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最近よく見る光景が目の前で繰り広げられていた。
「……ですから、私は大丈夫ですから」
「絶対駄目よ! ちゃんとしっかり身体を治すまでは意地でも働かせたりなんかしないんだからっ!」
「けれどシア様の面倒は私が望んでしていることで、このくらいならなんとかなりますから……」
「駄目ったら駄目よ! 大体いつまた呪術師が襲ってくるかもしれないのに、もう一人になんてさせらんないんだからっ」
「シーアーさーまーっ」
「キマリ、ゆっくり休んで」
寝台へ縛り付けんばかりの勢いで寝台に抑え付けるエリティア。
シアは近くの椅子でちょこんと座ったまま今日の朝食をいただいている。
ここの侍女は皆優しく甘い。朝からプリンが出るなんて信じられない世界だった。
「ああっ、朝からそんなものを食べてはっ、ちゃんと野菜とお肉もバランスよく摂っていますよねっ!? ~~っ、せめて十回は噛んでから飲み込んでくださいっ、甘いものは三日に一度と約束したじゃないですかぁぁぁっ」
「アンタはシアのお母さんか!?」
「十回噛む。けどプリンはおいしい」
「シアもこんな所で食べてないで、早く制服に着替えないと遅刻しちゃうわよっ」
けれど着替えを手伝ってくれる侍女にキマリのところが良いと言えば、なぜかちょっと涙ぐんで連れて来てくれたのだ。
途中プリンを回収してここにいたる訳だったが、確かにキマリはシアが居ると大人しくはしないらしい。
「いってくるね」
ただ、制服に着替えてきたシアがそう言うと、キマリも抵抗を諦め、いささか落ち込んだ様子で答えるのだ。
「……いってらっしゃいませ」
「うん。お勉強、頑張ってくる」
という訳で、今日もキマリはお留守番となった。
※ ※ ※
事件以来、学院内も少々物々しい雰囲気がするようになった。
学院側が用意した警備が増員され、学院内を監視できる場所や外壁の四辺にまでいつも人の目があり、関係者以外を徹底して排しているようだった。
給仕をする侍女以外の、装具を携帯した護衛としての侍女も増え、廊下や休憩室には常に彼女たちの目がある。男子禁制とまでは言われていないが、その辺りは各家の配慮があったということだろう。
ただ、流石に用を足すところにまで同行する訳にもいかず(他家の令嬢も多いため、またそれぞれの涙ぐましい努力の末に)、大きな鏡のある手洗い場は、生徒たちにとって数少ない気が抜ける場所となっていた。
「あらシア様……、シア様も生き抜きにいらっしゃったのですか……?」
「ちがうよ?」
黒髪ロングのノーア家の令嬢が、昼食も終えた時頃にアン家の令嬢と手洗い場で談笑をしていた。
ここは古臭いクラインレスト学院の校舎でも近年になって改装された場所で、お手洗いと称するには少しばかり広々とした空間があり、化粧直し用に椅子まで用意されている。生徒たちは長時間独占しないという暗黙の了解の下で持ちまわっていた。
中には、
「っくはー! 制服着てないからって廊下歩く度にセンセイを睨まなくてもいいじゃないですかーっ」
心なしか髪までへたり込んだ桃色教師が化粧直しがてら愚痴りに来ることもある。
改装されたこのお手洗いは、教師たちの詰め所である職員室から最も近いのだ。
「なんなんですかねー、この歳でまた制服でも着て歩けばいいんですかー?」
「あらぁ、先生の制服姿というのも興味がありますわねぇ」
と、コレはアン家の令嬢。
彼女は鏡で赤毛の巻き具合を気にしつつ、これで気疲れがあるのかそっと吐息をつく。
そんな間に用を済ませたシアが手洗いに戻ると、別の一団が鏡の前に陣取っていた。
「シア様ぁ」
出口でアン家の令嬢が手を振っている。
どうやら彼女たちに場所を譲ったらしい。
手早く手を洗い、ハンカチで拭きつつ一団の横を通り抜ける。
「……もう、ほんとになんなんだろうねぇ」
「わかる。教室の中まで暗くなるっていうかさあ?」
「第二回の選考会じゃぼろぼろだったんでしょ? いつまでこの学院に居るつもりなんだか」
「学院代表様のお気に入りだか後見だか知らないけど、才能ないよあの子。さっさと辞めちゃえばいいのに」
どうやら、違うクラスの人たちらしい。
比較的おしとやかなお嬢様の多いシアのクラスに比べて、彼女たちは少しだけ庶民的というか、ちょっと荒っぽい雰囲気がある。
先だって二大派閥のトップ会談でトップ二人がほのぼのと仲良くなった為に、いつもほんわかしたクラスに居るから、こういう話は考え辛くもある。
「気になりますかぁ?」
廊下へ出たところで、アン家の令嬢が聞いてきた。
シアが中へ視線を残していたことに気付いたらしい。
このおっとりとした少女は、思いのほか人のことをよく見ているのだ。
「クトゥルスクラスの方ですわねぇ。あのクラスは入学当初からぁ、ちょぉっとだけギスギスしてしまっているみたいですのよねぇ」
「皆、塔の魔女になりたいから?」
「ん~~、そういうのもぉ、あるかもしれないんですけれどもぉ」
口ごもる理由はノーア家の令嬢が継いだ。
彼女は痛くされると喜ぶ人だが、いろんなところに情報源があるらしく物知りだ。
「孤児院生まれの方がいらっしゃるようで……、どうやらその子がクラスで弾かれてしまっているようですわね……」
「そうなんだ……」
「長期休みの間に学院代表のハーヴェイ=ブルトニウムと居る現場を目撃され……その後見を受けていると知られてから更に苛烈なことになったようですわね……」
「シア様がお気になさる事ではありませんわぁ。心苦しくはありますが、競争の場ではよくあることですものぉ」
「第二回の選考会で拝見した魔女術も、お世辞にも良いとは呼べないものでしたし……単純に代表の慈悲だったのでしょう……」
その話はキマリからも聞いていた。
絶対安静を言い渡されていながら、あろうことかクラインロッテ家の精鋭が守る屋敷から脱走し、会場でがたがたと震えながら見学していた彼女が、入学当初から警戒していた最後の一人を取るに足らないと評していたのだ。
ちなみに脱走を許したお弟子さんたちは、キマリに怒り狂ったエリティアの話を聞いた彼女の祖父が怒り狂い、こっぴどく叱られたという。
きっと、こっぴどくなんて表現では足りないくらいに孫大好きおじいちゃんは怒った事だろう。
更に言えば、結局エリティアは第二回選考会を欠場した。
呪術師への対応とキマリの監視で、それどころではなくなっていたのだ。
「おまたせ」
表で待っていた侍女とお菓子先生が後ろからついて来る。
共に表情は変化しないが、なんとなくお菓子先生は応じにくそうにしている。
下男下女へは特に気に留めない令嬢たちはさっさと先へ行ってしまうので、シアはそれなりに歩を早めなければいけなくなる。
振り向いて待ってくれるクラスメイトへとてとて近寄っていった。
ただ、連絡通路で見えた光景に彼女は足を止め、
「先に行ってて」
と友人たちへ声を掛け、中庭へ入っていく。
素早く連絡通路と上階を見張れる位置に侍女が、外壁と校舎裏を見張れる位置へは黒服がつき、そして二人は付き人としてはあり得ざる事に、中庭で行われていた事に眉を潜めた。
※ ※ ※
中庭の奥に水場がある。
校舎と倉庫らしきものの間にある、少しだけカビの匂いがする場所。
きっと用務員が使うような場所なのだろうと彼女は思っていた。
幸いにも教室からは死角になり、あまり人は来ない。
作ってきたお弁当を脇に置いたまま、彼女は顔を俯けたまま力任せに布地を擦る。
最初は水が勿体無いなどと考えていたが、だんだんどうでもよくなってきて、洗い方も雑になってしまっていた。
今日は、葡萄だった。
こびりついた色素は落ちにくくて、早く処理をしなければと思うけれど、まだ午後の授業が残っている。
せめて誤魔化しが効く程度に落ちればなんとかなる。
なんとか。
誤魔化して、俯いて、笑われながら今日をやり過ごせる……だから、なんとか。
思って、青紫に染まった靴下を洗っていたけれど、不意に身体から力が抜けて座り込んでしまった。
跳ねた水が服を、スカートを、そして下着を濡らしていくのを他人事のように感じる。
ぐらりと世界が揺れた。
どうして、こんな所に来てしまったのだろう。
冬は凍るように寒いけれど、牧歌的で優しい人たちに溢れた故郷で働き先を探していれば、生活は苦しかっただろうけどこんな思いはしなくて良かったのではないか。
固くあかぎれのある指は孤児院に居たときよりもずっと骨ばっていて、マァムの褒めてくれた亜麻色の髪はすっかり乾いて痛んでしまっている。
いつからか鏡を見るのが怖くなって、後見してくれたハーヴェイの買い与えてくれた化粧台には、いまや埃が溜まっている。
当初は厳しいながらも気遣いを見せてくれた彼も、元より魔女協会で委員を兼任している為か、一人暮らしをする彼女の元へは中々顔を出してはくれなくなっていた。
呪術師、という危険な人が都市を騒がせるようになってからは、学院ですら姿を見かけることが減った。
約束をして会うときは、化粧で徹底的に顔色を隠していて、今の所は気付かれていない。
こんな自分を認めてくれた彼にだけは、今の姿を見られたくなかった。
無理をして、楽しそうな仮面を被って、そんな自分に嫌気がさして嘔吐することもあった。
そして、コレだ。
最初は偶然を装ったものだったのが、今日は面白半分に葡萄の房を投げ付けられた。
魔女術によって弾けた葡萄の汁が顔や髪に、服にかかり、手にしていたお弁当を抱えて逃げ出した背後で笑い声が沸きあがったのを覚えている。
「っ――」
それだけはすまいと、必死に堪えていたが、もうどうでもよくなってきて、彼女は禁じていた涙を流した。
一つ流れればもう一つ、際限も無く流れ続ける涙が零れるほど、心が乾いてひび割れて行くように感じた。
心をひらくこと。
教えられた魔女術の基本も最早遠い。
心をひらいても、それを道端の石を蹴るように痛めつけられるのでは、恐ろしくて閉ざしていくしかない。
本人たちにとっては軽く一蹴りしただけなのかもしれない。でもソレが十、二十と重なっていくと、人の心はズタズタになっていく。行為そのものも、そうする人も、集団も、ただただ怖くて仕方が無い。
きっかけは、ミュールというものを知らなかったからだった。
お洒落について話していたクラスメイトに話を振られて、分からないと答えた彼女は、そのまま素直に自分が孤児院の出身であると話してしまった。
いつしか汚い、臭いと囁かれる様になって、家に帰ってから何時間も掛けて身体を洗った。結果として磨きすぎた肌は艶を失っていって、表情は暗く、声を大きく出す事が出来なくなった。すると今度は貧乏臭い、貧相、暗いと声を大にして言われ、第一回の選考会では体調を崩して出ることが出来なかった。
長期休みを挟んでなんとか持ち直した彼女は、そのまま第二回へ挑戦したが、自分を罵るクラスメイトと、顔もよく見えない知らない人たちに囲まれてまともな実演も出来ず壇上を降りてしまった。
ミュールとは、サンダルのことらしい。
具体的な違いは未だに分からない。
何故サンダルではいけないのか。
サンダルをミュールと呼ぶ彼女たちの方がずっとおかしいのではないか。
………………もう、いいのではないか。
疲れた心で思うのは、故郷に帰りたいということだけだった。
あの澄み切った冷たさを肌に感じたい。
広大で力強い自然に包まれて、ひっそりと生きていきたい。
けれど、身体は糸が切れたみたいに動かなくて、少女はぽろぽろと涙を流すだけだった。
「だいじょうぶ?」
そうして、彼女は出会った。
白髪の、一回りは年下の少女。
声に吊られて目を向けてから、顔を背けようとした。
年下の女の子に涙なんて見せられない。
今更ながらの意地か、羞恥か。どちらにせよ、こんな姿を他人に見られてしまったのだ。
自分でも訳の分からない焦りのような気持ちが湧き上がり、逃げ出そうとした。
けれどその前に手が差し入れられた。
信じられないくらい柔らかで、少し冷たい手を頬に感じる。
それが彼女にとっては故郷を思えるもので、もっと、もっと泣きたくなった。




