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無欠の天才と呼ばれた少女が居た。
優れた家系で魔女としての薫陶を受け、幼少の頃より大人顔負けの魔女術を積み木で遊ぶように行使してみせた。
幼子としての自由さもあったのだろう。誰も思い浮かばなかったような発見を幾つもし、定説を容易く覆して多くの歓声と、あるいは幾人かに絶望を抱かせた。
少女の才能は魔女術だけに留まらなかった。
芸術の分野では学んだ分だけ傑作を生み出し、基礎学問は七つを越える頃には修了していたともされる。
万事に優れ、また努力を怠らず、ある意味で献身的にすべての分野と向き合う彼女を無欠の天才と呼んだのは、塔の魔女の一人だったという。
あらゆる能力に優れた最優とされる力を持ちながら、傑物たる比類なき才能まで持ち合わせた、完全無欠の天才。
故に、彼女がいずれ、この世界における神とされる、塔の魔女となることに、誰も疑問を挟まなかった。
唯一の不安は、先だって新たな魔女が選出されたことで、次の選定『ヴァルプルギスの夜』がいつになるかという事だったが、それもやがて解消された。
大きな誤算が起きたのは、今から二年前。
突如として行方不明となった無欠の天才は、発見された後、魔女として最も大切な適正、世界と感応する力を失っていた。
魔術は扱えても、魔女術は扱えない。
同じに見えて全く質の異なる力は、致命的なまでに少女の道を塞いだ。
だから、彼女が塔の魔女になることはない。
だから、二年前短い書置きを残し、無欠の天才と呼ばれた少女は姿を消したのだ。
※ ※ ※
「――つまり、それが私ということなんです、シア様」
公園のベンチで、淡い笑みを浮かべて言うキマリを、エリティアは涙すら浮かべて見ていた。
「エリティア様は、当時から仲良くしていただいていた方で、とても心配を掛けてしまったと思います」
「そうよっ、私だけじゃないわっ、他にも皆……アンタのお姉さんとか、みんなみんなっ、本当に心配してたんだからっ! うっ、う……ううううぅぅぅぁああん!」
とうとう泣き出した旧友の頭を撫で、しかしキマリは困ったように笑む。
「あっ、ちなみに私の身体は綺麗なままです。ちゃんと精密検査を受けた結果ですから、安心してください?」
冗談めかして言うが、新情報だったらしいエリティアはもう鼻水を垂らしてしがみ付いてきている、少々汚い。
ただ、何か言いたげなシアに、キマリは付け加えた。
「犯人は不明のままと聞いています。私も記憶がまるでなくて、何をされたのかは分からないままなんです。ただ、シア様やエリティア様には出来る、世界と感応する力を、結局私は取り戻す事は出来なかった。魔導士には成れても魔女には成れない。ふふふ、教室で魔導士を魔女の成り損ないと言われていたのは、正直耳が痛かったですね」
あ、という顔をするエリティア。
けれど勝手に傷付いているだけなので、彼女たちにキマリへの悪意はない。責めるべきことではないのだ。
「……うっすらと覚えていることはあっても、なんだかはっきりと言葉に出来なくて、抽象的で……まるで死後の世界みたいな……」
その時だけ、キマリの声が少し固くなった。
「それだけですっ。記憶が不確かなので、見間違いとか、発見されてから目にした何かを勘違いしているとか、夢だとか、まあ、どうでもいい話です」
「どうでもいいって、アンタ……」
「本当に思っていますよ? だって」
立ち上がったキマリが、身を舞わせるようにしてシアの背後に立ち、その両肩に手を置いた。
嬉しそうに、心から大切な宝物を打ち明けるみたいに、キマリは言うのだ。
「シア様と出会いました。私の、掛け替えの無い、奏主」
エリティアの意識がシアへ向く。
白髪の少女は、じっと、その目を見返していた。
※ ※ ※
魔女には使い魔がつきものだ。
それは黒猫であったり、烏であったりと古い童話にはあるが、実際には双方の納得があれば生物に縛りはない。
七つの塔が世界を支配して以来、魔女の使い魔といえば、専ら人間だった。
使い魔とはいっても人の意識を支配するのではなく、契約によって魔女の力を借り受けたり、力を引き出してもらったりと、契約者を強化する内容が多い。
制約をつける事で能力を限定化し、出力を上げるなどの手法も存在するが、そういった恩恵を受ける使い魔は、魔女の護衛や雑事をこなす。あるいは、反響と呼ばれる手段で魔女側の力を強化したりと、とにかく思考力や汎用性の面で獣よりも人間の方が遥かに使い勝手が良いというのが理由だろう。
当然人に任せるまでもない目としての活用などなら、その辺の鳥や猫でも構わないが。
そして、塔の魔女を目指す者にとって人間の使い魔を使う最大の理由は、やはり護衛だろう。
塔の支配者は世界を支配する。
国や血統や派閥や、どんな思想を持っている、それまでどんな人生を送っていたかなど何ら意味を持たない。
魔女となった者が望めば町一つ、国一つなど瞬きした間に消えうせる。
過去あらゆる非道を尽くして優れた魔女を世に送り出した国があった。
魔女はめでたくヴァルプルギスの夜を越え、塔の管理者となった。
幼い頃からの投薬と洗脳と恐怖で、その国は魔女を御して塔を思うままに操ろうとしていたが、彼女が塔の頂に登った翌朝、国土は海に沈み、世界地図が書き換えられた。
これは極めて稀な例で、塔の魔女は基本的に人々の生活を支え、あるいは大いに発展させてきた。故郷を沈めた魔女も、それ以外はまともだったと言われている。
だが、そんな危険極まりない権限者に、優れた魔女というだけで選定してしまう今の世の不安定さを好まない者たちも多い。
今の時代、信仰も忠誠も塔に集まっているものだが、川の流れですら時に溢れ、別れていくこともある世の中だ、国などというものに忠義する者は確かに居るらしい。
あるいは対立候補が死んでしまえば、そう考える人間が出るのは当然ではないだろうか?
故に魔女は強力な護衛を求めて、優れた力を引き出せる使い魔と契約する。
「私がシア様と出会ったのは、極北の、ソラント共和国です」
そう切り出したキマリに、エリティアは生真面目そうに頷きを返す。
「ソラントって、塔があるって言われてる所でしょ? あんな所から来たんだ」
「塔云々は割愛しますが、シア様の故郷はさらに山奥の、一年中雪解けの無い冬の土地でした」
「さむいよ」
「私寒いのって苦手なのよねぇ」
「でもチーズとワインがおいしいよ」
「それはどっちも大好きっ」
「あの、私の話聞く気あります?」
ともあれ、二人は出会った。
魔女の力を失った少女と、魔女の力を秘めた少女が、霧の竜山にある古城で、出会ったのだ。
「シア様の家は、言ってしまえば没落した魔道の家系でした。曾お婆様の代まではなんとか魔道を受け継いでいたのですが、お婆様やお母上様は、全く魔術を使えず、今では多少歴史と財産のある一般の良家として暮らしていただけでした。けれど、シア様はそれまでお家の誰もが持ち得なかった程の才能を持って生まれたのです」
キマリの評をどう感じているのかは分からないが、シアはただ首を傾げるだけで誇りも謙遜もしなかった。
けれど分かる。
分かってしまった。
不意にエリティアは涙が浮かんでくるのを感じた。
なぜならそれは、決して口にしてはならなくて、けれども何よりも言いたかった――
「シア様には、塔の魔女となるだけの才能があります」
心から誇らしげに、心から救われたように、
「私は、シア様の使い魔として契約を交わし、この方を塔の頂へ導くと誓いました。私は、塔の魔女ではなく、塔の守護者となります」
そこが世界でたった一つの居場所であるかのように、かつて世界に絶望した少女が笑っていた。
エリティアよりも遥かに幼いと言える少女を愛おしげに抱くキマリを見て、彼女はぐっと唇を噛んで堪えた。
最初に名乗られた時から分かっていたことだった。キマリはシアを奏主と呼んだ。それは、とても古い言葉で使い魔が魔女を呼ぶ時に使う名前なのだから。
ただ生きるための場として世話係をしているのであれば、掛ける言葉もあっただろう。
けれどコレでは、たった一つしか言葉が無い。
今一番伝えたい言葉で、一番伝えたくない言葉を、エリティアは身体の奥底から溢れ出す感情を飲み込んで言った。
「入学前にも言ったけど、おめでとう、キマリ。シア、で、いいよね? シア、キマリを連れて来てくれてありがとう。なんだよって思うかもしれないけどさ、言わせてよ、ありがとうって」
「うん」
でも、とシアは続けた。
「塔の魔女になるのは、私の夢だから」
「ずずっ、そう、なんだ。そっか……ふふ」
洟を啜って嬉しそうにするエリティアに首を傾げ、キマリを見る。
「こういう方ですよ、エリティア様は」
「そうなんだ。キマリが好きそうな人だね」
「意味の無い反発をして見せますけど、基本的に甘くてお人良しなので、こんなに利用し易い人はありませんからね」
「ちょっとぉ! 聞こえるように言ってるんじゃないわよっ!」
「ですから、エリティア様にお願いしたいんです」
正面に回り、二人の前で両膝をついたキマリが、双方の手を取った。
エリティアが呆気に取られて驚いている。
「シア様の、お友だちになって下さいませんか?」
二人の手を重ねる。
シアが、じっとエリティアを見て、視線に照れた様子の彼女は口をすぼめて言う。
「……うん。いいよ? よろしくね、シア」
「よろしく」
「えへへー」
指先を軽く絡ませると、エリティアは実に嬉しそうに笑った。
「キマリは素直じゃなくなったけど、シアとなら仲良くやれそうねっ。授業中とか、キマリを頼れないこともあるでしょうから、私に任せてよねっ!」
「これが目的?」
「はいっ」
「ちょっとぉ!?」
ともあれ、キマリが極めて彼女を信頼しているという表れでもあるのだが、当の本人は正面切って利用しますと言われて涙目だ。
ころころと本当に楽しそうに笑うキマリを眺めて、シアもまた楽しそうに笑った。
揺れる木陰の中、それは奇跡のように輝きに満ちた――宝石のような時間で、
「それで、昔のキマリについて」
「昔のこの子はこんな性格悪くなかったわね」
「あの頃の私は、世界の鬱屈を何も知らずに育っていましたから……」
「突っ込み辛かったから言わなかったけど、アンタも苦労したのね……」
「人生ってたいへん」
シアが言うと、二人は揃って力の抜けた笑みを浮かべる。
少しくらい翳っても、宝石は綺麗なままだった。