二面性
いつもありがとうございます。
飛騨に『両面スクナ』という神があります。
これは、日本書紀に出てきます。武振熊に倒された、飛騨の鬼神でありますが、これは、もう、本当に岐阜県高山市では、近世まで『神』として崇められてきました。
日本書紀ではモンスター。地元では神。
時の政権に反した地元英雄が、権力によって貶められ、一方では崇められる。
こんなのは、たいして珍しいことではありません。
なぜこんなことを書いたかというと、神に限らず、
『妖怪』『妖精』そして『モンスター』と呼ばれるものは、洋の東西を問わずに必ず生まれ落ちた背景というものがあります。
ゴブリンやコボルト、そして、日本の鬼。
これらが、『異民族』をさした蔑視の蔑称であったというのも、また真実。
文献や物語に残る異形の姿だけをみて、モンスターとして扱うことに、それ程問題があると思っているわけではありませんが、前にも書きましたが、ただ、『蛮族』『異形』は倒して良い。こういう単純な結論だけで、物語を紡ぐのはどうなのだろうとふと思うわけです。
まあ、そんなことを言い出したら気兼ねなく倒せるのは不死者であるアンデットだけ。
とはいえ、アンデットはアンデットで、彼らの現世への未練を追及するとやっぱり、どりゃあっと倒す気にもなれないことになってしまいますので、ほどほどにしないといけません。
ファンタジーはよく、光と影といった、相反する価値観を追及する形式が非常に多いわけです。
勧善懲悪が大好きな私が、こんなことを言うのは、矛盾しておりますけれども。
物事には、常に、『見えている』部分と『見えていない』部分がございます。
見えていない場所だからこそ、見ようとするのも、またファンタジーだと思うのです。
そして、それはたぶん、そこがおとぎ話と小説としてのファンタジーとの最大の違いだと思うような気がします。
体調復帰しました。ご心配おかけして、申し訳ございませんでした。
詳細は活動報告にて。




