26
風が吹いていた。
冷たい、肌を切りつけるほどに冷たい、なのにとても澄んだ風が高原を吹き抜けていく。
野花を揺らし、羊たちの間を抜けて、岩場の上でそれらを眺めていた羊飼いと番犬を揺り起こして、もっともっとと高い場所へ進んでいった。
西日刺す丘を抜ければ、穏やかな光景から一変、切り立った崖と険しい山脈が見える。
谷底はどこまで続いているのか。
一羽の鳥が劈いて、旋回しながら谷底へ降りていく。
断崖絶壁に出来た僅かな窪みにその巣があったのだ。
ひな鳥に嚥下した食事を与え、またすぐどこかへ飛び立っていく。
崖を進む白い姿もあった。
先ほどの羊飼いから逃げ出したのか、野生のものなのか、一際大きな身体を器用に折り畳みながら、断崖の僅かな窪みに足を掛けて進んでいく。
そこに、先ほどの大きな鳥がやってきた。
広げた翼が風を切り、西日を受けて強く輝いて見える。
羊が身を固める。鳥は身を捻り、一直線に崖へ向かう。
僅かな窪みに身を委ねていた羊は、上空から襲い掛かる鳥の爪に呆気無く掴まれ、放り出される。
崖を転がり落ちていく白い身体がどうなっていくかなど分かりきっている。
無残ではあったが、感じるのは自然の偉大さとでも言うべき畏怖だ。
この地にある、大自然の持つ無常さ、冷たさ、そして包容力。
どれほど人が力をつけても、ここからは逃げられない。そう思わせる力強さに溢れていた。
風は、羊の落下を見送ることなく先へ進んでいった。
鋭く切り立った山々は、かつて巨大な狼の牙だと伝えられていた。
迂闊に踏み込めばその牙に切り裂かれ、呑み込まれてしまう危険な場所だと。
月を呑む狼の伝説はここで生まれた。
風は緩やかに牙山を抜けていく。
まさしく牙のような山々は動物たちの生きる場所ではなくなる。
同時に、それらが口にする植物や、その植物を糧とする虫たちにとっては楽園となった。
誰にも踏み荒らされることのない花畑がひっそりと広がっている。
色とりどりの蝶が舞い、花は大きく育って咲き誇る。
きっと、人の領域にあれば花びらを広げる事さえ難しかった。
誰も知らない、静かで、冷たくて、澄み切ったあの場所だから育つ事の出来た、大きな大きな大輪の花。
偉大な自然の中で育まれた力は、こうして世界を染め上げたのだった。
それは優しいばかりではなく、険しきを知る、力強い心を以って――
※ ※ ※
気付けば、客席で幾人もの人間が立ち上がっていた。
吐く息は白く、身を抱いている者も居る。
「っ――!!」
飛び出していく姿があった。
白金色の髪をした少女。
キマリが我をも忘れて会場の扉を開け放ったとき、誰もが異常事態に気付いた。
明るいのだ。
時刻はまだ夕方には遠く、ここしばらく忘れていた強烈な日差しが会場内へ注がれていく。
「シャルロッテ! 今すぐ術を終了しろ!」
焦った声が会場内を貫く。
客席で見ていたらしいハーヴェイ=ブルトニウムが、普段の堂々たる振る舞いも忘れて舞台上へ駆けていく。
同時にキマリはこの都市中に配置していた使い魔へ意識を飛ばす。
「っ!」
けれど何一つ反応は返ってこない。
息を整え、両手を肩の高さまで持ってきて、拍手を打つ。
学院の敷地内には自然が多い。
今日シアの元を離れる際に指先一つ鳴らすだけで使い魔と生み出したキマリの魔術は、しかし何一つ効果をあげることがなかった。
現実を侵食する魔女術。
それは、現実を積み重ねて超常の現象を引き起こす魔術の尽くを食い荒らす。
魔導士では魔女には勝てない。
どれほど高い威力で、どれほど精緻に磨き上げられた術式を重ねても、魔女の起こしたそよ風一つ突破することは出来ないのだ。
対抗策がない訳ではない。ある程度までの魔女術であれば、特殊な結晶構造を持つ人工水晶によって魔術を維持できるのだ。
そうでもなければ、常に塔の魔女による魔女術の影響下にある都市で、あらゆるライフラインを魔術に依存した都市が存在できる筈もない。
だが今、キマリが用意してあった対魔女術仕様の使い魔でさえ反応が無くなってしまっている。
――どこまで、一体どんな規模でこの魔女術を!?
身を切るような寒さの中、必死になって繋がりを探す。
そしてようやく見つけた。
都市の外延部に配置してある、砂漠の蜥蜴。
塔を挟んだ向こう側にいる使い魔は、しかし僅かに一歩を踏み出した途端、
「…………」
繋がりは途絶えた。
つまりこういうことだ。
シャルロッテ=トリアの感応規模は、この学術都市ウインスライトを一つ丸々呑み込むほど大規模であると。
――それだけじゃない…………。
事態の大きさに誤魔化されているけれど、キマリの芯を揺らす事実が別にあった。
夜を払い、都市一つを巻き込んだ魔女術。
それでさえ吹き飛ばしてしまう事実がある。
「キマリ」
会場の壁面に寄り添い、身を震わせていたキマリの元へ、シアがやってきていた。
彼女は心配そうにこちらを見ていて、伸ばされた手から、思わずキマリは逃げてしまった。
ずり落ちて、地面に座り込んでしまったキマリの隣で、尚も彼女は佇んでいる。
「………………………………まちがえた」
表情を失ったまま呟く。
「どうして…………? こんな当たり前のこと、なんで忘れてたの。感応……そう、感応すること……技術なんかじゃない、知識や手段なんかに溺れれば、それはどんどん不純物になって魔女の本質から遠ざかっていってしまうのに…………なんで、今まで気付けなかったの……?」
キマリの様子はただ事ではなかった。
言葉一つ捻り出すごとに、自らの首へ刃を食い込ませていくような怖ろしさがある。
一点を見詰めたまま、ぶつぶつと呟き続ける姿は、完璧に着飾った姿さえなければ、最早狂人と変わりなかった。
「………………………………忘れてた。二年前から、魔女の適正を失ったあの時から、心を開いて受け入れて……そんな怖ろしい事考える事さえ出来なかった。感応することを忘れていた。魔女術を忘れていた。あの時までは当たり前にしていた、なんで誰も出来ないのかも分からなかった。当たり前。当たり前の、技術ですらない前提の想いを…………」
不意に隣に居たシアへ目が向く。
彼女は何一つ驚かなかったけれど、キマリの目つきは最早普段の柔らかさを失い、瞬きすら忘れて赤く腫れ上がろうとしていた。
キマリは考える。
考えて、考えて、考えて、考えて、考えて、考えて、考えて、考えて、考えて、考えて、考えて、考えて、考えて、考えて、考えて、考えて、考えて、考えて、考えて、考えて、考えて、考えて、考えて、考えて、考えて、考えて、考えて、考えて、考えて、考えて、考えて、考えて、考えて、考えて、考えて、考えて、考えて、考えて、考えて、考えて、考えて、考えて、考えて、考えて、考えて、考えて、考えて、考えて、考えて、考えて、考えて、考えて、考えて、考えて、考えて、考えて、考えて、考えて、考えて、考えて、考えて、考えて、考えて、考えて、考えて、考えて、考えて、考えて、考えて、考えて、考えて、考えて、考えて、考えて、考えて、考えて、考えて、考えて、考えて、考えて、考えて、考えて、考えて、考えて、考えて、考えて、考えて、考えて、考えて、考えて、考えて、考えて、考えて、考えて、考えて、考えて、考えて、考えて、考えて、考えて、考えて、考えて、考えて、考えて、考えて、考えて、考えて、考えて、考えて、考えて、考えて、考えて、考えて、考えて、考えて、考えて、考えて、考えて、考えて、考えて、考えて、考えて、考えて、考えて、考えて、考えて――結論した。
「………………………………無理」
道は無い。
「勝てない。この実演に勝つ手段がない。最終選考までの時間じゃ、絶対に無理」
閉ざされている。
ヴァルプルギスの夜へ辿り着く事さえ出来ない。
ようやく見つけた、たった一つの道さえ果たされず終わってしまう。
「っ………………寒い……」
身を抱いた。
凍えてしまう。
こんな寒さは耐えられない。
「だめっ、鏡を…………鏡、鏡がないと……私、今……どんな、顔して…………………………ぁ」
ぬくもりがあった。
力一杯この身を抱き締めてくれる、小さなぬくもりの中にキマリは居た。
シアは何も言わず、キマリを抱き締めていた。
顔を確認できなくて不安だというのなら、誰にも見せないよう隠してあげる。
そんな単純で、普通の行為に、のっぺらぼうのように表情を失ったキマリの瞳はただ乾いていく。
しばらく、二人はそのままだった。
騒ぎは大きく、激しく行き交う人々は彼女らに気付かない。
やがて、シアがキマリの耳元へ顔を寄せ、呟いた。
「おうち、かえろう?」
誰一人気付かれることなく、二人は学院を出た。
そうして、いつしか戻った暗闇の中、静かに、消えていった――。




