逃避文学とよばれて
ファンタジーは、『逃避文学』と呼ばれることがあります。
特に、『異世界トリップ』や『異世界転生』は、そのやり玉の筆頭。
若い人に人気があるから、年を重ねたマジメなかたなどは、そんなふうに決めつけてしまう傾向が多いと思います。
でも、そうかなあ?
そんなこといったら、『物語』はすべからく、現実から離れた世界なのでは?
ノンフィクション以外のものをすべて否定してしまうのでしょうか。
現実をみすえ問題点を浮き彫りにする社会派文学だけが、良いというのでしょうか。
重厚なファンタジーは、現実世界にある様々な問題をえぐりとることができます。
ファンタジーだから、『逃避文学』でダメって決めつけは、ファンタジーそのものを知らない世界の人がいうことでしょう。
それに。
正直、『逃避文学』でも、いいじゃないか、とも、思うのです。
現実には、辛いことはたくさんあります。
人間関係につかれることだって、あります。
これは、若い人だけではありません。年を重ねれば、若いときとはまた別の悩みもあります。
ファンタジーは、その辛さや苦しみの『答え』をくれるわけではありません。
ほんの少しの間、麻酔のように痛みを和らげるだけで、多くの場合は『治療』にはなりません。
でも。それって、すごいと思いませんか?
一刻の安らぎや癒しが、活力になることだってあります。
世の中、栄養ドリンク飲んで、無理やり元気になって働かないといけないことなんてざらにあります。心で、涙を流していても、表面では笑顔を振りまく時だって、たくさんあります。
若いころは、しゃにむになって、『高尚』なテーマを描くファンタジーを書こうと努力した時期もありました。
もちろん、そういった作品を書かれる方を私は尊敬しています。
しかし、最近は、重たいテーマを書くことはなくなりました。
私自身、ひとにどうこう言えるような人生を送っていないですしね。
読み捨て、オッケー。逃避、上等。
誰かが、私の小説で、一時の安らぎを得るというのなら、それは作者冥利に尽きるというものです。
まあ、本音を言えば、読み捨ては、ちょっと悲しいですけどね。
このエッセイ自体が私の逃避だったり(^^;
連載が滞っております(泣)