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浴室で裸になったシアの背中をエリティアが流してくれる。
髪はタオルで纏めてあり、流石に時間も手間も掛かる上に、二人では扱いも定かではない為に洗うのは断念した。
「えへへ」
後ろで嬉しそうなエリティアの声がする。
目を閉じて身を委ねていたシアが首を傾げた。
「シアは友だちだけど、妹みたいよね」
「そう?」
「うん。素直でいい子だし、家に連れて帰りたくなる」
「そう」
そうそう、嬉しそうに頷いて、シャワーを背中へ浴びせる。
「っ――!?」
「あっ、ごめん冷たかった!?」
慌てて外し、手元で確認する。
「びっくりした」
「ごめんね、シア。うぅん、お湯とお水調整するのよね……ウチはこう、上のを左右に合わせてやるのだから、慣れないのよね。よし、このくらいなら平気?」
「うん」
改めてシャワーをかけ、手で撫でながら残しがないよう泡を流していく。
そして前後を交換し、シアはスポンジにたっぷり薬液を吸わせ、何度も握って泡立てていく。
「さあシアの背中流しの腕前を見せてもらおうじゃないっ」
「はじめてやる」
「キマリとはこういうのしないんだ?」
「いつもしてもらってるけど、やらない」
「そっか。えへへ、じゃあ私がシアの初背中流しだね」
「うん」
このくらいでいいだろうかとエリティアの白くて綺麗な背中へ手をやる。
「っ? え、あ、手でやるの?」
「いつもそうしてるよ?」
「ふーん……そっか、ごめんね、私スポンジでやっちゃった」
「平気」
すべすべで、洗う必要などあるのかと思える艶やかな肌だった。
シアは普段自分がされているのを思い出しながら、エリティアの筋をほぐす様にして泡を伸ばしていく。
「……っ…………ん、ぁ………………あれ? …………っ、っんあ……」
概ね回路の集まる場所というのは同じらしく、普段自分が念入りにされる部分を中心に手を滑らせていくと、鼻に掛かったようなエリティアの声が浴室に響き始めた。
「ちょっ……っと………………シア、っ……コレ…………なに、これっ……っっっ」
「さっき使ってたのと同じだよ? キマリが作ってくれる特別製」
「っ、アンっ…………っっっ!? やだっ、変な声っ……出ちゃ…………んっ……~~~っ」
「私は慣れてるし、マッサージはされなかったけど、やってあげるね」
「だ、駄目駄目駄目っ、コレっ、~~っっ…………駄目っ、だってっ……なん、かっ…………まずい、気がするっ……」
「ほんとは泡にしないけど、最初は私もそうだったから、たぶん、大丈夫」
「本当はもっと凄いの!? っっっ~~、じゃなくてっ……っ…………シアァッッッッアンっ、んあっ……ちょっと、これっ、待ってっ……アンっ、駄目そこは駄目っ、本当に駄目らからぁっ、駄目っ、駄目駄目駄目駄目駄目駄目駄目駄目駄目っっっっっっっ!! ~~~~~~っっっっ!!!! っ!! っは、ぁ、んんんんっっっ!! つ、つづけるのらめえっ」
「身体の敏感な部分は、呪術に対する弱点なんだって。神経が集中しているから、回路も集中してて、そこから呪術師の毒とか呪いが入り込むんだよ。先ずは五感を刺激して意識に隙を作ってからやるんだって。こっそり忍び込んで裏口を開ける感じ。それで、そういう場所には『魔女の口付け』っていう呪印が出るんだって。呪術に冒された時は、その呪印を基点に洗い流していくのが有効で、こうやって普段から刺激していくと、呪術にもかかりにくくなる。それで――」
一生懸命覚えた講義を続けるシアだったが、終わるまでの十数分、エリティアは幾度も身を震わせ、しかし黙々と続くマッサージに悲鳴をあげることになる。
きっと、話を聞いている余裕もなかったことだろう。
ただ、駆け込んできた侍女たちに救助され、着付けを終えたエリティアは、先にソファで涼んでいたシアの隣へ真っ赤になったまま腰掛けると、こほんと咳払いをして言った。
「呪術がどうとか言ってたと思うけど…………それって、あんなになってまで警戒するものじゃないわよ?」
※ ※ ※
魔女協会までの道はそれなりに遠い。
ウインスライトだけで十を越える支部があるものの、今日は協会に用事というよりは協会のある人物に用事なのだ。
相手の事情も考えれば、じゃあ最寄の協会で会いましょう、とは言えない。
ただ、気が重いというのも確かで、流石にキマリは憂鬱だった。
放置していたら家まで押しかけてきそうだった為に今回は応じたが、出来る事なら係わりたくない。
断絶を願うほどではないものの、やんわりとした繋がりが、例えば季節の挨拶を時折手紙で交わすくらいが丁度いい。
シアの将来を考えれば協会に対して全くの無関係ではいられないだろうし、いずれは係わっていくことになるのだろうが、今は不要だ。
小型の飛行船による定期便からも随分歩いている。
馬車、正確には魔術的な加護を受けた魔獣によって引かれる車の他に、燃料で動く自動車両もこの辺りでは見かける。
餌を不要とし、自然にある魔力を食べて生きる、強靭な肉体をもった魔獣は、移動手段として極めて優秀だ。ただの馬に引かせていた過去ではフンなどによる疫病も問題視されたそうだが、そもそも固形物を食べない魔獣はフンをしない。
対し、自動車両はわざわざ地面を掘り起こし、昔ながらの燃料をかき集めて大量にその腹へ詰め込まなければならない。
僅かな休憩で二日でも三日でも走り続けられる魔獣に対し、燃料はせいぜい一日で切れてしまうし、とにかくお金も掛かる。
ところが自動車両は広く普及している。
人々は魔術を当たり前に身近においてこそいるけれど、やはり使えない、よく知らない者にとってはいかがわしい代物なのだろうことは、キマリも二年近い放浪の中で知っていった。
構造も仕組みも良く分からない、そんな代物に身を預けられるかと、当人は構造も仕組みも良く分かっていない自動車両に身を預ける人の感覚はさすがに理解出来ないのだが。
魔術にも体系があり、理屈も仕組みも存在する。
体質や特製で変化するというのなら、足が早い人や目の良い人もいるし、それらは等しく人の肉体が持つ機能だ。
彼らは子どもを産める女を、自分たちには出来ないからと言って化け物のように言う事はない。分かり易い性別という肉体の違いによって起きる機能の有無はいいのに、特性や属性の違いによって起きる使える魔術の有無がどうしても気になるらしい。
魔道を世に広めたここ学術都市ウインスライトでも、やはり自動車両は目につく。
二年後に行われるヴァルプルギスの夜を廃止しろ。
そう叫ぶ市民団体を横目に、キマリは少し遠回りをしていくことにした。
しかし、細道の角でぶつぶつと何かを呟いている真っ赤なドレスを着た女を見て、足を止めたのだった。
※ ※ ※
エリティアの着替えを持ってきた侍女たちによって、黒服たちは部屋から追い出されてしまった。
一応、バルコニーに二人が待機しているが、外を監視している為に見えるのは背中だけだ。
二人は侍女の淹れてくれた紅茶にたっぷり砂糖とミルクを入れ、用意された焼き菓子を口にする。
「クッキーもいいわね」
「おいしい。今度作ろう?」
「おっ、お風呂は入らないわよ!?」
首を傾げるシアに、落ち着きかけていたエリティアがまた顔を赤くする。
結局随分と汗を掻いてしまったようで、後になって髪も洗って貰った彼女は今、下ろしたままのそれを侍女たちに乾かせている。
「それで、呪術ってそんなに珍しいの?」
「ん、うん……珍しいなんてもんじゃないわよ。下手したら塔の魔女より少ないんじゃない?」
それは、七人を下回るということだ。
けれど塔の魔女となるのが七人というだけで、実際に魔女術を扱う魔女は世界にも相当数存在する。
実力者や、有名な術者が少ない、という訳ではないのか。
「魔女みたいに適正が必要って訳じゃないみたいなのよね」
クッキーを割り、小さい方を口に入れて味わう。
「……ただ、扱いの難しさだけなら、きっとあらゆる魔術の中で最高位にあるわ」
「ふーん」
「難しさ…………うーん、それも正確じゃないわよね。なんというか、あんまりにも危険なのよ、呪術って」
「どういう風に?」
「まず呪術を相手に掛ける時、術者も同じ呪術に冒されていなければならない」
「それって」
本末転倒だ。
相手を倒すための術をまず自分で受けるのなら、もっとも影響を受けるのは術者ということになる。
「大体は不発。よくて相手に半分程度の力が伝染するくらいかしら。一応歴史上に呪術を扱った高名な魔導士がいるけど、二人とも狂人だったって言われてるわ。無理もないわよね。術を開発するにも、使うにも、鍛錬するのにだって、常に自分の命を危険に晒し続けないといけない。それに呪術自体、相手の精神を冒すような、悪趣味な効果のものばっかりって聞くわよ。そんなのに四六時中冒されているもんだから、呪術師の命は長持ちしないし、名前を残すほど大成することは本当に稀なの」
「でも、魔女にとっては天敵だって」
「そうね。あ………………うん、ごめん。そうね、たしかに、アイツが警戒するのも無理ないわ……」
エリティアは取り上げかけたカップを置き、俯いて歯を噛んだ。
雲に翳った日中の薄暗さの中で、溜め込んだ何かを、どっと吐き出すようにしてため息をつく。
「はああぁぁぁっ…………。あのね、アイツが魔女の適正を失ったって話は前したじゃない?」
「うん」
「人の精神を冒して操る。あるいは壊す。それが呪術の力だって言われてるわ。だから――」
魔女の適正とは、世界と感応する力。
心を開いて、敏感に、あるいは曝け出して感じ合う、とても繊細で脆い部分だ。
「キマリから魔女の力を失わせたのは、呪術?」
「……かもしれないって話。当時そう言われてた時期があったのよ。けど『魔女の口付け』だって無かったし、痕跡も残さずそんなことやってのける呪術師なんて、今の代には存在しない筈よ」
「…………本当に?」
「言ったじゃない。呪術師は皆狂ってる。普通は狂い死にするし、大成出来たとしても正体を隠して暮らすほどの頭は残らない。何の知識もなくたって、お隣さんが急に狂ったら通報されて捕まるわ。あぁ、呪術は一応禁術扱いになってるから、細かい使い方とかも魔女協会が封印してるの。当然でしょうね。使えば狂って死ぬんだから」
納得しきっていなさそうなシアに、エリティアは改めて紅茶を一口飲み、クッキーを放り込んだ。
甘い。狂ってしまえば、紅茶の味も、クッキーの味も分からなくなるかもしれないのだ。
そんな勿体無い事、彼女にはちょっと考えられなかった。
「……えっとね。簡単に見分ける方法があるから、教えてあげるね」
「うん」
「呪術師は、特定の色へ異常なほど執着するそうよ。全身真っ青とか、真っ赤な人間に会ったら、一目散に逃げ出す事ね」
※ ※ ※
一歩下がる音に、真っ赤な女が目を向けてきた。
爪も、髪も、持っている肩掛け鞄も、靴から靴下まで何もかもが真っ赤な女だった。
「うふ、うふふふふふふふふ、ねえ、ねえっ、アナタ知らない?」
「な…………に、を、ですか?」
応じてしまって、しまったと思う。
身体が硬くなっている。
呼吸するのも苦しい。
指先はガチガチに強張っていて、首元が痛いほど力んでしまっている。
「無くしちゃったの…………ずっと探してるんだけど、うふふふ、ずっと見付からないの……」
確認するまでも無い。
定まらない視線に、明らかに普通とは違う雰囲気。
異常なまでの赤への執着。
――呪術師っ!
自分から魔女の力を奪ったと言われる力の持ち主に、本能的な恐怖に襲われていた。
大丈夫、大丈夫。何度言い聞かせても震えは収まらなかった。
当代に呪術を極めた術者は居ないとされている。
キマリを襲ったのが呪術者であるかどうかの確信はないけれど、仮に魔女協会が確認していない呪術師が居たとしてもこの女ではない筈だ。
こんなに分かり易く狂っている人間が、大成した呪術師だとは思えない。
なんとか眼球に術を通し、相手の体内にある魔術回路を走査する。
分かったのは、お粗末極まりない魔術痕と、すでにぼろぼろとなって死に体寸前であること。
大した力は使えない。
普通に魔術戦で応じれば、キマリが負ける要素など何一つない。
もう魔女ではないのだから。
魔女術の使用に係わらず常に軽い感応状態にある魔女であれば、呪術師以上に呪術の影響を受けてしまうこともあるが、ただの魔導士からすれば呪術師など低位の術者に過ぎない。
だから、大丈夫。
何度そう繰り返しても、やはり、震えは収まってくれなかった。
魔女協会は本来、塔の魔女を補佐する目的で設立されたが、現在では各国家への国の運営権を与えるなど政治的な立場も持ち合わせている。
また市民には政治活動が認められており、塔のある街ではデモが度々行われる。