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やがて小さなてのひらは  作者: あわき尊継


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 お手洗いから戻ってきたら、荷物が無くなっていた。

 血の気が引いていくのを感じながらシャルロッテは必死になって周囲の机を探す。

 椅子の下、反対の机や近くの机の荷物置き、壇上にある教師向けの荷物置きや通路と机の影。どこにも鞄が見当たらず、思わず、いつも自分をいじめている生徒へ目を向けてしまった。


「なによ」


 不機嫌そうに言う彼女は、周囲に数名のクラスメイトと護衛らしき侍女たちを置いていて、複数の剣呑な目を同時に向けられたシャルロッテはたじろいでしまう。


「い、いえ……」


 そう言うのがやっとで、顔を伏せたまま教室内を探し始める。


 薄笑いの声が聞こえて、やっと、ここにはないのだと確信を得た。


 廊下に出た。一番近くにあったゴミ箱を確認する。見付からない。物陰や用具入れの中にも彼女の鞄は見付からない。

 チャイムが鳴ったので仕方なく教室に戻った。

 もしかすると、この間にこっそり戻しているのかもしれない。


 嫌で嫌で仕方のない、被害妄想じみた考えに息苦しくなりながらも、実際に何度もそういうことをされたせいで、どうしたって頭がそれを考えてしまう。


 一度として証拠はなかった。

 あれだけ多くの目があるのに、誰一人指摘する人は居ない。

 同時に、止める人も、助けてくれる人も居なかった。


 それは、いい。仕方がない。どうしようもないのだ。


 たった一人の救いがあるから、それだけがどんなものより助けになるから、大丈夫、大丈夫と心の中で繰り返す。


 扉を開けると、机の上に当たり前みたいに鞄が置いてある。

 自分はそれをそ知らぬ顔で受け取って、授業を受ければいい。

 なくなっていたものがあれば、それはきっと次の休憩時間か、放課後にでも探せば見付かる筈だ。


 けれど机の上には何もなかった。


 変わりに近くの窓が開け放たれていて、ふらふらと教室へ入ってきたシャルロッテの隣で笑い声がはじけた。


 吐きそうになりながら窓際へ向かう。

 いっそそのまま嘔吐していれば楽になれたかもしれない。


 でも窓枠へ手をかけ、覗き込んだ眼下には、叩きつけられ中身を飛び散らせたシャルロッテの鞄があったのだった。


 弾かれるように教室を飛び出し、やってきた教師とぶつかるが、何も言えずそのまま逃げ出した。


 鞄を拾いになんていけない。

 もう彼女たちの視界に入っている事が怖かった。

 同じ空気を吸っているのが気持ち悪くて仕方なかった。


 どうしてこんなことが出来る。

 どうしてこんな酷い事をして笑える。


 違う。彼女たちにしてみれば石ころを蹴飛ばすのと変わらない。

 今日家に帰って食事を取れば、綺麗さっぱり忘れているに違いない。

 その程度の、どうでもいい嫌がらせだ。

 けれどされた方はたまったものじゃない。

 こんな事、きっと一生掛かっても忘れられるものか。

 上塗りして、上塗りして、誤魔化して目を逸らして、それでも尾を引く疑心暗鬼と恐怖が生涯絡みついてくるのだ。


 校舎を飛び出そうとして、出入り口を見張る大柄な男たちを見て立ち止まる。

 震える手でシンボルを取り出し、ぐっと握って祈りの言葉を繰り返す。

 マァムが教えてくれた、世界で一番綺麗な言葉。

 それを口にするのが、人を疑い、人を恐れて、人を嫌おうとしている穢れた自分なのだと思い至ったとき、どうしようもなく涙が流れた。


 力尽きて座り込む。

 ひんやりとした床の感触でお尻が冷えて、でももう立ち上がるのも苦しかった。


 会いたい。


 彼女に会いたい。


「シア、さん…………」



「よんだ?」



「……………………………………ぇ?」


 幻でも見ているのかと思った。

 シアが、小柄でずっと年下の、雪のように真っ白な髪を持つ少女がそこに居た。

 彼女は少しだけ青が混じって見える髪を乱していて、息が上がっていた。

 運動には慣れていないのか、それとも余程慌てて走ってきたのか、遅れてやってきた黒服と侍女が驚いて近寄ろうとするが、


「だいじょうぶ。はなれてて」


 言われて、二人はこちらの見える位置に陣取りつつも大きく距離をとった。


「どう、して……?」


「お手洗い行ってて、教室に入るのが遅れて、走ってくシャルが見えた」


「それで、私を追いかけてきて、くれたの……?」


「うん。シャルは、泣き虫だから」


 小さな手が頬を止め処無く流れる涙を掬う。

 けれど、そんなことをされたらもう止められなくなりそうだった。


 恥ずかしいのに。

 こんなに小さな子に縋るなんてみっともないのに、この世界で唯一彼女の所だけが安心出来る場所に思えて、加減も出来ずシアの両袖を掴んで、縋りつくように、抱き寄せるように、その胸元に顔を埋めた。

 髪に手を入れられて、頭を撫でてくれる。

 急に外の音が遠くなって、だから、もう何も気にする事を止めて、シャルロッテは力の限り泣き続けた。


    ※   ※   ※


 泣き止んだ後も、しばらくシャルロッテはしがみ付いたままだった。


 心が落ち着いて、心地よい疲労感に包まれていて、けれど、そうして落ち着いてくると、彼女の肌のやわらかさとか、頭を撫でてくれる小さな手とか、もうどうしようもないくらい意識してしまって恥ずかしくなった。

 耳まで真っ赤になっている自覚はあったが、ここで顔を離すと彼女と目を合わせなければならないと思うと、どうにもふんぎりがつかないのだ。


「んー」


 がばり、と腋の下へ手を入れられてひっぺがされた。

 いきなりの事に真正面から見詰め合うことになり、急激に恥ずかしさと息苦しさで目を回すシャルロッテ。


「……だいじょうぶじゃなかった」


 もう一度抱き寄せられ、また別のドキドキがやってくる。

 なんというか、あまりにも躊躇が無く、大胆な動きに今までの年下の可愛い女の子という印象から変わって見えてくる。


「泣きたくなったらいつでも来ていいよ。安心するまでついててあげる」


 きゅう、と力を篭めて抱き締められながら聞いた言葉に心臓が爆発しそうだった。


 ただ、少し身を離した時に、黒服たちとは別の、桃色の髪をした教師がやってきていたのを見て、彼女の意識は急激に現実へ戻される。

 シャボン玉が弾けるみたいな感覚の後、音が来た。


「えーとぉ、大丈夫ですかー?」


「だいじょうぶじゃないよ」


「んー、そうですかー」


「そうだよ」


「………………」


「………………」


「あー、センセイもお仕事なので言いますけど、お勉強はちゃんとしないと駄目ですよー?」


「うん、ごめんなさい」


 どうやら、シアが抜け出してきたのを知って探しに来たらしい。

 それなりに親しげではあるが、教師は首を捻りつつ考え込み、


「青春?」


「せいしゅん?」


「やーっ、センセイの時にも激しいのがありましたからねーっ。なんかもう、女の子同士だなんて燃え上がっちゃうと凄いみたいで、最後家を捨てて駆け落ちしてたんですよねー。いやー、正直参りましたよねアレ」


「へー」


 興味、なし。


 途中から聞き流していてもおかしくなかったシアの返事に教師は咳払いをすると、


「センセイ他のクラスの子までは把握してませんけど、まーたまには青春してみるのも悪くないですよー?」


「せいしゅん?」


「えっとですね」


 言いつつ目配せがあり、彼女が周囲を確認したのが分かった。

 何かを感じ取ったのか、シアが頷く。


 青春。青春。なんだろうか。


「っふふーん! お行儀の良いお嬢様たちも大好きですけど、ちょっとくらいやんちゃな生徒も、センセイは大好きなんですよねー。そして、やんちゃするのに大人はいつだって邪魔なものです。時には大人の手を離れ、危険に分け入る時期も必要かなーって。どうですかー?」

「うん」

「ではそっちの生徒さん。貴女は、今から教室へ戻れますかー?」


 それは恐ろしい想像だった。


 彼女から離れて、またあの教室に戻るなんて、とてもじゃないが出来そうに無い。


「だったらやることは簡単です。うんうん。センセイ、一度でいいから不良生徒を更生させる熱血教師をやってみたかったんですよねーっ!」


「いくよ、シャル」

「え? あの、どこ――」


 桃色髪の教師がくるりと回り、指を鳴らした。

 小気味良い音が耳を打つのと同じく、教師のスカートがかぼちゃみたいに膨れ上がる。


「そいやっと!」


 直後、弾けるように霧が噴出し、視界の全てが埋め尽くされた。


「加えてえーいっ」


 ポンポーン、と二人の頭を軽く叩く教師。

 それで一気に霧が晴れた。


 いや違う。


 晴れた視界の中で黒服や侍女、出入り口の大男たちが口元を庇うようにして周囲をうかがっているのが見えた。

 これは、シアとシャルロッテだけが霧を見通しているのだ。


「センセイこれでも昔、『桃娘(タオニャン)』の称号持ちだったんですよねー」


 うししと笑い、背中を押された。


 シアが駆け出す。

 手を引かれ、シャルロッテは走り出す。


 飛び出した校舎の向こうに、眩しいほどの太陽と、天を貫く塔が見えていた。




 

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