15
リア、リア、そう呼ぶ声が聞こえた。
リアじゃないよ。
口に出せない言葉の代わりに心が静かになっていくのを感じながら、泣きじゃくる母へ両手を伸ばし、抱き締めた。
ごめんなさい。
ごめんなさい、リア。
リアじゃない。
姉が死んだのだ。
非凡で、魔術なんて何一つ使えなくて、普通に生きて普通の幸せを得るはずだった姉が些細な事故で死んだ。
残ったシアは、姉の代替物になった。
曾祖母が死ぬまでは特別な地位に居たシアは、老いた彼女が死ぬと同時に別宅へ押し込められていた。
幸いにも曾祖母の遺産は誰も欲しがらなかったので、山奥にあるぼろぼろの古城にそれらは放り込まれ、最低限の使用人たちの世話を受けつつ彼女は教えられた魔女としての習慣を守りつつ日々を生きていた。
ある日、姉が死んだと聞かされた。
そんな人も居たかという程度の感慨だった。
けれど、数日後に古城へ迷い込んでいた母が、彼女をリアと呼び、抱き締めてから、また生活の場が変わっていった。
リア、リア。
ちがうよ。
魔術をよく分かっていない父や祖父母たちはシアを恐れつつも、狂乱する母を止める事が出来ず遠巻きに狂った景色を眺めていた。
それだけだ。
シアは、姉になるつもりなどなかった。
涙ながらに自分へ頬ずりする母と目が合ったとき、彼女の瞳には確かな理性が宿っていた事を知っている。
これはその程度の話で、今からすることになんの関係もない。
勉強や鍛錬で疲れたとき、もうちょっとだけ頑張りましょうと、キマリがしてくれたことだ。
ただ、少しだけ、当時の事を思い出しただけで。
※ ※ ※
頬へ触れた手をおそるおそる掴んだ少女が、ぽろぽろと涙を流していた。
だいじょうぶだよ、とシアの方から彼女の頬を撫でると、握る手の力が強くなって、彼女は肩を震わせ始めた。
頬の手を頭の後ろへ、残る手を背中へ。
引き寄せ、ぽんぽんと背中をたたく。
「だいじょうぶだよ」
理由もしらない。
会った事もない人。
けれど、気になってしまったから。
大声をあげて泣きじゃくる名前も知らない人を抱きながら、耳元で「だいじょうぶ」を繰り返す。
そうして、ええと、と周囲を見回すと、音も無く侍女が近寄ってきた。
彼女は頷きを見せると、手で黒服が既に動いた事を教えてくれる。お菓子先生はさすがだ。更には何かの魔術を使ったようで、遠くの音が聞こえなくなった。きっと、ここからの音も外には聞こえないのだろう。
かつて自分には出来なかったことをする少女を抱いたまま、シアはふさふさな亜麻色の髪へ頬を埋めた。
※ ※ ※
休憩室を一つ貸しきって、なんとお菓子先生は簡易シャワー室を用意してしまった。
腕まくりした侍女が泣き止んだ少女をひんむいて彼女を洗っている間、シアはプリンをちびちび舐めるように食べつつ待っていた。
ちなみにもう授業は始まっている。
さぼってしまった。
けれどいいじゃない、とも思う。
ただ家へ戻った時にキマリへは素直に話して、体調が良さそうなら授業分を教えてもらおうと思う。
最近は朝のマッサージもなく、放課後の鍛錬も言われた事をこなしている程度だ。
いつもならその都度細かい指示を貰ったり、修正するところを指定されて何度も繰り返し魔女術を行使したりする。
予定は狂ったけれど、キマリはあまり焦っていない。
長期休みの間に集中的な鍛錬を行ったおかげで、想定以上の力が付いたのだそうだ。
加えて名前は忘れたけれど、彼女の警戒していた候補者の実力も知れたから、次の選考会で『空衣』の称号を獲得できるとお墨付きを貰った。
しばらくして、
「……お、お待たせしました」
真新しい制服に着替えた少女が出てくる。
彼女の衣類は既に回収されて洗濯に回されているそうなので、本当に新しく用意したのだろう。
まずシアは侍女へ向けて、
「ありがとう」
彼女は嬉しそうに礼をすると、指を鳴らした。
休憩室にカートを押して入ってきたお菓子先生が侍女にそれを受け渡すと、静かにシャワーセットを解体していく。
物音を極力排した、流れるような動きだった。
「あ、あのっ」
亜麻色の髪の少女が言う。
「私なんかにこんなにして頂いて、本当にありがとうございました。ただ、私、なんにもお礼出来るものがなくて……」
シアは首を傾げて、自分の座っていたソファの隣をぽんぽんと叩く。
伝わらなかった分を侍女が手で彼女を促してくれて、とても緊張した様子で歩き、座る。
「お砂糖とミルクは必要ですか?」
素早くカートを押してくる侍女に、シアはいつも通り砂糖を二つ、ミルクを一つ頼む。
悩んでいるようなので、彼女にも同じものを用意してもらった。
お茶請けの焼き菓子もあり、とても幸せだった。
「あ、あの……」
「一緒にお休みしよう?」
「ぁ…………はい、是非っ」
熱い紅茶は苦手だったのか、一口飲んで驚いたようにカップを置くと、興味深そうに焼き菓子へ手を伸ばす。
ふっと、空気が華やいだ。
本当にうっすらと色付いて見える。
「…………おいしい」
「お菓子先生のお菓子だから」
お菓子先生? と首を傾げるので手で簡易シャワーの解体を終えて資材を纏めている黒服を示す。
サングラスを掛けた彼は視線に気付き、ぐっと拳を握ってみせる。
直後、侍女が咳払いをし、彼は身を縮めて作業に戻った。
今知った事だが、どうにも侍女の方が地位は高いらしい。
二人は、互いに口数が少ないながらも、不思議と心地よい雰囲気で談笑した。
時折侍女が話を振ってくれたり、齟齬が生じた時に質問を入れてくれたりと大いに助けてもらいながら。
やがてチャイムが鳴った頃、ようやく授業をサボってしまった事に気付いた彼女が慌て始めた。
「だいじょうぶだよ」
「で、でも…………あぁ、主よ、こんなにも優しい方々を悪の道に招いてしまった私をお赦しください……」
制服の内側からシンボルを取り出し、握って言葉を捧げる。
話の中でも出てきたが、どうにも彼女は今時珍しい神様の信仰者らしい。
「あ、ごめんなさい。その……マァムが、私を育ててくれた方が熱心な方で、私も……昔から」
「んーん」
どちらかと言えば授業のサボりが悪の道だという考えに疑問を差し込みたかったが、そういう人なのだろうとシアは納得した。
「シア様」
部屋を離れていた黒服が戻ってきた。
授業が終わった事で、本来仕えているエリティアへ事情を報告しに行っていたのだという。
「とりあえず、残りの授業には出るようにとの事で。それと、自分が行っても良いか、と仰っていました」
「授業には出るね。でも、エリィは来ちゃだめ」
分かりました、と去っていった黒服が扉を閉めたところで、外から「えーなんで駄目なのよーっ」とちょっと涙目っぽい声が聞こえてくる。
どうやら待ちきれず休憩室前まで付いてきてしまっていたらしい。
戻ってきた黒服が、
「私が相手をぶちのめしてあげるんだから、名前を教えなさい、と」
「だめ、ぜったい、だめ」
強い意志を込めて言うと、彼は覚悟を決めたようで、出て行った扉の向こうから、エリティアの空回りした気合いごと声が遠ざかっていった。
「あの……私は…………その」
事態に付いていけていない少女にシアは何を思ったか頷きを入れ、靴を脱いでソファの上で膝を抱える。
そのまま横向きになり、戸惑う少女に構わず背中を預けた。
「私のともだち」
「ともだ、ち……」
「うん。だめ?」
「いえっ。よろしくお願いします!」
「うん」
身体を前後に揺らし、甘えるような、ふざけあいを求めるようなシアの真意は、二人を見ていた侍女にも分からなかった。
「シア」
思い出したように言う。
そういえば名前も教え会っていなかったのだ。
「シア、さん。よろしくおねがいします」
背中を押し付けてくるシアを嬉しそうに受け止めながら、彼女は不意に瞳から涙をこぼした。
「っ、ご、ごめんなさい……っ。なんだか、この町に来て初めて安心できた気がして…………本当に、嬉しいんです……本当に、ありがとうございます」
「んーん」
涙を拭いて、じゃれるシアを眩しそうに見詰めながら、亜麻色の髪の少女は名を継げた。
「私は、シャルロッテ=トリアといいます。どうかよろしくお願いします」
聞いた名前には覚えがあった。
「よろしく」
シャルロッテ=トリア。
心の内で呟けば、確かな像を以って繋がっていく。
その名前は、キマリが入学当初から警戒していた、最後の候補者の名前だった。




