした侯爵夫人が呟く。
稽古の後、疲れ果てたフローリアの手を取るのは婚約者の仕事であった。
いつもなら、打ち合いが終わった際に彼はどこからともなく現れるのだが――
周囲を見渡しても、姿がない。
(今日はお仕事なのかしら)
騎士団に勤める傍ら、侯爵家の長男として当主を支えているエリオットは忙しい。
少し寂しいが、それなら挨拶だけしてから帰るとしよう――フローリアはそう決めた。
「私、御挨拶に行ってきます」
使用人に剣を預けると、フローリアは屋敷の中へと向かった。
既に勝手知ったる場所となった侯爵家。
掃除をしていた女中から、『坊ちゃまなら若旦那様と書斎におられますよ』と教えてもらい、階段を上がる。
前当主亡き後、後継には次男のクレイトンが後継に指名された。
彼は学院を首席で卒業した優等生であり、エリオットも『私は剣を握っている方が性に合うからね』と話したため、周囲も納得した。
父親似のエリオットと母親似のクレイトンは、見た目や性格こそ違うものの、良好な関係を保っている。
階段を上がり、目的地は一番奥の扉。
少し服を整えてから、扉を叩こうとして――
「建国祭で、私達の関係は終わります」
どこか投げやりに聞こえる声は、明らかに婚約者が発したもの。
「早まらないでくれ、兄さん」
「もう決めた事です。マルティナも了承済みだ」
「フローリア嬢はどうなる?」
「もっと相応しい男がいるでしょう」
(エリオット様……どういう事なの?)
聞き慣れた兄弟の声。
しかし、会話の内容に嫌な物を感じた。
「……この話は終わりです」
その言葉を聞いたフローリアは、そっと部屋から離れた。
なるべく音を立てず、急いで階段を降りる。
くるりと振り向けば、婚約者が降りてくる姿。
「ああ、フローリア」
自分の姿を見つけると、彼は、いつもの優しい微笑みを浮かべてくれる。
しかし、少し翳りが見えるのは、窓からの日差しのせいだけだろうか。
「ごきげんよう、エリオット様」
エリオットは、いつものように、数歩離れた距離で此方を見下ろしている。
「少し、顔色が悪いのでは……?」
「そ、そんな事ありませんわ」
後ろめたさについ声が上擦ってしまうが、先程の会話を盗み聞いたなどとは思っていないようだ。
「やはり、訓練が厳しいのでは? 私から母上に……」
「いえ、そんな事はありませんっ」
フローリアは、慌てて婚約者の言葉を遮る。
剣術は、少しでも彼に相応しい妻になるために始めた事。
(そのような事を言うなんて……私に諦めろと仰りたいのね)
「……私、そろそろ失礼致します」
このまま彼の前にいては、悲しさを堪えきれない――
フローリアは、急いで侯爵家を後にした。
馬車の中で待っていた侍女に声を掛け、帰路へと向かう。
(関係が終わるって……私達の婚約の事よね?)
先程聞いた会話が、頭の中で何度も繰り返される。
十日後の建国祭では、式典と夜会が開かれる。
失墜の森に面する他国も参加するため、例年よりも大規模になると聞いていた。
彼の口振りでは、なにかが起こるらしい。
自分と、マルティナも関係する事――
(まさか……)
フローリアは、己の考えに戦慄した。
(エリオット様は、マルティナ様を伴侶に望まれているのかしら……)
マルティナ・ジェンマは、切れ長の紫紺の瞳が目立つ美しい女性だった。
優れた武勇は並みの男では太刀打ちできず、フローリアの妹も尊敬しているらしい。
自分よりも強く美しい令嬢――エリオットがどちらを選ぶかは明白。
(建国祭の時に、婚約の解消を打診されるのでは……いいえ、こんな不出来な私ですもの……きっと、婚約破棄されてしまうのだわ)
寝ても覚めても悪い考えは頭を過ぎり、何をするのも憂鬱だった。
「いい色が見つかりましたね。これで、エリオット様も喜んでくれますね」
「そうだと良いけれど……」
今日は、前々から頼んでいた外出の日。
フローリアは侍女を伴って洋品店へ赴いていた。
機嫌の良い侍女に、彼女は上の空で返す。
刺繍は、フローリアが人並みに出来る、数少ない事。
『大切にします。よろしければ、また贈って下さい』
その言葉が嬉しくて、心を込めて刺したものだ。
エリオットの為にハンカチに刺繍を続け、これで何枚目になるのだろうか――思い出せば、彼がそれを手にしている姿を見たことが無い。
(今までの贈り物も迷惑だったのかしら……)
何をするにも、婚約者の事が頭から離れない。
建国祭で婚約破棄をされるなら、自分はどうすべきだろうか――フローリアは、ずっとその事に悩んでいた。
泣くような醜態をさらして、彼の負担になりたくない。
でも、彼の幸せを近くで見続ける人生も、耐えうる自信が無い。
家族に言えば、何かしらの対処をしてくれるだろうが、自分の事で迷惑を掛けたくはない。
多大な利益を生む婚約でもないし、婚約破棄後も両家の立場は問題ないだろう。
(私一人が穏便に消えてしまえば、エリオット様が幸せに……でも、どうすれば……)
ふと、市場の近くで、馬車が止まる。
「申し訳ありません、魔女様の買い物に重なったようで」
魔女様、と呼ばれる存在はただ一人。
失墜の森の魔女は、自らの命が尽きる際に、強大な魔力を次代に引き継いだという。
歴代の魔女は怪物を封印する為に森の奥深くに住んでおり、必需品を求める時のみ外に出るらしい。
フローリアは物珍しさに窓から覗くが、市井では見慣れた光景らしく、足を止める者はいない。
しかし、魔女の怒りを買わないよう皆が遠巻きに歩くため、市場は混雑していた。
(あの方が、森の魔女様……優しいお婆様に見えるけれど……)
黒衣を纏う老婆が箒に乗り、ゆったりとした速度で市場の中を進んでいた。
通貨を払い、後ろを付いて回る絨毯らしき布に商品を積んでいく。
(あのようにして空を飛ぶのね……)
ぼんやりと魔女を眺めていたフローリアは、ふと閃いた。
「ごめんなさい、私、用事が出来たわ」
スカーフを頭に巻くと、急いで馬車から降りる。
「お嬢様!」
後ろで侍女の叫ぶ声が聞こえたが、フローリアは人込みの中に紛れ込んだ。
歩くような速度で飛ぶ箒を、こっそりと追う。
市場の奥へと進み、いつの間にか人気のない場所に入り込んでいた。
フローリアの足音だけが響く場所で、魔女はくるりと振り返った。
「なんの用かい、お嬢さん」
フローリアの予想に反して、声色は穏やか。
魔女は皺が刻まれた目元を細め、柔和な顔で微笑んでいた。
「失墜の森の魔女様、お願いがあるのです……」
怪物よりも恐ろしいと噂される魔女を前に、フローリアは声の震えを抑えきれない。
「私はカリチェ伯爵家の長女、フローリアと申します」
「……ああ、知っているよ。ジェンマのお姫様だろう?」。
(私の事は、そこまで有名なのね……)
王国内でも有数の実力者と称されるエリオットと、非力な婚約者――フローリアは、騎士の詰所を訪ねた際に、彼らの会話を聞いたことがある。
悲しい出来事を思い出して俯いてしまうが。
「あの……」
今はそれよりも、と堪えて再び魔女の顔を見る。
「私に……箒を譲っていただけませんか?」