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やがて小さなてのひらは  作者: あわき尊継


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 息苦しさも、手足の疲れも、いつもは辛いだけの日差しでさえ、今や心を躍らせる一拍子にしかならなかった。


 どれだけ走り続けてきたのか。

 動くには不向きでしかない手を繋いだ状態のままで、シャルロッテはシアと共にウインスライトの街中を駆け回っていた。

 追ってきた人はいなかった、と思う。

 けれど、追われているぞっ、という考えさえなんだか楽しく思えて、ひたすら普通とは違った道を進んできた。


 例えば、なぜか公園の上を通り抜けていく橋の上。

 橋の下に公園が出来たのか、公園の上に橋を通したのかは分からなかったけれど、なんと橋は水路となって都市の外延部へ伸びていた。

 二人は身を隠しつつ整備用らしき通路を進んだ。石造りの為か隙間から顔を出す雑草水草、本来防がれているはずの砂が溜まって一部には花が幾つか咲いていて、どうやって生活しているのか蛙や小魚まで見受けられた。

 途中二人して靴も靴下も脱いでしまって、水路に足をつけて涼んだりもした。

 最後は滝となって大きな穴へ落ちていき、目を合わせた二人はちょっとだけ怖くなって近くの作業員用はしごを使ってこっそり逃げ出した。


 例えば、高台の下を通る地下街。

 大きな階段の裏から入る事が出来て、普段見るお店とは違った非常にごみごみとした、本当に許可を取っているのかも怪しい露天や詰め込めるだけ詰め込んだといった感じのお店が足の踏み場も怪しくなるほど商品を広げていた。売られているものがなんなのかも分からず聞いてみると、気まずそうな中年の男に精力剤の材料だと言われ、一人意味の分かったシャルロッテが真っ赤になってしまった。

 こんな所に買いに来る人がいるのかと思ったが、実際にとても熱心な表情で品定めをする人も居て、もしかしたらとても希少なものが手に入ったりもするのだろうかと考えた。


 例えば、見上げるほど大きな大きな鉄の門。

 開け放たれたまま蔓や錆を纏っていて、とても広々とした公園の中央に建っているのだ。

 二人して見上げていると、近くのベンチで涼んでいたおじいさんが、その昔このウインスライトはこの門より内側にしか人が住んでいなかったのだと教えてくれた。300年前に魔女が世界を統一して以来、この都市の中央で聳え立つ塔の管理者たる魔女が人々に魔女術(ウィッチクラフト)を、魔術(マジック)を教え広めたというのは誰でも知っている話だったけれど、それを脅威と見た他の塔の魔女と一時内紛じみた状況になったのだという。

 この重厚な鉄門はその時に敵軍を阻む盾になったと、おじいさんは嬉しそうに語っていた。


 例えば、数多くの飛行船が日夜出入りする空港。

 石造りの街並みからガラリと変わり、一面ガラス張りの場所や塗り固められた壁や床ばかりになる。

 馬車を見かけることも減って、自動車両が廃棄熱を撒き散らしながら走っていくのに二人して目をバッテンにした。水路が多く、石畳の多い街中よりも遥かに強い日差しと照り返しが、日傘も持たない二人の肌をひりつかせた。

 呪術師による事件が頻発しているせいか、いかめしい警邏の男たちが四人組で見回りをしているのに遭遇したときは二人して物陰へ逃げ込み、やり過ごした後でつい笑ってしまった。


 例えば、例えば――本当にいろんな場所を、今まで知らなかったウインスライトという都市を自分の足で歩き回った。


 世界に名立たる学術都市、塔の魔女が開いた場所、砂漠に聳え立つ塔の町、そういう名前は知っていても、見たことも聞いたこともない景色はこの都市のどこにだって溢れていた。


 シャルロッテも、シアも、雪に閉ざされた景色ばかり見て生きてきた。

 飛行船に乗ったのだってこの都市に来たときが初めてだった。

 年老いた牛に荷車を引かせ、のんびりと農耕地を巡る日々とはまるで違う世界だった。


 もっと見てみたい。


 ただ一つの目的の為にやってきたシアも、誘われるまま学び舎へやってきたシャルロッテも、初めてこの都市を興味深いと感じていた。


 財布だけは肌身離さず持っていたシャルロッテがクレープを買って、二人でちまちまと齧りながら階段の上に座り込んで街並みを眺めている。

 陽は傾き始めていて、学院からは随分と離れてしまっていた。

 遠く、今日歩いた景色の一部がここから望める。

 外部とを行き来する大型の飛行船に限らず、都市の至る所から飛び立っては降下していく小型の飛行船が幾つも見えた。

 同じく空を眺めて目に入るものがもう一つある。小さな塔だ。ある程度の間隔で街中に建っていて、最上部から水蒸気らしきものを吐き出し続けている。

 外延部には近くの都市に繋がるらしい舗装された道が見えるけれど、広がる砂漠のどこにもソレらしきものは見えず、大きな道路は砂山の向こうへ消えていった。


 鋭く泣き声を響かせて大きな翼の鳥が頭上を飛び抜けていく。

 シアがそれを見上げていたから、シャルロッテも同じく眺めて、首の動きだけでは追いきれなくなって、ばさりと後ろへ身を倒した。

 投げ出した両腕の上へ頭を乗せると、大きな空と、どこまでも伸びていく塔が見える。

 鳥は高く高く飛んで、広げた翼で力強く空を打つ。


 『空衣』。異国の言葉でスカイクラッドと呼ばれる称号の名を思い出した。

 この広い空そのものを衣として纏う、そんな感応を可能とする魔女にのみ与えられる称号だ。


 初めて聞いたとき、なんて素敵な言葉だと思った。

 もし出来るのなら目指してみたい。その名前が欲しいと、考えた日もあったのだ。


 今見ている景色は、まさにその空を纏っているような気分になれる。

 自然と笑みがこぼれ、心が空へ溶けていくように感じた。


 そこへ隣で座っていたシアが乗り掛かってきて、嬉しくなったシャルロッテは彼女のやわらかいほっぺを摘んだ。


「う~」

「っふふ」


 お詫びに残っているクレープを渡すと、シアはされるままとなって甘いクリームを舐め続ける。


 ぷにぷに。

 ふわふわ。


 ずっと触っていたくなる。

 けれど食べるのに邪魔となってしまったのか、身を捩って隣で横になるシアを、シャルロッテが軽く身を起こして見る。

 滑り落ちたときについたのか、鼻先に生クリームがついている。それさえも可愛く思えて、指先でそれを掬い取ると口に含んだ。甘い。


「ん」


 まだ少し残っている。

 触られて肌に張り付いたのが気持ち悪いのか、取ってくれとばかりに鼻を突き出してくる。


 だから、シャルロッテは彼女に顔を寄せ、鼻先に乗った生クリームへ唇をつけ、小さく出した舌先で舐め取った。


 顔を離した時、不意に目が合って、彼女は急激に自分がとんでもなくはしたない事をしたように思えて顔を赤らめた。

 本当に、ちょっとした冗談のつもりだった。孤児院に居たときもシャルロッテに甘えてきた年下の子がほっぺについた食べ残しをこうして取ってきたこともある。普通の、なんでもないじゃれ合いだ。なのに急激に胸が苦しくなって、また彼女の胸に顔を埋めてしまいたくなる。


「っ――ごめんね! 私つい悪ふざけしてっ!」


 必死に馬鹿な考えを放り出し、ハンカチで改めてシアの鼻先を拭く。

 良く分かってなさそうに疑問符を浮かべる彼女を見ていると、自分がどうしようもなく穢れた人間に思えてきた。


「おいしかった。ありがとう」


 軽く落ち込んでいる間に食べ終えたシアが指先を舐めつつ立ち上がる。

 お行儀が悪いのでハンカチでそこも拭いてあげると、彼女はくすぐったそうにしていた。


 砂埃のついたお尻を払い、さあ次はどこへ行こうかと思ったときだった。



「シア様!」



 荒い呼吸が背後に立った。

 振り返って見た相手は、宝石みたいに美しい白金の髪を乱れさせ、止め処なく流れる汗を拭う余裕もないくらい肩を激しく上下させながら、青ざめてすら見える顔でこちらを、シアを見ていた。


 隣で身を強張らせるシアに気付いて、少しだけ心が熱くなる。


「……もう、学院の授業も、終わって、います…………約束してあった……鍛錬の、時間も、すぎ、っ、過ぎています…………なぜ、戻らなかったんですか……っ」


「………………ごめんなさい」


「そんな言葉は聞いてません。護衛もつけず都市を歩き回るのは危険だとも教えました。今日は本当に、運が良かっただけと思ってください。ヴァルプルギスの夜では魔女と見れば所構わず襲い掛かり相手を殺してきた例もあるんです。いえ……これは後でいいです。もう一度聞きます。何故やるべきことを放棄して遊びまわっていたんですか」


 何も言えなくなって口ごもるシアを、その人はただじっと睨み付けていた。少なくともシャルロッテにはそうとしか見えなかった。


 長い沈黙があって、なんとか口を開いたシアが、息苦しそうに、けれど確かな音を作って言う。


「ごめんなさい」


「ちゃんと理由を話しなさい!」


 乾いた音に、シャルロッテも、シアも、彼女の頬を張った少女でさえ驚いていた。

 何を思っているのか、シアの頬を赤く染めた己の手を隠すようにもう片方の手で包み、握りこむ姿に、どうしようもなく苛立ちが湧き上がって来る。


 もしかして、と。


 こんな自分を救ってくれた彼女もまた、同じような苦しみを味わっていたのではないか。


 決め付けてしまうことの怖ろしさを感じながらも、今目の前で起きている暴力を、シャルロッテは止めようとした。


「私のせいなんです!」


 前へ飛び出して叫ぶと、相手は初めてシャルロッテに気付いたように目を向けた。


「私が、学院を抜け出そうって…………私、クラスの中で浮いてしまっていて、どうしてもそれが辛くて、シアさんに縋って、助けて欲しいって、脅しみたいに縋って……だから!」


 道を歩いていて見つけた羽虫を見るような目が、じっとこちらを見据えてくる。

 けれど、すぐさま目が伏せられ、

「この件に貴女は関係ありません。どうかお控え下さい」

 乾燥しきった声がこちらの心をやすりのように削ってくる。

 怯えで引き下がりそうになるも、ここで逃げればシアが傷付けられるのだと思うと、シャルロッテはぐっとお腹に力を入れて堪えた。

「違います! 私が原因なんです!」

「お願いします。どうか、この場は下がっていてください」

「シアさんを連れまわしたことはお詫びしますっ、だから彼女を叱るのは止めて――」



「邪魔をしないでと言ってるでしょう!!」



 言葉よりも、鋭い語気に身が縮んだ。


 叫びをあげてしまった彼女は、それを悔いるように、丁寧に言葉を綴ってくる。


「失礼、しました。けれど、貴女に言わせて、ただ……謝って黙っているだけでは、いけません。ちゃんと、自分の言葉で理由を話して欲しいだけです……そうですね、手を挙げたことは、謝罪します。ごめんなさい、シア様…………」


 まるで肉を裂き、骨を砕いて渡すように苦しげな様子に、早とちりで勝手な事を言っていた自分を恥じた。

 違う。きっとこの人は自分を苦しめて笑っていたような人たちとは違うのだと、心の何処かで確信できた。


 許しさえなければこのまま呼吸すら禁じてしまいそうな表情で、彼女はシアの返事を待つ。


 俯いて、表情を曇らせたシアが、力無く首を振る。


「……ううん。私が、約束を破ったから。だから、だいじょうぶ。キマリは悪くない」


 キマリ、そう聞いて思い浮かぶ話がある。

 何度もシアとの会話に出てきた人の名前だ。

 この人が、と改めてシャルロッテは白金の髪の少女を見る。


「ありがとうございます。では、話を戻してもよろしいですか」


 頷くシアに、キマリは汗で張り付く髪を払いもせず佇んで待った。

 既に質問は告げてある。

 けれど、叱っている立場である筈の彼女の方が、まるで断罪を待つ咎人のように見えるのが不思議で、口走りかけた擁護の言葉を押し込める。


 シアが、胸の前で両手をぐっと握って、言葉を紡いでいく。


「私は――」



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