裁判
東に教会、西に墓場、北に大木、南に雲。
僕は自分の両手を見つめた。さっきと何ら変わらない僕の手だ。なのにもう、違うものだ、この手は決断したのだ。
「むかーしむかし、神様がやって来た」
雲は微笑んでいるはずだった。いつもみたいに、何が起ころうと余裕だとでも言いたげな瞳でいるはずだったのに。
しかしいま、そうではない。
何かに怯えていることを隠そうとしているのか、優雅な笑みは強ばっていた。
「神様は教会を建てて、この街で仲良く暮らしました」
でも、と雲は言う。
「そんなのは昔話だ。子供向けに捏造されている」
「どういうこと?」
「神様は失敗したのさ」
そう言って、雲は壁に取り付けられた小さな扉の奥から、あの刃物を取り出した。
「く、雲……」
「心配するな、大丈夫だ」
夢で見たものよりずっとしっかりしていて、刃も柄も黒ずんでいた。大人の男がやっと握れるような太い木の枝を加工して作られている柄は何やら迫力があるような気さえしてくる。
「雲……それが、魔法かい、?」
「そんなわけが無いだろ。これはな、人殺しの道具だ。こいつで首を斬り落とすのさ」
そんな物騒なものをどうして持っているのかなんて、聞けなかった。雲はその黒ずんだ刃物を愛おしそうに撫でている。
あの黒い染みは、血なのだろうか。
「神様は失敗した、そういうことだ。いつまでも仲良く暮らしましたなんて、あの教会を見ても信じていられるのは子供くらいなのさ」
「仲良く暮らせなかったの?」
「神様は殺されてしまった。こいつで首を斬り落とされて」
「……嘘だろ」
「嘘を言う理由がないな」
「どうしてそんなことをしたんだろう」
雲の髪が輝いている。外で小鳥が鳴いている。
僕の世界は美しい。
「あの山の向こうから彼はやってきて、神様がいないこの街に教会を建てて神様になった。きっと突然のことだったろうな」
「みんな、びっくりしたのかな」
「今まで神様なんていなくたって生きてきた人達は、少なくとも迷える子羊じゃなかったということさ。ここには悩みも迷いもなかったから、神様は生きていけなかったんだ。そういう人間の歪みがないと、正しいとされるものは輝けない」
「だからみんなは、神様を殺してしまったの?」
「昔からこの街は、不必要なものは徹底的に排除してきたからな」
そうなの、か?
みんな仲が良くて、事件もなく平和で安穏とした日々が続く僕らの街には、そんな物騒な話は似合わない気がした。
「あの日、神様は教会から引きずり出されて中央の広場に連れていかれた。街の屈強な男たちは北の大木の枝を切り落として、この刃物の柄にした」
神様は処刑された。
雲は、そう言っている。
「……信じるな」
くぐもった声が聞こえた。
「そいつの言うことなんて、信じるな。嘘八百だ」
気絶していたはずの泥棒が、縄でぐるぐるに巻かれたまま声を絞り出していた。
「神はこの街で幸せに暮らしたんだ。望んで死ぬまで暮らした。そうだろ」
確かに、その方が僕らの街らしい。盗みも殺しも、僕の知る限り起こったことのない街だ。住んでいる人は多くないし、そもそも小さな街だけど、僕らはあの山の木と石と、家畜と海から恵みを貰って慎ましく生きている。隣の隣の家に誰が住んでいるかを知っている。自分の家から一番離れたところに住んでいる人の事も、よく知っている。
ここは幸せな、平和な街。
「ここで、神様の首を斬り落とすなんて残虐なことが起こったはずがないだろ」
泥棒は出来る限り顔を上げて僕を見た。美しい顔をしていた。髪も目も、美しい。
「坊主、自分の生きている世界を信じなくちゃ駄目だ。ここでお前は生きてきた。これからもここで生きていく。お前にとってこの街は、そんな酷い場所なのか!」
「……黙れ!」
鋭く雲が叫んだ。雲の叫び声なんて、今まで聞いたことなかったのに。
「黙れ、邪魔なんだよ……」
「残虐なのはこの街じゃなくお前なんじゃないのか、雲!」
泥棒も叫ぶ。雲の顔がぐしゃりと歪んで、泣きそうなのかと思った。でも、違った。雲は持っていた刃物の柄を床に叩きつけた。
一瞬、音が消える。
「……黙れ、立場を弁えろ」
低く抑えつけた雲の声に、僕はただ圧倒される。
泥棒と雲は睨み合っている。
いいや、雲の言い方で表すなら、英雄と雲が静寂の中で睨み合う。