表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/3

前編:騎士と姫君

 剣戟を振るう音が、青空の下で響く。


 手に重い衝撃を感じた瞬間、自分の剣は空を舞っていた。

 その勢いに耐え切れず、フローリア・カリチェは地面に尻餅をついた。


「そこまで」

 傍で見守っていた侯爵夫人が手を叩く。

 今日の稽古が終わった事を示す合図であった。


 フローリアの剣を弾き飛ばした女性騎士は、軽く一礼すると、足早に去って行った。



 フローリアは、マルベリー王国に住む伯爵令嬢であった。


 金糸の髪と碧い瞳を持つ彼女は『深窓の令嬢』『姫君のような美しさ』と称される。

 しかし、ただ褒めそやすだけの言葉ではない――と彼女が一番理解していた。



 遙か昔、恐ろしい怪物とそれを封印した魔女の伝説が残る『失墜の森』に面するマルベリー王国では、“心身の強さ”を尊ぶ風潮があった。

 武器を持つ者も、持たぬ者も、己を高める事を義務付けられる。


 そんな国の中で、フローリアはとても平凡な令嬢であった。

 学院の成績はそこそこで、運動神経は今一つ。

 弟妹のように武芸の才に恵まれず、従姉のように“完璧な令嬢”と呼ばれる程の振る舞いは出来ず。


 どこかで発揮できる程の能力もない自分は、社交や家政の手伝いを任せるのに丁度良かった――ジェンマ侯爵家から縁談を打診された時に、フローリアはそう得心した。

 学院を卒業してからは、王都の邸宅から侯爵家に通う日々を過ごしている。



 エリオット・ジェンマが婚約者となった時、フローリアはとても驚いた。

 彼は学院時代から優秀で、今は王立騎士団の一小隊を率いる程の実力者。

 黒髪黒目の麗しい容姿で、多くの令嬢から密かに慕われていた。


 フローリアも学院に在籍している時に何度か彼を見かける事はあったが、直接話す機会は無かった。

 婚約者として初めて顔を合わせた日には、緊張や申し訳なさで殆ど会話が出来なかった。


 何一つ優れた部分が無くとも、エリオットはフローリアを貶すことなく、婚約者として尊重してくれる。

 フローリアは彼の柔らかな笑顔や紳士的な振る舞いに、次第に惹かれていくようになっていた。


 少しでも彼に相応しい女性になりたいと決意したフローリアは、ジェンマ侯爵夫人から剣術を教わる事にした。

 かつて王妃の護衛を務めていたという夫人は、一線を退いてもなお腕は衰えていないと有名だった。

 エリオットの従妹で小隊の部下でもあるマルティナを練習相手に、フローリアは日々奮闘している――が、上達する気配は無かった。



「……そういえば、エリオットが居ませんね」

 フローリアを助け起こした侯爵夫人が呟く。


 稽古の後、疲れ果てたフローリアの手を取るのは婚約者の仕事であった。

 いつもなら、打ち合いが終わった際に彼はどこからともなく現れるのだが――

 周囲を見渡しても、姿がない。


(今日はお仕事なのかしら)

 騎士団に勤める傍ら、侯爵家の長男として当主を支えているエリオットは忙しい。

 少し寂しいが、それなら挨拶だけしてから帰るとしよう――フローリアはそう決めた。


「私、御挨拶に行ってきます」

 使用人に剣を預けると、フローリアは屋敷の中へと向かった。



 既に勝手知ったる場所となった侯爵家。

 掃除をしていた女中から、『坊ちゃまなら若旦那様と書斎におられますよ』と教えてもらい、階段を上がる。


 前当主亡き後、後継には次男のクレイトンが後継に指名された。

 彼は学院を首席で卒業した優等生であり、エリオットも『私は剣を握っている方が性に合うからね』と話したため、周囲も納得した。

 父親似のエリオットと母親似のクレイトンは、見た目や性格こそ違うものの、良好な関係を保っている。



 階段を上がり、目的地は一番奥の扉。

 少し服を整えてから、扉を叩こうとして――


「建国祭で、私達の関係は終わります」

 どこか投げやりに聞こえる声は、明らかに婚約者が発したもの。

「早まらないでくれ、兄さん」

「もう決めた事です。マルティナも了承済みだ」

「フローリア嬢はどうなる?」

「もっと相応しい男がいるでしょう」


(エリオット様……どういう事なの?)

 聞き慣れた兄弟の声。

 しかし、会話の内容に嫌な物を感じた。


「……この話は終わりです」

 その言葉を聞いたフローリアは、そっと部屋から離れた。


 なるべく音を立てず、急いで階段を降りる。

 くるりと振り向けば、婚約者が降りてくる姿。


「ああ、フローリア」

 自分の姿を見つけると、彼は、いつもの優しい微笑みを浮かべてくれる。

 しかし、少し翳りが見えるのは、窓からの日差しのせいだけだろうか。


「ごきげんよう、エリオット様」

 エリオットは、いつものように、数歩離れた距離で此方を見下ろしている。

「少し、顔色が悪いのでは……?」

「そ、そんな事ありませんわ」

 後ろめたさについ声が上擦ってしまうが、先程の会話を盗み聞いたなどとは思っていないようだ。


「やはり、訓練が厳しいのでは? 私から母上に……」

「いえ、そんな事はありませんっ」

 フローリアは、慌てて婚約者の言葉を遮る。


 剣術は、少しでも彼に相応しい妻になるために始めた事。

(そのような事を言うなんて……私に諦めろと仰りたいのね)


「……私、そろそろ失礼致します」

 このまま彼の前にいては、悲しさを堪えきれない――

 フローリアは、急いで侯爵家を後にした。



 馬車の中で待っていた侍女に声を掛け、帰路へと向かう。

(関係が終わるって……私達の婚約の事よね?)

 先程聞いた会話が、頭の中で何度も繰り返される。


 十日後の建国祭では、式典と夜会が開かれる。

 失墜の森に面する他国も参加するため、例年よりも大規模になると聞いていた。


 彼の口振りでは、なにかが起こるらしい。

 自分と、マルティナも関係する事――

(まさか……)

 フローリアは、己の考えに戦慄した。

(エリオット様は、マルティナ様を伴侶に望まれているのかしら……)


 マルティナ・ジェンマは、切れ長の紫紺の瞳が目立つ美しい女性だった。

 優れた武勇は並みの男では太刀打ちできず、フローリアの妹も尊敬しているらしい。


 自分よりも強く美しい令嬢――エリオットがどちらを選ぶかは明白。

(建国祭の時に、婚約の解消を打診されるのでは……いいえ、こんな不出来な私ですもの……きっと、婚約破棄されてしまうのだわ)



 寝ても覚めても悪い考えは頭を過ぎり、何をするのも憂鬱だった。


「いい色が見つかりましたね。これで、エリオット様も喜んでくれますね」

「そうだと良いけれど……」


 今日は、前々から頼んでいた外出の日。

 フローリアは侍女を伴って洋品店へ赴いていた。

 機嫌の良い侍女に、彼女は上の空で返す。


 刺繍は、フローリアが人並みに出来る、数少ない事。

『大切にします。よろしければ、また贈って下さい』

 その言葉が嬉しくて、心を込めて刺したものだ。


 エリオットの為にハンカチに刺繍を続け、これで何枚目になるのだろうか――思い出せば、彼がそれを手にしている姿を見たことが無い。

(今までの贈り物も迷惑だったのかしら……)


 何をするにも、婚約者の事が頭から離れない。

 建国祭で婚約破棄をされるなら、自分はどうすべきだろうか――フローリアは、ずっとその事に悩んでいた。

 泣くような醜態をさらして、彼の負担になりたくない。

 でも、彼の幸せを近くで見続ける人生も、耐えうる自信が無い。


 家族に言えば、何かしらの対処をしてくれるだろうが、自分の事で迷惑を掛けたくはない。

 多大な利益を生む婚約でもないし、婚約破棄後も両家の立場は問題ないだろう。

(私一人が穏便に消えてしまえば、エリオット様が幸せに……でも、どうすれば……)



 ふと、市場の近くで、馬車が止まる。

「申し訳ありません、魔女様の買い物に重なったようで」


 魔女様、と呼ばれる存在はただ一人。

 失墜の森の魔女は、自らの命が尽きる際に、強大な魔力を次代に引き継いだという。

 歴代の魔女は怪物を封印する為に森の奥深くに住んでおり、必需品を求める時のみ外に出るらしい。


 フローリアは物珍しさに窓から覗くが、市井では見慣れた光景らしく、足を止める者はいない。

 しかし、魔女の怒りを買わないよう皆が遠巻きに歩くため、市場は混雑していた。


(あの方が、森の魔女様……優しいお婆様に見えるけれど……)

 黒衣を纏う老婆が箒に乗り、ゆったりとした速度で市場の中を進んでいた。

 通貨を払い、後ろを付いて回る絨毯らしき布に商品を積んでいく。


(あのようにして空を飛ぶのね……)

 ぼんやりと魔女を眺めていたフローリアは、ふと閃いた。


「ごめんなさい、私、用事が出来たわ」

 スカーフを頭に巻くと、急いで馬車から降りる。

「お嬢様!」

 後ろで侍女の叫ぶ声が聞こえたが、フローリアは人込みの中に紛れ込んだ。



 歩くような速度で飛ぶ箒を、こっそりと追う。

 市場の奥へと進み、いつの間にか人気のない場所に入り込んでいた。


 フローリアの足音だけが響く場所で、魔女はくるりと振り返った。

「なんの用かい、お嬢さん」


 フローリアの予想に反して、声色は穏やか。

 魔女は皺が刻まれた目元を細め、柔和な顔で微笑んでいた。


「失墜の森の魔女様、お願いがあるのです……」

 怪物よりも恐ろしいと噂される魔女を前に、フローリアは声の震えを抑えきれない。


「私はカリチェ伯爵家の長女、フローリアと申します」

「……ああ、知っているよ。ジェンマのお姫様だろう?」。

(私の事は、そこまで有名なのね……)

 王国内でも有数の実力者と称されるエリオットと、非力な婚約者――フローリアは、騎士の詰所を訪ねた際に、彼らの会話を聞いたことがある。


 悲しい出来事を思い出して俯いてしまうが。

「あの……」

 今はそれよりも、と堪えて再び魔女の顔を見る。



「私に……箒を譲っていただけませんか?」

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ