伝奇
いつもありがとうございます。
ちょっと、長めです。
今回は『伝奇』でございます。しつこいですね。
秋月はファンタジーファンでもありますが、伝奇ファンでございまして、伝奇オカルト作家さんを心の師と仰いでおりますので、お許しを。
(拙作もオカルト要素満載でございますので)
とにかく私の中で、伝奇とファンタジーの関係がずっと、曖昧でございました。
さて。先日、感想欄にトーラ様から後述の伝奇について考察をいただきました。(転載御許可はいただいております。ありがとうございます)
1.伝奇はファンタジーの下位カテゴリ(伝奇⊂ファンタジー)である。 ただし、特殊性が高くより狭義的に使用され別のモノと認識することも可能である。
2.伝奇におけるファンタジー要素は、奇怪でいまわしいモノ、妖しくおぞましいモノとして取り扱われる。
3.上記2.は“ホラー”との共通項であるが、古風で東洋的な要素を含み、また主人公は怪奇に対し同等以上に対抗・対処できる手段を持ち一方的に蹂躙されることはない。 4.アクション要素を含む
こんなすげー考察をもらってしまったので、秋月も慌てていろいろ調べました。
それで。ウイキなどの調査によれば、伝奇という言語はもともと『中国』唐宋時代の小説らしいのです(驚愕)
ただし、日本の場合、中国や日本の古典的な伝承、説話、史実とは異なる歴史を題材にした作品に、超能力、超常現象などを加えた物語なのだそうで。
そして、日本の伝奇小説は『伝奇時代小説』『伝奇ロマン』『伝奇バイオレンス』に分かれると提唱されておるそうな。(うち、伝奇ロマン、伝奇バイオレンスは現代もの)
しかも、作品の特徴により、『伝奇SF』『伝奇ホラー』『伝奇ファンタジー』『伝奇ミステリー』などまあ、ある意味で好き勝手に呼ばれているというのが現状らしいです。
つまり。伝奇という言葉は、『伝承や説話、史実』をある程度使っているというニュアンスであって、それ以上のジャンルを特定するものではないようですね。
しかし。出版業界の人がどう思っているかはともかく、一般的にはトーラ様の考察にありましたように、『主人公は怪奇に対して対抗できる手段を持つ』という一文が、とても大切なのではないかと私は思います。
史実を使うということ以上に、結論的には物語のエンタメ性が重視されているのかなあ、と。そもそも、伝奇と名打った作品は、荒唐無稽な作品が非常に多いわけでございます。
山田風太郎先生の作品など、下手なファンタジーより、エフェクトが派手でございますからね。
そこで。ここで、ひとつ考えてみます。
題材は、牡丹灯篭。江戸期のロマンティックホラーです。
新三郎という浪人に焦がれて死んだお露が、死したあとに新三郎の元に通い詰め、結果として、新三郎を憑り殺すお話でございますね。
これをもとに、例えば、話の美しさは全くなくなりますが、新三郎が通ってくる亡者であるところのお露を、和尚が魔よけの札を渡すなどというかったるいことをせず、自ら出向いて払い、そのシーンをいかにも派手に書いたら、伝奇時代小説になるのかもしれません。
(悲しくて怖い怪談はだいなしになるけど)
で。思うに、日本人にとって、幸か、不幸か、この「伝奇」小説は面白すぎました。
架空日本文化を扱うファンタジーという発想がなかなか生まれず、伝奇でない『和風ファンタジー』というものがほとんどないという現状になったのは、伝奇が面白すぎたのではないかと、推察いたします。
また、なろうで、西洋ファンタジー全盛で、和風ファンタジーは書き手すら少ない現状は、侍や忍者を出すなら、ある程度、日本史正史を使用しなくては、という強迫概念がどこかに根強くはびこっているからなのかもしれません。
余談でございますが、史実や伝承をもとにしたファンタジーというのを西洋で考えるとしたら、やはり『アーサー王物語』なのかなあと思います。
日本のおどろおどろしい雰囲気とはちょっと違いますが、それほどは、遠くはないかなあと。
余談。拙作『私は隣の田中です』はギリ『伝奇ロマン』を名乗っても怒られそうにない気がしてまいりましたが……なろうだと、そんなジャンルがない(苦笑)