1.その少年、出鼻を挫く
登場する妖怪の中には、複数の情報からから作者のオリジナル解釈したものがございますのでお気をつけください
まだ肌寒さが残る三月末日の深夜、年度の境目を迎えるその時間帯、電柱についた電灯以外に首を垂れるものがいない住宅街で、一人声を荒げる不届き者がいた。
「おい!灯明院の嬢ちゃん!おい!聞こえてんのか!?」
その不届き者、髪の毛一本ないタコ頭にねじり鉢巻と、どこか昭和の漫画から飛び出したような面構えをしたそのオヤジは、携帯電話に向かってそう叫ぶ。
「えぇ、怒鳴らなくても聞こえているわよ。それで、咲鳴神社であってるのでしょうね」
嬢ちゃんと呼ばれた年若い声をした電話の相手は、不届き者のそれに反して冷静であった。
「あぁ!そうだ!俺もなんとか追いつくようにするから頼んだ!」
「私一人で充分よ」
ブツという音とともに通話は途絶えた。
「いっちょまえなこと言いやがって」
舌打ち一つ、いささか不機嫌そうな表情をするとタコ頭は携帯電話を腹巻の中にしまい再び勢い良く駆け出した。
◇
タコ頭の電話の相手、声より幼い印象をうける少女は神社へと続く階段を登っていた。
暗闇に一筋の光が差し込むが如く、どこか禍々しさの漂う境内へと臆すことなく向かう。
少女の名は燈明院 咲華。どこか大人びた雰囲気もあるが、今年高校に入学する齢15の少女である。月明かりに照らされ煌めく銀髪、透き通るように白い肌は日本人のそれを彷彿とはさせないが、古来よりこの地に根付く六つの名家の一つ、燈明院家の次期当主である。
そんな少女がなぜこのような深夜に、ましてや神聖な場所で有りながら汚らわしい気の集まる場所に向かっているのか。
それはこの地の名家の総称である六院家の家業に関係する。
魑魅魍魎、怨霊怪異、悪鬼羅刹、異類異形、この世にあらざるものの専門家として、それらからこの地を守るのが、同じ一人の陰陽師の血をひく燈明院、榊院、形代院、神鏡院、三方院、御幣院のお役目である。
燈明院咲華は、その務めを果たすためここにいた。
石段を登りきるとそこには犬の頭があった。
だがそれは野良犬の類ではない。その犬は端々の破けた法衣を纏っていた。全長は2メートル弱はあろうか、痩せこけ、棒きれのようになった後ろ足でよろよろと神社の本殿へと向かっている。
「まちなさい!貴様のような憑き物が訪れていい場所ではないわよ」
咲華がそう叫ぶと、それは後ろを振り返った。ギラついた目が、咲華を捉える。そうしてそれは完全に咲華と向き合った。
「グゥゥ、ルァァ、クイタイ、クイタイ」
「犬神……でも、おかしいわ……腹を空かせてる……」
「クイタイ、クイタイクイタイ、クイタイクイタイクイタイ」
怪異の正体、それは犬神であった。蠱毒と呼ばれる呪術の一つである。犬の首だけが出るようにその体を地中に埋め、目の前に餌を置き、餓死寸前の状態まで放って置く。そうしてついに息絶える瞬間、自身の憑き物として願望を願えよと誓わせるなり首を刎ねることで、その首は餌に喰らい付き、犬神となる。
呪術であるため、本来であれば犬神を使役する宿主、犬神主が存在する。
しかし、咲華の目の前のそれは様子が違った。
「主がいない……?」
「ク イ タ イ!!」
刹那、それは駆け出した。
早い。一瞬で距離が詰まる。
咲華は転がるように左に身を交わす。
すぐに立ち上がり、犬神の後ろ姿を確認すると懐から小刀を取り出し、目の前にかがける。
すぅと息を大きく吸うと少女は目を見開き、言葉を紡ぐ。
「我今ここに天双子木命より賜わりし命に従わん!活人滅魔の妖刀よ、悪鬼羅刹を退けんために、我が手に活人剣を授け給え!」
そう、口上を上げ咲華は柄を握る。犬神も何か不穏な気配を感じたのか、咲華から距離を取り身構える。
「抜刀!霊切!」
握りしめた柄を思い切り鞘から引き抜く。
しかし、何も起こらなかった。
鞘から解き放たれた刀身から光が生じなかった、とか、尋常じゃない長さの刀身が抜き出されたとかではない。
そもそも、鞘から刀を引き抜けなかったのだ。
「くっ……抜刀ぉ!霊切!!」
鞘と刀身を繋ぎ止めるものはなに一つない。しかし、彼女には引き抜けなかった。
犬神もぽかんとした表情で咲華を見ている。
鞘に収められた小刀は、どんなに咲華が力を込めようと、寸分も動く気配はない。
「はぁ、やっぱりダメ……ね……。ネコ丸!霊具転送して!」
咲華はそうインカムに叫び、霊切を空に投げる。
瞬間、霊切を包むように闇よりも暗い黒色のヒビが生じ、それが割れるように開くと、緑色の0と1が無数に流れてゆく空間が広がった。それが少女の投げた霊切を包みこむとそのまま縮小し、霊切とともに姿を消した。
そして、咲華の左手に先程と同じ空間が広がり、一組の木製トンファーが現れる。
咲華はそれを握り締め犬神へと駆け出した。
あっけに取られていた犬神もそれに気づき、唸り声を上げ咲華に向かっていく。
先手はうったのは犬神だった。
もはや腕と呼んでも過言ではない左前足が上から振り下ろされる。
咲華はそれをトンファーで防ぎ、はじき返す。そして彼女は一歩後ろへ後退した。
距離は5m程、咲華は次の手へと身構える。
犬神は攻勢に出た。大きく両腕を広げ、鋭利な爪が柔肌へと迫る。
一瞬で距離を詰められた咲華には、右にも左にも逃げ場はない。
齢15の少女がその爪に牙に襲われれば、見るも無残な肉塊となることは推して知るべしである。
しかし、咲華は動じない。眼前にそれが迫った瞬間身をかがめ、トンファーの先端腹部へと向ける。
「見た目と中身は得てして違うものよ、覚えておきなさい。燈明院式退魔術、トンファーロケット!」
トンファーの先端が犬神の腹部に触れた瞬間、淡い紫色の光が円形に広がり、トンファーの先端が凄まじい勢いで射出された。
「グフッッ」
思はぬ攻撃に受け身をとることのできなかった犬神はそのまま10m程吹き飛ばされ、杉の木をへし折りうなだれていた。
「さて、あとはあいつを捕まえて主の元に」
木製のトンファーは蒸気をあげて元に戻る。
「さて……拷問用捕縛術式は……」
犬神は呪術であるため、呪術の主から犬神――憑きもの――を落とすことで正常に処理をすることができる。犬神とて自らなりたくて犬神になったわけではない。そのため正常な方法で犬の魂を供養してやらなければならない。
「あった。さて……あれ?いない?いない!!」
振り返って彼女の眼前から、犬神は消えていた。
◇
同時刻、耳にはイヤホン、スポーツウェアの少年が夜道で軽やかにランニングをしていた。
少年の名は彩樫 潮。つい先日この街にある六院高校に入学するために、陰府月町に引っ越してきた。高校が遠方からの入学者に貸し与えている借り上げのアパートに一人で暮らす彼だが、親元を離れてという言葉は不適当だ。彼の両親はすでにこの世にはいない。潮が生まれて間もなくこの世を去った。それ以来、潮は父の妹、つまりは叔母さんの家で育てられていた。
「それにしても、誰もいないな……この町の夜は、向こうとは大違いだ」
潮は都会の出身である。夜になれば仕事終わりの会社員が行き交い、それを引き入れようとネオンが煌めき、キャッチが声を響かせる。そんな都会とは打って変わって、陰府月町の夜は静かだ。町に住む者皆が眠りに着き、澄んだ空気、涼やかな夜風、東京にいたころ叔母さんとの日課であったランニングには最適だった。
ただ一つ一抹の不安を覚えるとすれば、今年高校生になる少年が一人でこのような深夜帯に出歩いている所をお巡りさんに見つからないか、ということである。
町の外れ、町を囲む山々がただの青色ではなく、そこに根付く木々がしかと見えるようになった辺りでアパートの方へ戻ろうとしたその時である。
突如、空に眩い閃光が走った。
そして光を追うように、近くの山中で大きな衝撃音が響く。
驚く間も無く、潮は走った。
爆発や土砂崩れとは違う、何か得体のしれないものを肌で感じ取った。
そこに行かなければならないと、直感したのだ。
少し走ると鳥居と山中へと続く石段が現れた。
「ここだな」
一段飛ばしで、潮は駆けあがった。
ここで一つ誤解を解かなければならないとすれば、彩樫潮はヒーローではないということだ。
そこに助けを呼ぶ声があれば必ず駆けつけ、自身の犠牲を省みず人のために尽くす、といった気概を持った人間ではない。かといって人助けを全くしないというわけではない。ここに来てばかりのころ、倒れていたおばあさんを救急車が着くまで介抱したこともあった。つまりは普通の善良で一般的な市民であるということだ。
潮は頂上に近づくに連れ、何やら不穏な気配が漂っていることに気付いた。引き返したいと思わせるような空気だ。しかし、それは一般的な外的要因にしか過ぎない。それ以上に頂上へと導く、何か運命づけられたような意思が潮の内から湧き上がっていた。
そうして潮は石段を昇りつめた。
「女……の子?」
潮の目の前、神社があり、倒れた杉の木があり、そして、人形のような少女がこちらを見ながら立っていた。
月夜に照らされ、夜風に靡く銀髪。透き通るように白い肌。妖艶、その言葉以外見当たらないそんな少女。その腕にはなぜかトンファーのようなものが握られ、何やら不思議そうな表情で潮を見ている。
「なんで、一般人が……人払いは掛けていたはずなのに」
そうつぶやく声は潮には届かない。
「あのー大丈夫ですか?何か爆発みたいな隕石みたいなすごい光と音が」
咲華の動揺をよそに潮は声をかけた。自分と同い年の少女がこのような時間帯に、神社の境内に、しかも杉の木が根元から折れ倒れている場所にいることに違和感を抱きつつ、相手に警戒させないように。
「一般人はそこから動かないで!……いや……まさかあなたが憑き主ではないでしょうね」
動揺していた彼女の表情が一瞬で変化する。
敵意を向けられた潮は一歩退きながらも、それを否定する。
「ツキヌシ?いや、そんなことよりも……」
「そんなこともなにもないわ、いい?そこを動かないのよ、さもないと――ッ」
咲華が潮に近づこうとした瞬間、何かが茂みから飛び出した。
咲華は油断していた。犬神が姿を消したのは、深手を負い逃げたからだと思っていた。トンファーバズーカをその身に受けた犬神が反撃に出るよりも逃走を選ぶだろうと思っていたのだ。
しかし、犬神の執念は並々ならぬものだった。そもそも目の前に餌があるにもかかわらず、身動きのできない体で飢餓に苦しんでいたのだ。それが、犬神となり奉られ、供物を給い憑き主の望みをかなえる。そうやって、現世にとどまっていたにもかかわらず何らかの理由でまた飢餓に瀕している。次は獲物を逃すまいと、思わぬわけがない。
犬神は待っていたのだ、油断する時を、餌を喰らうその時を。そして、今、思わぬタイミングで、目の前の脅威より弱い、捕食に適した存在が現れた。
姿を隠していた犬神は、疾風が如く駆ける。
目的は咲華ではない。みすみす不幸な場所へと現れた獲物に対してだ。
「ネコ丸!雷上動を緊急転送!」
咲華がそう叫ぶと先ほどと同様、空中が漆黒にひび割れ0と1の空間が現れ、その中から一張の弓を取り出す。
しかし、それでは遅い。もはや犬神の魔手は潮に迫っている。
今から弓に矢を番えても、放つときには既に潮はやられてしまっている。
咲華は呪った。
自分を呪った。
犬神を一撃で倒したと、弱り切っていると慢心し、すぐに探しださなかったことを、人払いに不備がないか確かめなかったことを、何より、燈明院の血を引く次期当主でありながら『霊切』を抜けなかったことを。
しかし、諦めたくはなかった。目の前で襲われそうになっているのは、自分ではない。何も関係の無い守るべき町民なのだ。弓に矢を番え、力の限り弦を引く。
間に合わない。犬神の鈍く伸びる爪は既に潮を捉えている。咲華は目を瞑った。弦を引く手が弱まる。
「あーくそ!動物愛護団体の人ごめんなさい!!」
そんな声が咲華の耳に届いた。直後、何か大きな物体が神社の方へと吹き飛び、凄まじい轟音とともに神社が半壊した。
咲華の耳に届いた声、それは自分のものでも犬神のものでも、ここに来る途中電話をしていた豆腐屋のタコ頭のものでもない。
ならば誰のものか。半壊した神社から少年の方へと視線を戻す。
「やばい……町からもおこられな、これ」
一般人であるはずの少年、その少年が右の拳をを突き出し、無傷で立っていた。
そう、無傷で。