天秤
「おはよう土竜。なんだか酷い顔色だな」
「ああ、ちょっと嫌な夢をみて」
珍しいな土竜の癖に、なんて朝っぱらから厳しいことを言う。一方、雲はどうやらとても元気なようで、いつものように少し不機嫌そうに立っていた。息をしているし、多分心臓も動いている。赤いものは流れていない。
「さあ、土竜」
雲が言う。昨日聞いたのとは、少しばかり重みが違うような気がした。
「魔法を探そう」
世界を変える。そうだろう?雲。
またしてもしっかりと僕の手首を掴んで歩いて辿りついたのは、町外れの石畳の先、そよ風で折れてしまいそうな桜の樹が3つ並ぶ家だった。雲の家だ。
「中に入って。見せたいものがある」
「いいの?」
「ああ、いいんだ」
ここが雲の家だと知っているけれど、本当に住んでいるのか、確かめたことはなかった。家の中に入ったことはおろか、生活しているところを見たことがない。
小さな、古い家だった。
「ここに入ったことは、誰にも言うなよ」
「どうして?」
「どうしてもだ。いいな」
雲がそう言うのだから、何かとても重要な理由があるのだろう。僕は頷いて、手を引かれて中に入った。
およそ僕の家と同じような感じがしたけれど、所々に見たことのないようなものがあった。
「雲、これは何?」
宝石だろうか?棚の上に、水晶で出来ているのか、透き通る人形が置かれている。朝日を受けてキラキラと輝くそれは丁度手に収まるくらいで、女性の形をしている。髪が長くて、ゆったりとした服を着ていて、背中から鳥の羽根が生えている。
「宝石かい?」
「ただの硝子だよ」
「それにしてはあんまりにも透き通ってないかい? それに、羽根が生えている」
「土竜、それは天使だ。神様の使いだよ」
「じゃあこれは、あの山の向こうの世界のものなんだね」
雲は答えなかった。家の奥に行ってしまう。
雲を追いかけながら、ここで生活していたのだと実感していた。窓辺には野花が活けてあるし、竈の近くには水がたっぷりと入った瓶がある。
ここで、生きていたんだ。
僕と雲が知り合ったのは随分昔のことだったけれど、いつどこでどのように知り合ったのかは覚えていない。いつしかそこにいて、友達だった。雲は賢くて大人しくて、いつも一人で本を読んでいるような子供だった。そんな雲がなんだか珍しくて、五月蝿く付きまとっていたような気がする。
何より、雲があまりに美しかったから。瞳の色も髪の色も、とてもとても、美しかったのだ。
「こっちだ」
そう言って、家の奥にあった扉を開けた。
「く、雲」
「捕まえたんだ、英雄だよ」
「泥棒じゃないか!手紙屋さんに言わないと」
昨日僕を突き飛ばした泥棒が、麻縄でぐるぐる巻にされて倒れていた。怪我はしていないように見えるけど、ぴくりとも動かない。
「さっき言っただろう?ここに入ったことは誰にも言わないようにと。これは秘密だ」
僕は無言で頷く。
「でも、よく捕まえられたね。雲は力がないのに」
「殴って気絶させたんだ」
何を使ったのだろう。思いの外物騒だった。
「それにしたって雲、こっそりこいつを捕まえてどうするつもりだったんだい?手紙は取り戻したのかい?」
「ああ。色々、魔法のために必要だったんだ」
「魔法か」
「そうだ」
僕にとっては泥棒だけれど、雲にとっては英雄なんじゃなかったのか? それをどうして、捕まえて手紙を取り返すなんてことをするのだろう。
手紙泥棒をゴミでも見るかのような目で見下し、雲はポケットからしわくちゃになった封書を取り出した。
「ほら見ろ、取り返した」
もう封は切られていて、中の紙が見えていた。見たこともないくらい美しくて滑らかで、透き通るような紙だった。
「中身は見たのかい?」
「ああ、取り返してすぐ、な。さて土竜、僕らは魔法を探さなくてはいけない」
あろうことか、雲は泥棒の肩を蹴った。
「土竜、土竜……探している魔法とは、どんなものだと思う?」
脳裏をよぎったのは大きな刃物だった。雲が握っていたあの牛でも解体できそうな刃物が、今にも出て来るんじゃないかとひやひやする。
「世界を変えるもの、だろ」
「そうだ。とても大きな力だ。そいつはいとも簡単に世界を一変させてしまう」
さあ、土竜。
「選んでくれないだろうか」
雲は微笑んだ。
最後に決めるのは、君なんだと。