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「……それでは、私は夕方には戻りますので」
「うん」
余所行きの服に着替えたキマリが、心配そうな顔で玄関に立っていた。
見送る形でシアは楽な部屋着のまま、指先に乗った小鳥を掲げる。
「申し訳ありません……。昨日お話した通り、どうにもエリティア様経由で魔女協会の方へも私の話が届いたらしくて、昔の手続きがあるとか、顔くらい出せとか、とにかくあまりにもしつこかったもので」
「一緒に行かなくて良かったの?」
「うぅ……ん、協会に登録することで得られる利もありますけど、それ以上に雑務が増えます。この一年で称号を獲得し、その翌年にあるヴァルプルギスの夜を考えると、協会がらみの用件や足の引っ張り合いには係わらない方がいいと思うんですよね……全くあの金髪ツインテールが余計な事を」
毒づくキマリを眺めつつ、シアは小鳥のくちばしに触れる。
真っ白な毛並みの小鳥はその指先を甘く噛み、噛み、首を傾げた。
「何かありましたら、その使い魔を使って連絡を。急ぎで用意したものですが、昨夜中に調整した固体ですから、ある程度の魔術も使えます。いざとなったら囮に……」
「かわいいね」
「囮にしてくださいね?」
「いやだよ」
調整だとか個体だとか冷たい言い方をしているけれど、昨夜キマリが自室で小鳥に話しかけていたのを知っているのだ。
でもなければただの契約下にあるだけの使い魔がこうも人に懐いてくる筈もない。
ただ、キマリもキマリでこうなることを見越しており、普段から家周辺に配置してある見張りの使い魔を倍に増やしているのだが。
そんな訳で玄関から見える広間の向こう、このアパートメントの裏手へしっかり視線を飛ばした後、小さく嘆息して一礼する。
「本来であれば片時もお傍を離れるべきではないにも係わらず、私用でお一人にしてしまうことをお許し下さい」
「ゆっくりしてきていいよ」
「では帰りにいつもの屋台で大判焼きを買ってきます」
「抹茶クリーム」
「はいっ、栗餡も買ってきます」
「うん、楽しみ」
「では、お昼は用意してあるものをあたためて、それと、無闇に出歩いたりは――」
「大丈夫。いってらっしゃい」
何度目かになる説明や忠告に、流石のシアもざばっと切り捨てた。
キマリは何か不満そうだが、懐中時計で時間を確認すると、再び礼をし、手にしていた帽子を被って出て行った。
閉じる扉の音を聞いて、シアはとてとてと早歩きに広間へ戻る。
開け放たれたバルコニーへのガラス戸でレースのカーテンがふわりとはためき、綺麗に並べられた鉢植えが見える。
小さなサンダルが二つ。一つはキマリのもので、一つはシアのものだ。
勉強の気分転換に使う木の椅子と細丸いテーブルが脇にある。
広間を抜けて、小さい方のサンダルを履いたシアが、手にしていたハンカチを手すりに結びつけ、はしたなくもサンダルを脱ぎ散らかして戻っていく。
外から飛行船が大気を打って飛んでいく音を聞きながら、キッチンから道具を取り出して広間の大テーブルへ並べていく。
何かが羽ばたく音と、女のものらしき悲鳴は、とりあえず無視した。
掛かりそうなので冷蔵庫のパック牛乳を取り出し、そのまま口をつけて飲んでいるとようやくチャイムが鳴った。
途端に周辺の使い魔たちから外の様子が流れ込んできて、シアは足早に玄関へ向かう。
一度キマリに言われている通り覗き穴からもう一度確認し、開けると、花柄の入ったワンピース姿のエリティアが立っていて、
「さあっ、はじめるわよっ!」
腰に手を当てふんずり返った彼女は、なぜか烏の羽を頭に引っ掛けていた。
「流行ってるの?」
「え? ああっ、こんなとこにも!? ち、違うのよっ、なんか外で烏に追っかけられて大変だったのよっ」
見れば彼女は軽い方で、黒服たちの中にはばっさり服を裂かれていたり、顔のどこかに小さく傷がついている者までいる。
「あとで叱っておくね?」
「え? なんのこと?」
※ ※ ※
入学から既に一ヶ月が経過していた。
クラスメイトの顔も名前もある程度一致してきて、授業中に当初とは違う浮き足立った雰囲気になることも出てきた頃。
キマリによる指導と公的な資格者によって基礎課程を修了し、更に先行した知識を与えられていたシアにとって、学院での授業において行かれるという事はなかった。
少しでも疑問に思った事があれば、たとえシアが流してしまったとしても当日の内にキマリがしっかり復習してくれ、また予習にも余念が無かった。
年齢的に大きく下回るシアだったが、先だってエリティアと仲良くし始めたこともあって、どちらかと言えば周囲から可愛がられている部類に入る。
元より全員が称号や、そもそも一握りと呼ぶのも躊躇われる塔の魔女、ひいては世界の支配者としての地位を求めている訳ではないらしい。
早くも授業についていけず苦しみ始めている者はいるが、とりあえずとして学院生活は平穏が続いていた。
そして今日は、週に一度の休日である。
「さっき」
「ん?」
言われたとおりに材料を黙々とかき混ぜているシア。
隣に並ぶエリティアと共に、今日はエプロンを着て調理の真っ最中だ。
「外の使い魔が見た景色が、白くてぼやけてた」
「ふふ~ん」
一生懸命雑誌とにらめっこしていたエリティアは得意気に鼻を鳴らした。
「認識阻害の魔女術よ。私の姿が見えないようにしたの」
「うん、見えなかった」
「今日はキマリにはぎりぎりまで内緒にしときたいじゃない。でもアイツ、半端じゃない数の使い魔配置してるみたいだったから、家を出る時から姿を見せないようにしてきたのよ。直接目にする分には普通に見えるけど、今だって魔術なんかで間接的に様子を伺おうとしたら、私の姿は見えないようになってるわっ」
「ふぅん」
少し大きめのボウルを抱えながら思うのは、どう見てもエリティアが隠れている所からバレていたという点だったが、キマリを化かしてやったと上機嫌そうな彼女を落ち込ませるのも忍びなく、
「大丈夫」
「なにが?」
おそらく、あんな不自然にただ見えなくなるだけでは、誰か居ますよと言っているようなものなのだろう。
魔道の名家とあって、学院での成績や魔女術の評価は高いが、エリティアはエリティアなのだろう。
「大丈夫」
「なにが……?」
ともかく今日キマリに内緒で彼女がやってきたのには理由がある。
黒服たちによって運び込まれた各種材料と、エリティアがにらめっこを続ける雑誌がそれだ。
雑誌は女の子というより、主婦に向けて作られたものらしい。
表紙には様々な料理の写真が載っており、ページそれぞれに材料分量作り方と細かい解説が掲載されていた。
今日挑戦するのは、難易度が最大五つの内で星三つとのことだ。
エリティアは持ち込んだ量りで材料を計量しつつ言う。
「お菓子作りは分量と順番が命なのよ」
確かにページにはそう大きく書かれている。
「ちょっと難しいってあるけど、そこさえ守れば失敗なんてしないわ。任せてよね~」
「混ぜる」
「うんうん。シアは素直でいいわねっ、その調子でしっかりツノが立つまで続けて頂戴!」
黙々混ぜる姿を満足そうに見て、エリティアは改めて手順を確認していっている。
「オーブンある?」
「わかんない」
調理はいつもキマリがしている。
シアは食べる専門だ。台所へ入ることも滅多にしない。
「そっか、ちょっと見てくるね」
どうやら、埋め込む形で大きなオーブンがあったらしい。
飛ぶように戻ってきたエリティアは、また雑誌をじっと睨み付け、またオーブンの前に戻っていく。
ちょっと気になったのでシアもそちらへ向かうと、彼女は空のままのオーブンに火を入れていた。
ふふん、と得意気に鼻を鳴らして言う。
「オーブンは使う前にしっかり中を暖めておかないといけないのよ?」
「おー」
「これでシアも今度からオーブンを使えるわねっ」
「うん」
「ふふん」
と、まだ尻尾を振っていたので、
「ありがとう」
「えへへ~」
言うと彼女はとても嬉しそうに笑うのだった。
一緒になって材料を混ぜ、ちょっと寝かせて、バターを塗った型へ流し込む。
分厚い手袋をはめて、二人で真剣な表情でオーブンへ入れた。
「さあっ、次は挟み込む果物の用意よっ」
おーっ、と二人で手を振り上げたが、ここで問題が発生した。
「包丁、駄目」
「うぅ、私も刃物は持つなって言われてるのよね……」
情けない事に果物一つ切り分けられない事実が判明した。
こっそり包丁を持ってきてやってしまえばいいと思うかもしれないが、生まれてこの方一切刃物を扱ったことのない、調理すらまるで経験のないお嬢様二人が、その実切り辛い部類に入る球体状の果物に刃を入れることの危なっかしさを一度考える必要があった。
ちらりと二人で後ろを振り返ると、目元をサングラスで隠した黒服が驚いてうろたえた。
こほん、と咳払い。
彼は音もなく進み出て、台所から包丁を持ち出すと、慣れた手つきで果物を切り分けていった。
ただ、球体を崩し、ある程度の大きさまで切り終えると、まな板の上にそっと小さなナイフを置いた。
鉄や鋼の色はなく、白い板のようなナイフだ。
首を傾げる二人に彼は再び咳払いをし、
「刃のついていないものですが、そっとしてやれば切れます」
目の前で実演すると、左右から歓声があがった。
彼は照れつつも何度か切る時の注意点やコツなどと説明しながらやってみせ、残りが数えるほどになった所で二人へ受け渡した。
最初にエリティアがやってみせ、綺麗に切れた果物をシアへ、そして下がった黒服へ見せ付ける。
幾人かのささやかな拍手が送られ、今度はシアに。
「あんまり力を入れないほうがいいわっ」
先駆者としての注意点を告げながら、しかし心配なのか手を出したそうにシアの周りをうろつくエリティア。
ただシアはあっさり残りを切り終えてしまうと、エリティアがそうしたように切った果物を黒服たちにも見せ付ける。拍手。
そこからも順調に、焼けた生地を取り出して切るなど危険のある作業は、お菓子先生と名付けられた黒服に任せつつ、二人は一生懸命に調理をしていった。
最後に板状のチョコレートへ、白のチョコペンで交代で文字を描いていき、完成した。
「できたっ!」
「できた」
今までよりも少し熱の入った拍手を送る黒服たち。
中にはなぜか涙ぐんでいる者までいて、同僚に肩を叩かれていた。
そっとそっと完成品を運んで冷蔵庫へ収めると、なんだかんだと汚れていたエプロンを外して、エリティアが言う。
「あー、服まで汚れちゃったかー」
「私も」
「意外とお菓子作りって大変なのね。汗掻いちゃった」
「うん」
「ねえ時間あるし、ちょっとシャワー浴びましょうよ」
「いいよ」
お菓子先生が指示を飛ばし、二人が家から出て行った。
きっとエリティアの思考にはないだろう着替えを取りに行ったのだ。
「私、部屋から着替え持ってくる」
「あ、そっか、私も――」
着替えはどうしようかと視線を彷徨わせる彼女に、お菓子先生が問題ないと促す。
「そう? じゃあシア、私先に入ってるわね。場所どこ?」
「通路の二番目」
はーい、と跳ねるように駆けていくエリティアを見送って、シアはもう一度お菓子先生を見て言う。
「ありがとう」
「……いえ、どうぞごゆっくり」
とてとて。
シアが去っていった後、気恥ずかしげに頬を掻いた彼は、低空を行く飛行船を窓越しに見上げ、
「この仕事、やっててよかった」
ぐっと、硬く拳を握ったのだった。