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やがて小さなてのひらは  作者: あわき尊継


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 月を眺めていた。


 砂漠の夜は寒くて、昼間のように薄着では肌が冷える。

 別荘の二階にある開けたバルコニーで、花が風に身を震わせるのを聞いた。

 反対が透けて見える薄手のストールを羽織って腕を擦っていたキマリは、背後の気配に気付いて振り返る。


「こんな夜更けにどうなさいましたか」

「……今は誰も居ないじゃない」


 拗ねるように言うのは、同じく一枚羽織ったエリティアだ。

 彼女は口をすぼめて不満そうにしていて、シャワーを浴びた後だからか、降ろした髪を夜風に晒していた。

 少し黄色の強い彼女の髪は、月明かりで見ると黄金のようにも思えた。


 不確かな物言いではあったが、言わんとする意味は想像出来る。


「今の私はシア様の従者です」


「シアは寝たんでしょ。ろーどー時間外よ、時間外」


「何故そうまで私の口調に拘るんですか?」


 時折こうして、エリティアはキマリに昔の口調で話せと要求してくる。

 そう自由に振舞えない立場としては困るばかりだ。


「……昼間あんなことしておいてよく言えるわね、アンタ」


「まあっ、あれは身体の固いエリティア様をほぐして差し上げようと私なりに一生懸命やっただけですのにっ」


「それだけふざけられる癖に言葉遣いが駄目とか訳わかんないわよっ」


 とはいえキマリなりの事情もあるのだ。


「このままではいけませんか?」


「………………ぶーっ」


 困った子豚さんが詰め寄ってくる。

 悩んだ時間と、直接決め付けてこない優しさを報酬に、キマリも少しだけ肩の力を抜いた。

 鼻先をぶつける勢いで距離を詰める子豚さんには、額を弾いて待てと示す。少しだけ涙目になったエリティアが身を戻すだけの時間を待って、キマリはこぼす。


「……これでもそれなりに大変だったんですよ」


「それは…………うん……」


「今まで居た場所から離れて、最初に買ったのは鏡でした」


「鏡?」


「それだけです」


 ここが限界。

 先を話すには支払いが足りない。

 察しの悪いエリティアなら分からないだろう、そうタカをくくりつつも漏れた甘えと甘さでもある。


「ちょっとぉ――」


「まだ、第一回の選考会が終わったばかりです。前評判のあったエリティア様とノークフィリア様は出ざるを得なかった。けど、選考会で見せた技量や性質を踏まえて対策を練った人たちが第二回・第三回と狙いを定めて出てくるでしょう。例年通りであれば、回を追うごとに指輪の力は大きくなっていく。第三回で称号資格を獲得した人がそのまま最終選考でも選ばれることがほとんどです。敗退を喫した以上、エリティア様が第二回を流したところで大きな批判は起きないと思いますよ?」


 知らず、バルコニーの柵を強く握っていた。


 目算は立っている。

 やはり候補者は『神無』の称号へ偏る筈で、空席になることも少なくない『空衣』を狙う人は稀だ。

 上位を争う二人が例え他を引き離したとしても、支援者になることを望む方が大多数だろう。


「…………そんなに塔の守護者になりたいんだ」


 気遣いすら帯びた問い掛けに、身体の熱を吐き出す時間が必要だった。


 エリティアの視線から逃げるように背を向けると、遠く闇の向こうに聳え立つ塔が見えた。


「…………」


 当然です、そう言おうとして何も口から出なかった。

 やけに喉が渇く。


「エリティア様は――」


 吐き出した筈の熱が飛び出て、思わず口を噤んだ。


 後ろから強い視線を感じる。

 責めるようなものではなく、心配そうな、不安そうな視線だ。


 魔女は常に浅く周囲と感応している。

 日常を生きる上では妨げとなる能力だが、こうして揺れ動く心に魔女は敏感だ。

 敏感すぎる故に誰しもどこか臆病であり、同時に触れられることを好んでも居る。


 臆病な癖に好奇心が強い、困った人たちだ。


 やがてキマリは大きくため息をつくと、


「エリティア様は、どうして塔の魔女を目指したんですか? 昔は、全く興味が無いように思えましたけど」


 彼女は昔から優秀ではあった。

 座学も実技も平均より抜きん出ていて、けれど傑出するほどではない程度。

 一番前に立とうとする気概はなく、ただ友人たちと研鑽しているのを楽しんでいたようにも思う。

 そんな彼女が、天才少女などと呼ばれたノークフィリアの令嬢と称号獲得を巡って争うようになっている。

 前もって実力の程は調べてあったが、急成長を遂げた原動力は不明なままだった。


 聞けば答えてくれるだろう。

 聞いてこなかったのは機会が無かっただけで、昔から変わっていなかった彼女だから、当たり前のように答えてくれる。


 そう、思っていた。


 エリティアはじっとこちらを見詰め、口篭っている。


「アンタ……私の実演は見たんでしょ……」


「はい」


「っ……! だったらっ、私から言う事はないわっ」


「……話がよく分かりません」


 首を傾げて言うと、彼女にしてはありえざる荒々しさで首元を掴まれた。

 見詰めるのではなく、睨み付けてくる瞳を見ても、キマリには何故彼女が怒りを見せているのかが分からない。


「どう……なさったのですか、エリティア様?」


「アンタはさ、シアに『空衣』を取らせるつもりなんでしょ?」


 これには少し驚いた。

 判断材料はあったけれど、彼女がこういう推測をしようと考えるとは思っていなかったからだ。


 審査員の下調べもせず、ただ彼女の思うままに表現された風の演舞。

 とても清涼で、美しく、時に苛烈さを思わせる複雑極まる流れの制御は、もしかするとノークフィリアの令嬢を越えていたかもしれない。


 けれど負けた。


 魔女の感応というのはそういうものだ。

 より適合する性質を良いと感じてしまう。


 ショースポーツが、人気の高い演者の方が高く評価されてしまうように、これはどうしようもない人の感性の問題なのだ。

 実力が僅差であればあるほど、評価は隔絶していく。たった一点が決して越えられない差になってしまう。


 勝利への貪欲さが欠けているのであれば、あの少女を越える事は出来ない。精々、幼さからくる不安定さに期待する程度だろう。


「……………………やっぱり、そうだよね」


 トン、と胸元を押されて背中が手すりにつく。


 自らも一歩離れたエリティアは月明かりに溶けるように笑った。


 いつも通りにも思えたし、今まで見たことがない表情にも思える。

 彼女を量りかねる、というのは初めてだ。


 思っていると、立てた指先を向けられ、彼女の表情はその向こうに隠されてしまった。


「決めた。私も『空衣』を狙う。とりあえずは次の選考会で称号をぶんどってやる。技量と感応力じゃ両立は難しいし『神無』は捨てることになるけど、第三回か、最後にそっちもぶんどってやれば、私は二重称号を得てヴァルプルギスの夜でも優位に立てるじゃない。いい考えでしょ」

「――両立出来なければ獲得している称号は消失しますよ。シア様とノークフィリアのご令嬢、二人を相手取って勝つおつもりですか?」


 自分でも驚くくらい乾いた声が出た。

 なぜ、という疑問を挟むより早く、エリティアは重ねる。


「それくらい出来なきゃ塔の魔女になんてなれないんじゃない? ねえ――無欠の天才様?」


 月明かりが翳った。

 吹き荒れた風が二人を打ちつけ、互いの髪が激しく靡く。

 風に耐えられなかった花びらが舞い上がり、二人の間を抜けていく。


 ただ、とても赤い花びらだけが妙に目に入って、残像が風の収まった後にまで視界を染めた。


「…………ふ」


 予想だにしていなかった。

 あろうことか彼女にそんなことを言われるなんて。


 無欠の天才。そう呼ばれていた時代から転げ落ちた人間に、あの時唯一救いをくれた彼女が――


「ふふ…………ふ、ふふふふふふふっっ、っ、あははははははは!」


 本当におかしかった。


 自分の肩が震えているのに気付いたけれど、聞こえてくる笑い声が自分のものだと気付くのには更に遅れた。


 キマリは、翳った月夜に自分がどんな表情を浮かべているのかが分からない。


 本当に久しぶりだった。

 意図せずこんなに感情が湧きあがってくるなんて、本当に。


「っ……!」


 それがどんな感情かも分からないまま前を見れば、エリティアが息を呑んで身を固くした。


「……ねえエリティア様、私だって少しは教えたんですから、何か一つくらいヒントがあってもいいんじゃないですか?」


「…………そう、ね。だったら、教えてあげるっ」


 こちらを必死に睨み付けてくるけれど、瞳の奥の怯えは隠しきれていない。

 それでも目を逸らさなかった彼女は、何かを訴えるようにして言う。



「私が本気で塔の魔女を目指そうと思ったのは、二年前よ」



「………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………あぁ」



 つまりそういうことか。

 失望と落胆と、怒りと共にキマリは背を向けた。


 二年前、キマリは魔女の適正を失った。

 ヴァルプルギスの夜があれば、塔の魔女になるのが確実だとさえ言われた人間が、頂点から転げ落ちた日。


 上があいたのだ。


 どうしようもない程越えられない壁が、自ら崩れ落ちた。


 もう、彼女と言葉を交わしたくなかった。

 これ以上、彼女に失望したくなかった。


 だから、これ以降二人は言葉を交わすことがなくなり――断絶した。





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